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📕「小説において風景描写は必要なのか」❺〜日本はまもなく四季ではなく二季になる?



 風景描写と言われてまずピンと来るのが、季節を感じさせる描写。もっと言えば、去りゆく季節、新しくやってくる季節を捉えることで、登場人物の心情をより生き生きと描く。これが風景描写のひとつのあり方だと思う。

 ところが、昨今の異常気象により、春と秋が年々、短くなっている。「日本はそのうち二季になります」と言っている専門家すらいる。いつまでも暑く、いつまでも寒い。ついこの前まで部屋で暖房をかけていたのに、もう冷房をかけたくなる。そんな時代になってしまった。季節の移り変わりまでデジタル化されようとしているのか。

 さて、そうなってくると、現代小説において、ますます風景描写が軽視されることになる。そもそも、四季の流れが消滅してしまえば、極端な話、日本が夏冬だけになれば、希望に満ち溢れた春の風景描写とか、あるいは、人恋しくなり寂しくなるような秋の風景描写というものがリアリティを失ってくる。

 しかし、そういう時代であるからこそ、まだ四季の移り変わりがわずかに残っている今だからこそ、移ろいゆく季節を文学で表現することが必要なのではないだろうか。

 時代を超えて読まれる作品というものに共通しているのは「主題の普遍性」と、それとは相反するようであるけれども、「その時代を感じさせるものが克明に描かれていること」。いや、その時代の社会なり文化なり生活なりを克明に描いているからこそ、その中に潜む普遍的な主題が浮き彫りになるのではないか、と思うのだ。

 そのように思考を進めていくと、消滅しつつある四季の移り変わりを今こそ克明に表現することが、長く読み継がれていく作品を生み出すのではないか、と思ったりする。

 

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