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「エスパー雀士ミハルの憂鬱」第十話【全十三話】



  「高次脳機能障害、、ですか?」
 担当医から聞き慣れない病名を明かされたのは、瞬が交通事故に巻き込まれて病院に担ぎ込まれて、さらに数日が経過した頃だった。思えば、数日の間、瞬と同じ病棟で入院していたことになる。瞬はひとりで両親を若いうちに亡くしていた。全く違う境遇で育ったとしても私たちは似た者同士なのかもしれない。
 「交通事故が原因による高次脳機能障害にもいくつか種類があります。鳴海さんが患っているのは、エピソード記憶障害。体験したことを忘れてしまうというものです。そのエピソード記憶障害にも二通りありまして。古い記憶を思い出せなくなるものと、古い記憶は残っているのに、新しく体験する記憶を忘れてしまうというもの。鳴海さんは後者に当たります」
 「新しい記憶を忘れてしまうということですか?」
 「ええ。鳴海さんの場合、【青森に転勤になってから】の記憶がスッポリと抜け落ちているようです。幸いなことに、今現在体験している記憶は失うことはないようです。この先、体験する記憶もおそらく大丈夫でしょう。つまり、鳴海さんの場合、約一年間の記憶だけが失われているということです。これは不幸中の幸いというしかありません」
 「その一年間の記憶というのは、戻るのでしょうか」
 「リハビリ次第かと思います。記憶喪失っていうのはつまり、脳内にたくさんある引き出しの一つに鍵がかかってしまって開けられなくなってしまったようなものです。その鍵さえ見つかれば良いのですから」
 「、、鍵、、ですか、、、」
 医師の言い方は、冷淡そのものに聞こえた。医師にとっては、失った一年間の記憶なんて取るに足らないものだろう。でも、私の存在自体が、失われた記憶の中に埋もれてしまった。瞬と出会ってから今までの記憶が、瞬の脳内から消えてしまったということだ。いや、医師の言い方を借りれば、私という存在が瞬の脳内の引き出しに閉じ込められてしまっているということか。私と出会ってからの記憶だけを失っているという現実は、どうしても私を後ろ向きにしてしまう。全知全能の神が「鳴海瞬の前から消えよ」と、私に警告しているようにすら思えた。
 瞬はベッドから半身を起こして、窓に映る風景をじっと眺めていた。病室から見る色を完全に失った街の風景は、その純度をさらに増しているような気がする。
 「鳴海さん、都築さんがお見えですよ」
 美月さんの声が聞こえていないのか、あるいは聞こえていないふりをしているのか、瞬はこちらを振り向こうとしない。美月さんは背筋をピンと伸ばした姿勢でベッドに近付いた。瞬の肩をぽんぽんと叩いて、
 「鳴海さん、な、る、み、さん?お客様ですよ」
 瞬はやっと振り向いた。細い目を丸くしてじっと私を見ている。
 「、、都築さん、いつもありがとうございます」
 「お花、買ってきたんです」
 枕元のサイドテーブルには、筒型をしたクリーム色の花瓶が置かれている。そこに黄色いガーベラの花を三本挿した。
 「あ、、その時計、、、」
 「え?」
 瞬の視線が私の右手に付けられたCOACHの腕時計に注がれている。
 「この腕時計が、、どうかしましたか?」
 鼓動が速くなる。この時計を見て、瞬は何かを思い出したのかもしれない。
 「あ、いや、、どこかで見たことあるような時計だと思ったもので、、」
 閉じられた引き出しの鍵を見つけることができれば、瞬はきっと失われた一年間の記憶を取り戻すことができる。それには、私と瞬が共通で持っている、いや、持っていたはずの記憶を掘り起こしていくしかない。
 「この時計、ラックスマートの一階に入っている一刻堂で買ったんです」
 「一刻堂、、、」
 「時計屋さんですよ。正面の入口から吹き抜けを横切って右手にある、、、」
 「腕時計、、一刻堂、、、、腕時計、、、、一刻堂、、、」
 瞬は俯き加減で右手で頭を掻きながら、何かを思い出そうとしていた。
 「なにか、、思い出しました?」
 「いや、、、何も、、」 
 「そうですか、、、」
 「ごめんなさい、、」
 瞬が私に向かって、ぺこりと頭を下げた。
 「あ、いや、私はそんなつもりじゃなくって、、、」
