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「エスパー雀士ミハルの憂鬱」第六話【全十三話】



 六

  津軽に越してきて二度目の冬が来た。ミハルとは時が経つほどに親しくなっては来たものの、一線は越えられぬままであった。なにより、自分の口からミハルに想いを伝えていない。ミハルの方も、俺の心の内は洗いざらいわかっているはずなのに、俺のことを避けるわけでもなく、だからといってミハルの方から距離を詰めようとはしてこない。
 ミハルには俺の心がわかるのに、俺にはミハルの心はわからない。そのことが何とも理不尽で不公平な気がした。
 「想いは言葉にしないと伝わらないよ」
 ミハルの言葉を思い出した。ミハルは待っているのだろうか。俺がきちんと想いを言葉にすることを。
 クリスマスを間近に控えたある日のことであった。店内のBGMはクリスマスソング一色になり、売場の装飾も赤と緑を基調にしたクリスマスカラーで溢れていた。
 店内の賑やかな光景とは裏腹に、空はどんよりと曇っている。重さに耐えかねて地表に落ちてきそうな分厚い雪雲は、太陽が空の舞台に上がることを断固として拒否していた。三日三晩降り続いた雪は止んでいたが、気温は依然として氷点下で、外は一面の銀世界だった。
 一階の正面入口から入って吹き抜けを横切り、すぐ左手に「一刻堂」という時計屋さんがテナントで入っていた。俺は夕食の買い物客でごった返す店内を巡回中、「一刻堂」の前で足を止めた。
 ショーウィンドウに飾られている女性用の腕時計に目が止まった。煌びやかなゴールドのブレスレット。黒い文字盤の上に浮かび上がるようにブランド名がアルファベットで刻印されている。文字色もやはりゴールドだった。ゴールドと黒を基調にしたその腕時計は、照明の光を浴びてキラキラと輝いている。ミハルの白い腕によく似合うような気がした。
 「相手の心が読めてしまうってことはね、自分の行動を著しく制限してしまうことなの」
 ミハルはそう言っていた。好きな男性ができたとしても、その男性がミハルのことをなんとも思っていないということが【最初からわかってしまってしたら】何もできない。逆に、なんとも思っていない男性に想いを寄せられてしまったら、やはりその相手から距離をとるようにしてしまうだろう。
 「世の中にはね、知らない方が良いことの方が圧倒的に多い。私は今まで生きてきた三十八年間でそのことを学んだ」
 ミハルはこうも言っていた。知らない方が良い情報を無理やり知らされ続けたミハルの人生はきっと孤独だった。ミハルに惹かれている。ミハルのことが好きだ。でも、未だに俺は自分の気持ちを言葉で伝えていない。いや、もとより、俺の気持ちはミハルには筒抜けのはずだ。たまに一緒に食事に行ったり飲みに行ったり、、、仲の良い友達同士の関係以上にはなっていない。
 あの白く美しい手を握ることもなければ、細長い指で触れられたこともない。恋人としてミハルと付き合い、いずれ結婚するという未来は、俺にとってはとてつもなく高いハードルのように思えた。棒高跳びの世界記録保持者ですら尻込みするほどの、、
 ミハルに悲しい思いはさせたくないし、これ以上の孤独感を味わって欲しくはない。今の自分の立ち位置は、千鶴に勝負を挑んだ時の義春と同じなのかもしれない。
 「勝負、、、か、、、」
 千鶴は麻雀の勝ち負けではなく、勝負に挑む義春の姿勢を試していたに違いない。麻雀は、打つ者の哲学を映す鏡のようなものだ。俺はミハルに試されているのだろうか、、それとも、俺が知らないだけで、ミハルにはすでに恋人として付き合っている男がいるのだろうか。ミハルのことを考えれば考えるほど、ミハルに対する愛情が濾過されて、結晶のように浮かび上がる気がした。ミハルが豆を挽いて、旦那さんのために淹れるコーヒーは愛情に溢れていただろう。俺はミハルの淹れるコーヒーを飲む資格があるのだろうか。
 俺は右手の甲を見つめた。年相応に皺が入った皮膚に青白い血管が蜘蛛の足のように浮き出ている。ミハルの白く美しい手には遠く及ばないし、義春のよく日に焼けてゴツゴツした男らしい手にも敵わない。身体のパーツひとつひとつが、今までの俺の人生を投影するように、全て中途半端のような気がした。
「副店長さん、彼女さんにクリスマスプレゼントですかあ?」
 突然、頬のそばかすがやけに目立つ小柄な女性従業員が話しかけてきた。赤みがかった茶色い髪を後ろで束ねている。俺はやっと我にかえり、再び腕時計に焦点を合わせた。
 「この時計、人気なのかな?」
 「さっすがあ、副店長。お目が高い。これはCOACHの時計ですねー。三十代の女性には一番人気のブランドですう」
 「三十代?」
 「あら、副店長の彼女、三十代じゃなかったでしたあ?」
 「えっ?なにそれ」
 「え、あ、いや、何でもないですう、、」
 女性従業員はそう言いながらも、俺の顔を見てニヤニヤしている。
 「これさ、ひとつとっといてよ。クリスマス前には買いに来るからさ」
 「あいあいさー、ありがとうございますう。彼女さん、きっと喜びますよお」
 まったく、馴れ馴れしい。テルみたいな女だ。テルといえば、ミハルにふられてからというもの全く雀荘に顔を出さなくなった。気持ちを入れ替えて、真面目に勉学に励んでいるのだろうか。
 女性従業員は、COACHの時計が入った黒い箱を両手に持って、カウンターの後ろにさがった。まるで海賊船から引き上げた貴重な宝飾品を持ち運ぶように。後ろで束ねた赤みがかった栗色の髪がわずかに靡いている。俺は真っ赤に染まったテルの頭髪を思い出していた。俺は一刻堂をあとにし、食料品の売場へと向かった。

