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エスパー雀士ミハルの憂鬱〜第二話【全十三話】

 二

 ゴウゴウという猛烈な騒音で目が覚めた。枕元のデジタル時計は午前六時を表示している。よろよろと布団の中から這い出し、カーテンを開け、外を眺めた。黄色い巨大除雪機が、うなりを上げて、アパートの前の通りをゆっくりと前進している。まるで戦車だ。路肩には、除雪機から吐き出された雪が、堆く積もっている。
 大きなため息をついて、スウェットを脱ぎ、ワイシャツとスーツに着替えた。室内にいるのに、吐く息は白く濁る。カーテンレールに掛けたハンガーから外したダウンジャケットを羽織る。玄関で新品の長靴を履き、扉を開けると、もうすでに雪は止んでいた。会社まで約十分程度の一本道を、サクサクと歩道に敷き詰められた雪の絨毯に靴跡をつけながら歩く。
 空を見上げると、一面に広がる厚い雪雲。太陽がすっかり姿を消してしまった空に向かって、大きなため息をついた。街は一面の銀世界。アスファルトも商店の看板も街路樹も、全て色彩を奪われ、モノトーンの世界が出来上がっている。まるで異世界に迷い込んだみたいだ。
 冷たい風が断続的に吹き抜けていく。その度に、歩道に積もった粉雪が舞い上がる。床屋の前で腰の曲がったお爺さんが、サインポールにまとわりついた雪を、軍手をはめた両手で払っている。焼き鳥屋の赤提灯の前で、小柄なおばさんが、雪庇落としで屋根に積もった雪を落としている。コンビニの従業員が、駐車場に積もった雪をスコップですくっている。
 これが今日から始まる新しい日常なのだ。俺は、俯き加減で新雪を踏みしめながら、新たに通うことになる店へ歩を進めた。
 社員通用門の重たい鉄製の扉を開けて、ダウンジャケットを脱ぎ、手袋をゆっくりと外した。その先のガラス扉を開けると、左手から、「おはようございます」という元気の良い声が聞こえた。弾かれたように視線を向けると、受付カウンターに小柄な女性警備員が立っていた。小顔のせいか制帽がやけに大きくみえた。その下に覗くどんぐり眼を見て、俺はぎょっとした。
 「あ、、雀荘の、、、」
 警備員はどんぐり眼をくりくりさせて、俺の顔をまじまじと見つめている。
 「あら、あの時の、、、」
 「え、えっと、俺、今日から副店長としてこちらでお世話になる鳴海瞬【なるみしゅん】と申します」
 「あ、え、、あ、、し、失礼しました」
 警備員は背筋をピンと伸ばし、俺に向かって敬礼のポーズをとる。
 「あ、、私、警備を担当している都築美晴っていいます。よろしくお願いします」
 敬礼のポーズをしたまま、ミハルは深々と頭をさげた。その拍子に頭に乗っかっていた制帽が受付カウンターの上に落ちた。ショートカットに刈りそろえた栗色の髪の毛がなびいて、柑橘系の香りがほのかに漂ってきた。俺は目の前のカウンターに転がっている制帽を拾い上げて、ミハルに差し出した。
 「え、あ、えっと、ありがとうございます」
 ミハルは慌てて両手を差し出し、制帽を受け取り、慌てて被り直した。新雪のように白く細長い指で、ツバの位置を調整する。指と同じくらい白い頬に、微かに赤みが差していた。俺は強張っていた全身が、少しずつほぐれてくるのを感じた。

