見出し画像

「エスパー雀士ミハルの憂鬱」第七話【全十三話】



 七

  病院の正面玄関からタクシーに乗ったのは八時半頃だ。店の開店時間にはなんとか間に合いそうだった。
 「ラックスマートまでお願いします」
 「あれ?昨晩のお客さん?」
 バックミラー越しに運転手がこちらを見ている。
 「あ、、偶然ですね」
 「まったく。大切な人はご無事でしたか?」
 「ええ、一命をとりとめて、集中治療室から一般病棟に移りました」
 「それは良かった。ひとつお祝いといきましょう」
 「お祝い?」
 「なあに、こんな時間からしかも車の中で酒を飲もうってわけじゃありません」
 運転手はダッシュボードから紙コップの束を取り出し、パッケージを開けて、一つを俺に差し出した。俺が紙コップを受け取ると、ドリンクホルダーにおさまった小型の魔法瓶の蓋を開けた。コーヒー豆の芳しい匂いが狭い車内に充満していく。
 「北海道の某有名コーヒー店から、通販で良い豆が手に入ったんです。これからお仕事でしょう。目が覚めますよ」
 そう言って、運転手は魔法瓶を傾けた。
 「熱いので注意してくださいね」
 黒い液体が紙コップに注がれていく。白い湯気とともに立ち昇る薫りが疲労を心地よく和らげてくれる。この香り、、、コーヒーなのに、まるでハーブのような香りのするコーヒーに俺は心当たりがあった。
 「これ、マンデリンですか?」
 「良くわかりましたね。その通りです。私が一番好きなコーヒーです」
 運転手は自分の紙コップにもコーヒーを注いで、蓋を閉め、魔法瓶をドリンクホルダーに戻した。
 「それでは、、お客さんと【お客さんの大切なひと】の永遠なる幸せを祈って、、乾杯」
 そう言って、運転手は紙コップを目の高さに掲げた。俺も同じ動作をして、紙コップを傾ける。熱い液体が食道を通過していった。その時になって初めて、昨日からの一連の出来事が現実性を帯びて感じられるようになつた。ミハルの白くて長い指を思い浮かべる。この手に触れたい、と何度思ったかしれない。ミハルの手は柔らかくて、そして暖かかった。その感触がありありと蘇ってくる。
 「運転手さんはこちらの方ではないんでしょうか」
 「え?どういうことです?」
 「いや、今まで乗ってきたタクシーの運転手さんって大抵、津軽弁を使ってらっしゃったので、、」
 「ああ、なるほど。私の生まれは横浜です」
 「やっぱり、こちらの出身ではなかったんですね、、」
 「私もまさか今、こんなところでタクシーの運転手をしているとは十年前、、いや、五年前には想像もしていませんでした。人生、いろいろあるものです」
 歯切れの良かった口調が、少しずつトーンダウンしていく。ミハルが無事だったことに安堵し、少し口が軽くなっていた。聞いてはいけない質問をしてしまったことに対して後悔した。運転手はコーヒーを一口啜るように飲むとまるで独り言のように自らの身の上を語り出した。
 「私は転勤族でしてね。ここに居付くまでは全国を転々としていました。青森に転勤してきたのは四十をすぎた頃です。両親はすでに他界し、四十過ぎのひとり暮らしは寂しいものです。特にこんな雪深い地にいると」
 バックミラー越しに運転手がこちらを見ている。俺は何も答えず、ただ黙って頷いた。
 「勤務先にいた女性に一目惚れしました。色白で小柄な女性でした。年齢は私よりひとまわり下でしたが、彼女は私の運命の人なのだと直感しました」
 「運命のひと?ですか、、」
 「ええ。今思えばそう思い込もうとしていただけなのかもしれません。一年の四分の一が雪に閉ざされた街は、人を臆病にさせるものです。そうではありませんか?」
 「はあ、、」
 「私は彼女の美しい指と、吸い込まれそうな大きな瞳に完全にやられてしまいました。もう、あたって砕けろの精神で彼女に猛アタックしました。そのうち根負けしたのか、彼女はデートの誘いに応えてくれるようになりました。そして、半年付き合ってから私たちは結婚しました」
 運転手はまた一口コーヒーを啜り、俺の顔をバックミラー越しに覗く。徹夜で仕事をしていたのか、随分と疲れた顔をしている。頬はこけ、唇の色は黒ずんでいる。目尻に刻まれた年齢相応の皺が、瞬きをするたびに、ひどくめんどくさそうに動いた。唯一、充血気味の両眼だけは、爛々と輝いていた。
 「美しい指と、大きな眼、、ですか?」
 「ええ。なんでも以前、手タレをやっていたらしくて、それはそれは美しい手をしていました、、」
 「、、、、、、」
 運転手はバックミラー越しにじっと俺を見つめている。まるでバックミラーを使って、俺の心を覗いているようだ。ひどく居心地が悪かった。
 「あ、、そろそろ急がないと間に合いませんね。つまらない話を聞かせてしまいました」
 運転手は我に返ったようだった。まるで意地の悪い魔女がかけた魔法がとけたように。タクシーは静かに走り出した。車窓から外を眺めると飽きもせず粉雪が舞っている。
 「一緒に生活して初めて感じることって結構あるんです、、」