 ※※※※※※

 午後四時の食品売場は書き入れ時ということもあり賑やかだった。
 「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、ご利用、ごりよー」
 あちこちでお客さんを呼び込む従業員の声が聞こえる。俺はそんな中、売場を巡回していた。
 「すいません」
 背後から声をかけられ、振り向くと、グレーのニット帽を目深に被り、黒いマフラーを口元まで隠すように巻き、さらに色の濃いサングラスをかけた中肉中背の男が立っていた。ほのかなアルコール臭も漂ってくる。見るからに怪しげな出立ちなのだが、冬の青森にはこんな出立ちの男は珍しくない。とにかく外の寒さが尋常ではないからだ。
 「いらっしゃいませ。どうかなさいましたか?」
 「卵の売場を探しているのですが、どこでしょうか」
 どこかで聞いた事のある声のような気がしたが、思い出せない。問い合わせの内容については取り立てて珍しいものではない。
 「ご案内いたします」
 俺は特に警戒することもなくそういって、卵売場に向かってコンコースを歩き出した。その直後だった。
 「副店長!危ない!逃げてください」
 背後から甲高い悲鳴にも似た声が鼓膜を震わせた。ミハルだ。
 「えっ、、」
 反射的に振り向こうとした瞬間、背中を思い切り押された。俺はバランスを崩しながらも体を捻ってコンコースに尻もちをつく形になってしまった。
 次に目に入ったのは、床に飛び散る真っ赤な滴。それが血だと分かるまで数秒の時間を要した。ニット帽の男が真っ赤に染まったバタフライナイフを両手に持って震えている。
 血の滴がクリーム色の床を真っ赤に染め上げていた。そしてさらに数秒後、ミハルが腹部を押さえてうずくまっている姿を目の当たりにした。
 「貴様、何をするか!」
 俺が何かを叫ぼうとする前に、甲高い声がフロアに轟いた。警備責任者の望月だ。その体型からは想像できないソプラニスタのような叫び声に、フロア中の客、従業員が集まり始めた。
 俺は立ち上がると、ニット帽の手首を右足で思い切り蹴り上げた。血塗れのバタフライナイフが床に転がり、血の雫を点々と増殖させてゆく。
 「副店長!救急車!早く!」
 望月は後ろからニット帽を羽交い締めにしながら、いかにも警備責任者らしい視線を俺に向けた。俺は交換手に連絡をして、救急車を手配させた。その直後、すでに到着していた警官三人、それはまるで三つ子のように体格も仕草もそっくりだった、がニット帽を確保し、そのうちの一人が手錠をかけた。ニット帽は頭を落とし、警官隊に連れていかれた。その後ろ姿を見て我が目を疑った。ニット帽に収まりきれない真っ赤に染めた頭髪が蒼白い首筋を覆っている。その赤い頭髪には見覚えがあった。しかし、なぜ彼がバタフライナイフを忍ばせて店内に忍び込み、ミハルを刺す必要があるのか?いや、そうではない。
 「テルは俺を刺し殺そうとしていた」
 ミハルが俺とテルの間に割り込んで身代わりになったのだ。救急隊がストレッチャーをガラガラと転がしながらやってきた。ミハルはすでに意識を失い、ぐったりと血に染まった床に蹲っている。救急隊の呼びかけに全く反応しない。俺は何もできずにその場所で呆然と立ち尽くしていた。
 なんで、こんなことが、、、ミハルはストレッチャーに乗せられ、救急車で病院へ運ばれた。俺も付き添って病院に行きたかった。しかし、副店長として混乱した店内を修復しなくてはならない義務があった。