 ※※※※※※

 「ミハルちゃん、今の男の子どうかな?」
 ミハルは、社員通用口の受付カウンターに置かれた入退店名簿を凝視したまま、固まった。
 「うーん、だめね。三か月もたないわよ。あの子は」
 「そうかあ。真面目そうな子だと思ったんだけどなあ」
 「ほら、副店長、見てごらんよ。この子の字体、、震えてる」
 ミハルは、アルバイトの採用面接に訪れた大学生の名前が書かれた箇所を指差した。
「うーん、そうかなあ。言われてみるとそんな気もするけど」
「それに、従業員がここを通過するたびに、視線がチラチラと動いていた。極度に緊張しているか普段から落ち着きがないかどちらか。接客業には向かないわ」
「そうか。じゃあ不採用だな。やれやれ」
「そのうち、ちゃんとした子が来るわよ。焦りは禁物よ」
 ミハルはどんぐり眼を見開いて、俺と視線を合わせて微笑んだ。
 転勤先「ラックスマート青森店」は常に人手不足だった。パート、アルバイトとして採用面接に来る者は後を絶たないが、長続きせずにやめてしまう。小売業というのは大変な割に、時給が安い。離職率が極めて高いのだ。パートアルバイトの離職率を下げることが急務なのだが、たかだか十分程度の採用面接だけではそれを判断するのは、極めて困難であった。
 とある日曜日のこと。その日は偶然、新規採用のパートアルバイトの入社教育が行われていた。社員食堂でミハルと向かい合って昼食をとっていた隣のテーブルに、入社教育中の面々が腰を下ろした。ミハルはパスタを絡めていたフォークを持つ左手を止め、俺の方に身を乗り出して囁いた。
 「ねえ、あの七人なんだけどさ。三か月以内に全員辞めるよ」
 果たしてミハルの予言通り、その七人は三か月どころか、一か月もたたずにひとり残らず辞めてしまった。
 「あの女はな、ただもんじゃねえ。まるでエスパーだ」
 雀荘で確か、シゲ爺がそんなことを言っていたのを思い出した。

 以来、俺は採用面接の最終判定をミハルに委ねることにした。その結果、たしかに離職率は低下した。しかしミハルの判定が厳しいのか、面接に合格する絶対数が少ない。人手不足は依然として解決しなかった。
 「ねえ、ミハルちゃんさ。もう少し合否の判定、甘くならないかな」
 ミハルはどんぐり眼を見開いて、頬を膨らませる。その視線は、心を刺し抜いて背後の壁をも焦がすように鋭い。
 「あら、副店長。また、離職率が上がっても私、責任とらないからね」
 「わかったわかった。ミハルちゃん、怒んないでよ」
 確かに、ミハルに合格の太鼓判を押されたパートアルバイトは、皆やめることなく、店の戦力となっていった。しかしまだまだ人手が足りない。学校卒業、家庭の事情等による自然退職者に、人員の補充が追いつかないのだ。俺は頭を悩ませた挙句、妙案を思いつく。それは、ミハルが一番得意としていた筆跡による人格分析を最大限に利用した作戦であった。
 店長に直談判し、新生活が始まる四月初めに、青森県のとある求人雑誌に採用広告を載せた。求人雑誌に採用広告を載せると、余計な経費がかかる。ただでさえ経費削減に躍起になっている時だ。効果のない広告を打てば経費だおれになる。デメリットはもうひとつあった。求人雑誌に広告を載せれば、応募は殺到するだろう。しかし、その全員に対し、ミハルの勤務中に面接をすることは、物理的に不可能であった。
 そこで俺は、面接前に書類選考と称して、履歴書を事前に郵送してもらう方法をとった。その結果、十二人の採用枠に対して五十通もの履歴書が寄せられた。五十通の履歴書をファイリングし、警備室に向かう。もちろん、書類選考をするのはミハルだ。ファイルを小脇に抱えて、警備室のドアを開けると、ミハルは何やらデスクで書きものをしていた。
 「ミハルちゃん、頼むね。今度一杯おごるからさ」
 「オッケー。任しといて。採用枠十二人だったわよね」
 俺からファイルを受け取ったミハルは、即座に履歴書を読み始めた。新雪のように白く細長い指が、パラパラとページをめくる。集中しているときのミハルには、誰の声も聞こえない。唯一聞こえるのは無数に設置されている非常ベルの音と、緊急事態を知らせる店内放送くらいだろう。俺は音を立てないように出入り口のドアノブを回し、警備室を後にした。