 運転手は再び、語り出した。どうも最後まで話さないと気が済まないらしい。俺は黙ってコーヒーを啜りながら話の続きを待った。
 「妻はなんというか、、その、人の心を読んでしまう、というか、、考えていることがなんでもわかってしまう、というか、、」
 「はあ、、」
 「こんなことがありました。私はコーヒーの味にうるさい男でして、、コーヒーの味だけは妥協できないんです。結婚する前にそのことを妻に一言、言っておくべきでした」
 運転手はまるで俺に相槌を求めているかのように、そこで言葉を切った。ちょうど車は赤信号で動きを止めていた。雪は飽きもせず
あちらにフラフラこちらにフラフラ主体性など微塵もないかのように舞っている。
 「ある日、妻が淹れてくれたインスタントコーヒーが酷く不味かったんです。決して顔に出したわけではありません。でも妻はそのことを正確に見抜いてきました。次の日、会社から帰ると台所にちゃんとコーヒーメーカーが置いてあったんです。その時、初めて、私は自分がコーヒーの味だけには妥協したくない、ということを妻に伝えました」
 「どうして、結婚する前にそのことを言わなかったんでしょうか」
 「そうですね、、、なんとなく言い辛かったんでしょうね、、、そのことがきっかけで嫌われたくなかったし」
 「そんなことないでしょう?コーヒーくらいで、、」
 「そうかもしれません。しかし、そのコーヒーくらいで、、いちいち味にケチをつける器の小さな男だと思われたくなかったんでしょう」
 「こだわる、ということと、器が小さい、ということはまた別問題だと思いますが、、」
 信号が変わり、タクシーは静かに走り出した。厚い雪雲に覆われた空と、空間を歪に埋めている粉雪が、朝というものの存在価値を完全に失わせている。
 「しかし、妻も、私に人の心が全てわかってしまう特殊な力を持っていることを隠していました。あの時、私たちは、ささやかではあるけれども大切な秘密を初めて共有したのです」
 「なるほど。そうでしたか」
 「コーヒーの問題は解決しました。どこで教わったのか、、、実に美味しいコーヒーを淹れてくれるようになったのです。しかし、人の心が読めるという妻の特殊な力は、私の心の底に大きな大きな石を置いていきました。月日が経っても、その石は小さくなるどころか、ますます大きくなっていくのです」
 「、、、、、」
 「心を覗かれてしまうというのは落ち着かないものです。それが例え愛した妻であったとしても、、、私の心には余白はなくなり、、妻への愛はいつしか恐怖に変わってしまいました。妻の身体に触れることもできなくなり、眼を合わせることすらできなくなりました。もちろん妻にはその感情も筒抜けです。私を追い詰めていることに耐えられなかったのでしょう。別れを切り出したのは妻の方でした」
 「奥さんに心を覗かれるということがそんなに苦痛なことでしょうか」
 「え?」
 「いや、、、愛している人に心を洗いざらい読まれてしまうということは、、俺にとっては、ゴミだらけの海水浴場が綺麗な砂浜に変わっていくような感覚でした」
 「どういうことです?」
 「運転手さんはきっと、、もっと奥さんのことを信用してあげたら良かったんだと思います。ありのままの姿を受け入れてもらえば良かったんです。あなたは奥さんに対して恐怖を感じたと言っていますが、、同時に、奥さんのことを著しく傷つけてしまったことを忘れてはいけない」
 「それでは、あなたなら、、うまくやっていけるというのですか?」
 「うまくやっていける。そういう言い方もよくない。他人の心が読めてしまうという力を、俺は単に彼女の個性だと思っています。俺は、、今まで彼女が受けてきた無数の傷も含めて、、彼女を受け止めたいと思っています」
 「そうですか。わかりました。是非、彼女を幸せにしてあげてください、、」
 タクシーは交差点に差し掛かろうとしていた。右折すれば、店はもうすぐだ。車窓から外を眺める。雪は一層、激しさを増していた。一粒一粒が風に流され、地表に落ちることを頑なに拒否しているようだ。
 そして、突然、睡魔が襲ってきた。それは、今まで経験したことのない強烈な眠気だった。どうやら意地の悪い魔法使いは、俺にターゲットを移したようだ。
 目を瞑って、黒いキャップを目深に被ったミハルが麻雀を打つ姿を思い浮かべた。牌に絡みつく白くて長い指。そして右腕にはCOACHの腕時計が巻かれていた。マンデリンコーヒーのハーブのような残り香が車内に漂っている。ミハルの新雪のように白い指が、黒い魔法瓶の蓋を回す。ピアノの鍵盤を弾く。ミハルの手を両手で握りしめた感触が蘇る。次の瞬間、自分の身体が重力に引っ張られるように大きく揺れるのを感じた。直後、全身を激しい痛みが貫いた。そして俺はそのまま意識を失った。

【第八話につづく】

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?