 ※※※※※※

 仕事場でミハルが刺されたということがあまりにも非日常的で、まるで夢を見ているような気がした。しかしそれは現実に起こったことであり、それを自覚するまで数時間を要した。店内で殺人未遂が起こった。それ自体が大事件であり、店の責任者として関係各所への報告業務に忙殺させられた。
 閉店時間を過ぎても事故報告書の類をまとめることが終わらず、退社時間がこれほど遠く感じたことはなかった。やっと仕事が終わり、帰り支度を始めたのは夜十時をまわった頃だった。タウンジャケットを肩にひっかけ、階段を駆け降りる。警備責任者の望月が受付で待ち構えていた。
 「副店長、タクシー来てますから、急いで!」
 甲高い声をこれほど頼もしいと思った日はなかった。
 「もっちゃん、ありがと」
 俺は社員通用口の前で待っていたタクシーに乗り込んだ。行き先はあらかじめ望月が運転手に伝えていたらしく、タクシーは猛吹雪で一メートル先の視界すら霞んでしまう道を走り出した。
 「、、こんな天候なのに申し訳ないけど、急いでくれる?」
 「事情は聞いてます。これでも若い頃は走り屋で鳴らしていました。任せてください。シートベルトちゃんとつけてくださいよ」
 事情を聞いているのにも関わらず、こんな軽口をたたく運転手に、不思議と嫌悪感は抱かなかった。俺は運転手の指図どおりにシートベルトをつけた。それにしても、標準語を話す運転手は初めてだ。それほど年齢が若いとも思えないが、この男も全国各地を転々として青森に流れ着いたのだろう。
 タクシーは速度を上げた。正面から吹き付ける雪をワイパーが必死で溶かしている。速度計は八十キロを指していた。雪道をこんなスピードで走って大丈夫なのかと思う反面、ミハルが死んでしまったら、俺もこのまま、交通事故で死んでしまっても構わないと思った。病院に到着するまでの十分間が永遠に感じた。ミハルの安否を知りたいという欲求と、ミハルの死を知りたくないという恐怖で俺の心は押し潰されそうだった。いや、ミハルに何かあれば店に連絡が来る手筈になっている。ミハルはまだ生きている。俺は頭を横に強く振って、軟弱な思考を振り切った。そして、今改めて思う。
 「ミハルのそばにいられるのは俺しかいない」
 そう思うと、少し気持ちが楽になった。
 病院の玄関前にタクシーが滑り込んだのは、店を出て正確に十分後のことであった。料金メーターは九百四十円を表示していた。俺は千円札を二枚渡した。
 「中途半端だけど、謝礼もこめて。ありがとう。助かりました」
 俺はそう言ってタクシーを降りた。
 「幸運を祈ります」
 運転手はそう言って十字を切った。クリスチャンなのだろうか。バタンと後部座席のドアが閉められ、車は速やかにUターンをして何処かに向かった。次の客を捕まえにいくのだろう。
 外は深い闇に沈んでいる。粉雪が玄関の灯りに照らされて宝石のように輝いていた。夜間救急受付と赤字で書かれた看板が目についた。こんなものまで今の俺には不吉に感じる。
 午後十時半の玄関ホールはしんとしていた。受付にはもうとうに現役は終わりました、と言いたそうな白髪の老人が退屈そうに座っていた。
 「あ、、あの、、、都築ミハルの知り合いですが、、」
 老人は怪訝そうな顔をこちらに向けた。
 「知り合い?身内の方じゃなくて?」
 「あ、、あの、、ミハル、、いや、都築さんには身内はいないはずです」
 「すると、あなたは、身内ではないけれども親しい方だと、、」
 どうも人をいらつかせる喋り方をする老人だ。彼に対する苛立ちのせいなのか、、ミハルへの想いが言葉になって飛び出してしまったのかわからない。
 「、、、婚約者です」
 気づいたらそう答えていた。その瞬間、老人の顔から警戒心が解けた。
 「わかりました。少々、お待ちください」
 老人は目の前に置かれた固定電話のボタンゆっくりと押した。ひとつの数字を押すたびに、若い頃の思い出に苦虫を噛み潰しているような表情を浮かべている。
 「夕方搬送された都築ミハルさんの身内の方がお見えです」
 いつのまにか身内に昇格していた。淡々とした口調だった。おそらくこの老人は同じセリフを年がら年中繰り返しているのだろう。すぐにパタパタとナースサンダルの足音を響かせて看護師がやってきた。痩せてひどく顔色の悪い看護師だった。
 「お身内の方ですか?」
 看護師の問いかけにはノーと言えない力強さと緊迫感があった。
 「、、はい。ミハルは無事なのでしょうか」
 「緊急手術を行って、今は集中治療室です。一命は取り止めましたが、出血がひどく、かなり危険な状態です。どうぞこちらへ」
 顔色の悪い看護師の後について仄暗い病院の廊下を歩く。夜の病院には死のイメージがどうしても付き纏う。消毒用アルコールの匂いが鼻をつく。その香りですら、死を連想させる。集中治療室の前で看護師は足を止めた。
 「こちらでしばらくお待ちください。今、先生が懸命に治療をなさっておられます」
 そう言い残すと、看護師は集中治療室の扉の奥へ消えていった。俺は茶色い皮張りのソファに腰を下ろした。酷く硬くて、酷く冷たい。もう後戻りはできない。俺はミハルの唯一の身内になったのだ。少なくとも今の瞬間だけは。
 しかし、今の俺には何もできない。自分の無力さに嫌気がさす。今はただじっとミハルの生還を祈って待つしかない。あの白く美しい手に、COACHの腕時計をつけてあげる。くりくりとしたどんぐり眼が俺を見つめる。俺は想いを言葉にして伝えて、、ミハルに口づけをする。いや、、そうならなくても、ミハルが生きてくれてさえいればそれでいい。
 ミハルに対する様々な思いが脳内を駆け巡った。神経は眠りを断固として拒否していたが、身体の疲労には抗うことができなかった。俺はいつのまにか、睡魔に襲われていた。