 私は恥ずかしさのあまり耳たぶまで熱くなった。瞬は私の表情を読み取っていた。その奥底に私の自我があるということを。瞬の記憶が戻って欲しいのは、瞬の為なんかじゃなくって、私自身の為なんだってことを。私は言葉が出てこなくて、俯いてしまった。
 「さあ、鳴海さん、検温の時間ですよ」
 淀んだ空気を振り払うように、美月さんのハスキーな声が室内に響いた。瞬に体温計を渡した美月さんは、花瓶に挿された三本の黄色いガーベラに視線を移した。
 「黄色いガーベラが三本、、ですね」
 美月さんは感慨深げにそう言って、私を見た。青白い顔をして、目尻に皺を寄せ、優しげに微笑んでいる。
 「それが、、なにか、、、」
 「いえいえ、何でもありません」
 美月さんは窓の外に視線を移した。相変わらず空は厚い雪雲に覆われ、無数の粉雪が舞っている。
 「まだまだ止みそうにないですね」
 私がそう話しかけると、美月さんは窓の外を見つめながら、こくりと頷いた。
 ビピビ、、ピピピ、、、
 検温終了の電子音が聞こえた。瞬は脇の下から体温計を取り出し、美月さんに渡した。
 「六度二分。正常ですね、よかった」
 「、、、今日は少し疲れたようです。しばらく眠りたいのですが、、」
 「そうね。ゆっくり休んだら良いわ」
 そう言って美月さんは、私に目配せをした。
 「じゃあ、鳴海さん、また来ますね」
 私たちは揃って病室を後にした。
 「あまり、焦らないことです」
 病室の扉を閉めた美月さんは私に向かってそう言った。
 「例え、引き出しの鍵が見つかったとしても、その鍵が曲っていたり、鍵穴そのものが壊れていたりしたら、永久に引き出しを開けることはできません。それらはとてもデリケートなものなんです。焦らず、自然に記憶が戻ってくるのを待ちましょう」
 「はい」
 美月さんのハスキーな声は、恐ろしいほどに説得力があった。
 「あ、そうそう。黄色いガーベラの花言葉はご存知ですか?」
 「え、、、希望、と、前進、、なんじゃ?」
 「フフフ、それはガーベラの一般的な花言葉です。ガーベラには色によって特別な花言葉もあるんです」
 「え?そうなんですか?」
 「そう、、、黄色いガーベラが示す花言葉は、、、究極の愛、、、」
 「え?本当ですか?」
 思わず声が裏返ってしまった。美月さんは青白い顔に満面の笑みを浮かべている。
 「しかも、三本でしょ」
 「もしかして、本数にも意味が?」
 「三本が示す意味は、、、【あなたを、愛しています】」
 「ええええ!」
 再び、声が裏返る。
 「私の実家はお花屋さんでね。小さい頃からよく店番とかやらされてました」
 なるほど。どうりで花に詳しいわけだ。
 「鳴海さんには、都築さんとの記憶がまだ戻っていません。でも、記憶がなくっても、都築さんのことをいつも気にしています」
 「そんなこと、わかるんですか?」
 「母がいつも言っていました。毎日、花と暮らしていたら、花の気持ちがわかってくるって、、花の気持ちがわかるようになると、人間の気持ちなんて簡単に分かる。いつもそう言っていたんです」
 私は力を持っていた時のことを思い出す。あの頃は、他人の心が手にとるようにわかってしまった。そのせいで自分の言動は随分と制限されてしまって、窮屈で寂しい思いをした。自然と、他人の心に振り回される毎日を送るようになってしまった。でも、それは逆に、自我を抑制して、他人を思いやる心を育ててきたとも言えるのではないだろうか。今の私は、自我に塗れている。瞬の記憶を取り戻したい。それは、瞬の為ではなく、明らかに自分の為だ。今の瞬の気持ちを考えたことがあっただろうか。
 「都築さん。こう考えてみたらどうでしょうか。鳴海さんの記憶を取り戻そうとするのではなく、もう一度、新しく作り直すんです」
 「新しく、、作り直す、、」
 「そうです。行動ではなく、意識の問題として。新しく記憶を作り直すという意識で鳴海さんと接していけば、結果として、記憶が戻ることに繋がると思うんですね」
 「意識の、問題として、、ですか」
 美月さんはそれ以上は何も言わなかった。体調が悪そうな青白い顔に微笑みを浮かべ、体の向きを変えて、ナースステーションに向かって歩き出した。背筋をピンと伸ばして。華奢な身体だ。でもその背中はひときわ大きく見えた。

【第十一話につづく】


 
 

 

 

 

 

 

 
 
 

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