 ※※※※※

 夢を見た。雀荘で卓を囲んでいる。いつもの雀荘ではない。黒いシミがあちこちにこびりついている板張りのフロア、手積みの雀卓、そして、片隅で耳障りな音を立てる扇風機。まるで昭和にタイムスリップしたようだ。
 「ミハルちゃん、俺が勝ったら、、約束通り、俺と結婚してくれるんだよね」
 (、、、、なんだと?)
 声の主はテルだった。目深に被っている灰色のニット帽から燃えるような赤髪が這い出している。テルの対面に座っているミハルは何も言わずにただコクリと頷いた。
 「よっしゃ!おい、副店長さんよ、俺たちの邪魔はするんじゃねえぜ」
 俺はテルの下家に座っている。俺の対面は、シゲさんだった。開け放たれた窓から真夏の陽光が刺し、雀卓をジリジリと焼いている。かつては緑一色だったはずの卓の表面はひどく色褪せていて、何年も手入れされていない芝生のようだった。
 その日のテルは絶好調だった。最終局を迎え、ミハルとの点差は二万点以上あり、逆転は不可能のように思えた。親はミハル。圧倒的な点差があっても、ミハルの表情はいつもと変わらない。背筋をピンと伸ばし、卓と向き合う凛とした姿勢は、おばあちゃん譲りなのだろう。
 十四枚の配牌をミハルのどんぐり眼が見つめていた。直後、白く長い指が、牌を静かに倒していく。
 「、、ごめんね、、上がってるみたい」
 「な! なんだと!」
 テルが思わず立ち上がって、倒されたミハルの手牌を睨む。十四枚の手牌は、まるであらかじめ予定されていたように揃っていた。天和。親の役満(最も点数の高い手のこと)。二万点以上あった点差はひっくり返され、ミハルの逆転勝ちだった。
 「テルは何回やっても、私には勝てないよ。いい加減、諦めて勉強しなよ。親が泣くよ」
 「ふ、、ふざけるな!こんなこと、、あってたまるか!」
 テルはニット帽を脱いで卓上に叩きつけた。真っ赤な頭髪が、窓から差し込む陽光を浴びて、山火事のように燃え上がっている。ミハルは静かに立ち上がり、立ち去ろうと入口の扉に向かって歩き出した。その直後、テルはジーパンのポケットからバタフライナイフを取り出した。折り畳まれたナイフを広げるカチャリという不吉な音がやけに大きく響く。剥き出しになったナイフの刃が陽光を反射し一瞬、煌めいた。
 「ミハルちゃん!危ない!」
 「え?」
 ミハルが振り向くより一瞬前に、俺はミハルを守るために壁となって立ち塞がった。テルの両眼が充血している。形の良い眉毛は憎悪のために釣り上がり、バタフライナイフを持つ右手は微かに震えていた。
 「副店長、、、やっぱりテメェか。よそもののくせにミハルを誑かしやがって!二人とも死んじまえ!」
 ナイフの刃が俺の脇腹を貫こうとする寸前、勝手に身体が動いた。俺の右手が、ナイフを持つ手首をがっしりと掴み、ぐいと右側に捻った。いや、それは俺の右手ではない。その手はよく日に焼けていて、指は太くゴツゴツとしている。
 義春、、、俺はいつのまにかミハルの祖父、義春になりかわっている。捻りあげられたテルの右腕から、バタフライナイフが離れ、床に落ちた。
 「て、、テメェ!何しやがる!」
 ナイフを拾おうとしゃがみこんだテルの横顔を思い切り蹴り上げた。義春のよく鍛えられた右脚はテルのこめかみを正確に捉えた。テルはその場で意識を失った、、、、

 ※※※※※※

 「、、、、、ましたよ、、」
 「終わりましたよ、、」
 看護師の声で目を覚ました。夢の余韻が全身を支配しているようだ。
 「治療はひと段落しました。今はぐっすりと眠られています。翌朝ならば面会できる状態になると思いますが、どうなさいますか」
 「え、、あ、あの、今何時でしょうか?」
 「深夜の三時過ぎです。一度お帰りになって、お休みになってからまたお越しになると良いのではないですか?」
 「このまま、ここで待ちたいのですが、それでも構いませんか?」
 看護師は少し驚いたようだった。
 「それは構いませんが、夜が明けるまであと四時間近くありますが、、こんなところで寝てしまったら体調を崩しますよ」
 淡々とした口調だった。青白い顔に汗が滲んでいる。空調のせいなのか、疲れのせいなのか判別がつかなかった。俺を気遣っての言葉とはいえ、その実、俺に不信感を持っているのではないか、という気もした。とりあえず家に帰らせて厄介払いをしたいのではないか。
 「せっかく明日はデートの約束をしてたのに、こんな時間まで仕事なんて、聞いていないわ」
 そんなセリフが聞こえてきそうな表情だった。
 「ここで待っていなくちゃいけないような気がするんです。俺は不審な者ではありません」
 ワイシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出し、自分の名刺を一枚、看護師に渡した。
 「ラックスマートの副店長さんなんですか?」
 「はい、一応」
 看護師の表情が少し和らいできたような気がした。
 「あ、あの、、H大に入った私の弟が今年の春からそちらでお世話になってるんです。たしか加工食品に配属された、と言ってました」
 「そうなんですか。それはまた偶然です」
 「呑気な性格で、おっちょこちょいだから、お店に迷惑をかけてるんじゃないかと思いますが、よろしくお願いします」
 そう言って看護師はペコリと頭を下げた。
 「心配はいりませんよ」
 俺ははっきりとそう答えた。今年の春ということは、おそらく、ミハルに書類選考を任せた時に入社したアルバイトだろう。
 「あ、ちょっとこのまま待っててくださいね」
 看護師は集中治療室とは反対の方向に向かって、早足で歩き出した。廊下の突き当たりを右に曲がって見えなくなったと思ったら、すぐに両腕に何かを抱えて戻ってきた。
 「あの、空調はかけてありますが、なにぶん寒い時期なので、もしよければ使ってください」
 見ているだけでも、ぽかぽかと身体があったまりそうなえんじ色の毛布だった。
 「それでは私はこれで。くれぐれも風邪などひきませんよう、、」
 看護師はそう言い残して立ち去った。肌触りの良いカシミヤの毛布だった。なぜ病院にカシミヤの毛布が常備されているのか不思議だったが、今は心身ともに、ただ眠りを欲している。えんじ色の毛布に包まると、再び強烈な睡魔が襲ってきた。

 ※※※※※※

 肌寒さに目が覚めた。寝相が悪かったのか、身体を包んでいたはずの毛布はソファの下に落ちて、死の匂いを思い切り吸い込んだリノリウムの床を温めている。
 ソファの背後には大きな窓があり、殺風景な外の景色を映し出している。飽きもせず粉雪が舞っていた。夜が明けても、灰色の空がどこまでも続いている。
 床を温めている毛布を拾って折り畳み、ソファの上に置いた。尿意を感じてトイレに向かう。長い放尿を済ませて、洗面所で丁寧に手を洗い、鏡に向かった。ぼさぼさになってしまった髪を手ぐしで直し、ワイシャツの第一ボタンを止めて、緩めたネクタイをきちんと締め直した。スーツはよれよれだし、ひどく疲れた顔をしている。冷たい水で顔を洗い、上着の前ボタンをとめると少しはましになった。
 ワイシャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出し画面を見ると、時刻は午前七時十五分を表示している。集中治療室の前に立ち、入口の扉を見つめた。所々塗装が剥げているクリーム色の扉の中央が磨りガラス状になっていて、中の様子は全くわからない。扉の上には緑色に白抜きの文字で「集中治療室(ICU)」と表示されている。
 「お目覚めでしたか」
 後ろから声をかけられた。振り向くと昨日の痩せた看護師が立っている。相変わらず青白い顔をしていたが、一仕事終えたような晴れやかな表情をしていた。心なしか声にも張りがあるような気がする。
 「都築さんは、今しがた一般病棟に移りました。もう心配いりません。一週間ほどで退院できるだろうと、先生もおっしゃっていました」
 「、、そうですか。安心しました」
 「ご案内します」
 俺は顔色の悪い看護師の後について歩き出した。

 ※※※※※※※

 「まったく、、、酷い寝相だったわ。ビールと日本酒とウイスキーをちゃんぽんして、公園のベンチで酔い潰れてるサラリーマンみたい。私が目の前を運ばれていくのも全く気が付かないんだから、、」
 ミハルの第一声がこれだった。どんぐり眼を細めて、クスクスと笑っている。しかし声にはいつもの張りがない。頬が痩けて、顔は青白く生気が感じられない。生死の境を彷徨っていたのだから無理もないだろう。
 「ミハルちゃん、ごめんね、、俺のせいで」
 「ううん、元はと言えば私の蒔いた種だから、、」
 点滴の管が痛々しい。輸液容器から点滴筒に落とされる薬の一滴一滴が、時の流れをひどくゆっくりにしているような気がした。
 「集中治療室で目が覚めたとき、看護師さんが言うのよ、、外でずっと婚約者さんがお待ちですよ、って」
 恥ずかしさに耳たぶの先まで熱くなった。
 「でもね、きっと副店長、、じゃなくて、瞬が来てくれたんだ、って思ったの」
 「うん、、」
 「、、ありがとう」
 そう言って、ミハルは点滴が繋がれていない左手を俺の前に差し出した。白くて長い五本の指は、生死の境を彷徨った後も美しく並んでいる。俺は両手でしっかりとミハルの左手を握った。
 「手が震えてるよ、、瞬、、」
 こんな時にどんな言葉をかけてあげたら良いのかわからなかった。ミハルの体温を感じる。ただただ、このままずっと、ミハルの手を握りしめていたかった。

【第七話につづく】


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