 ※※※※※※

 店からタクシーを走らせて向かった馬肉専門店「吉長」は、ウィークデーだったこともありガラガラだった。一番奥まったテーブル席に、ミハルと向かい合って座る。店内にはビリージョエルが流れ、照明は落とされていた。馬肉専門店というより、小冊子になるくらいのカクテルメニューを備えたショットバーのような内装だった。店員がキンキンに冷えたハートランドのグラスを二つ運んできた。
 「ミハルちゃん、お疲れ様。乾杯!」
 カチリとグラスが軽くぶつかる音が聞こえる。ミハルは白いニットのインナーに、サックスブルーのジャケット、白のパンツというスタイルだった。左手でビールグラスを傾けながら、右手で、いつも後ろでまとめている栗色の髪の毛を煩わしそうにかきあげている。制服を着ていないミハルは、ひとまわり若く見えた。
 「一度、ここで食べてみたかったのよね。馬肉大好きなのよ」
 「へえ、なんか意外だ」
 「そおお?ハートランド置いてるってのも良い趣味だよね」
 ミハルは左手で持った割箸で馬刺しをつつきながら、俺の顔を見て笑った。口角が上がったときにできるエクボが可愛かった。俺とたいして変わらない年齢だということを忘れてしまいそうだ。割り箸を操る新雪のように白く細長い指を見つめた。ミハルといると、どうしても顔よりも指に目がいってしまう。なんて綺麗な指をしているのだろう。まるで精巧な作り物のようだ。鼓動が少しはやくなるのを感じる。
 「ミハルちゃんてさ、綺麗な指してるよね。雀荘で初めて会った時から、その指が気になって仕方ないんだけど、、」
 「実はね、昔、指のモデルをしていたの」
 ミハルは箸を置いて、両手の指を広げて前に出し、俺に見せた。シミや傷ひとつない十本の指が、照明の光を浴びて、ひときわ輝いてみえる。
 「指のモデル?そんなものあるの?」
 「あら、知らないの?指輪とか、ハンドクリームとか、腕時計とか、手しか映っていない広告写真とか、CMとかあるでしょ。あれあれ。手タレってやつ」
 「手タレ?ああ、なんか聞いたことあるようなないような、、、なるほど、道理で指が綺麗なわけだ」
 ミハルは俺に見せていた両手を引っ込めて、ビールグラスを傾けた。ひとくち飲んでから静かにテーブルの上に置く。そして、小さくため息をついた。
 「でもね、手タレって、なんか虚しいのよ。だから結局、一年ほど続けたけどやめたの」
 「虚しい?」
 「だってそうでしょ。そこに映っているものは、私の体の一部であっても、ワタシ自身ではない」
 「どういうことかな?」
 「指が綺麗だというのは嬉しいことだと思うけれど、商品より指が目立つことは許されないから、求められるのは、完璧ではあるけれども、無個性な美しさってこと。それに、広告写真に写っている指を見て、どんな人なんだろうって、想像する人なんていないでしょ。だからそこに映ってるのは、私の一部ではあるけれども、私ではないわけ」
 「ミハルちゃん、いつも難しいこと考えてるんだねえ」
 ミハルは再びビールグラスを傾けながら、どんぐり眼を細めて、クスクスと笑った。グラスを持つ新雪のように白く細長い指が、微かに濡れている。
 「なーんてね。本当は綺麗な指を維持するためにいろいろと気を使うのが面倒くさくなっただけ。傷ひとつつけたら商売道具にならなくなるから、そりゃあもう、大変だったのよ」
 そんな話を聞いたせいか、俺はいつもより一層、ミハルの指に目が釘付けになった。その完璧ではあるけれども、無個性な美しさに。手タレになれるような綺麗な指は、それだけでも個性だと俺は思ったが、あえてそれを口には出さなかった。
 「それにしても、ミハルちゃんの特殊能力ってのは、昔からなのかな」
 「そうね。幼い頃から、人の心がなんとなく分かるの、、」
 すこし声のトーンを下げてミハルは答えた。
 「幼稚園の頃かな、ピアノ教室に通っていたの」
 俺はミハルの新雪のように白く長い指が、ピアノの鍵盤を弾いている様を想像した。鍵盤を自由自在に操る手先の器用さがあるくらいだから、麻雀牌を華麗に捌くことなど造作もないことなのだろう、と妙に納得した。
 「ピアノが特に好きだったわけじゃないのよ。親が無理やりにって感じね」
 「そうか。それで?」
 「その先生がさ、まだ三十そこそこの若くて綺麗なひとだったの。でも、そいつ、とんでもないやつでさ。親にはすごく優しい先生を演じてたんだけど、私と二人になると、ものすごく意地悪になるわけ。ミスタッチするたびに、手を叩かれた。そしてものすごい顔して睨むの。すごく怖かった」
 「うん」
 「でもさ、そのことを母親には言い出せなかった。母親は先生のことをものすごく信用していて、とても優しい人だと思っているからね。それを壊したくなかった」
 「うん」
 「でね、最初は、先生も私のためを思って、あえて厳しくしてると思ったわけ。でも、そうじゃないって気づいた」
 「どうしてわかるの?」
 「どうしてと聞かれても困るの。【ただ、そうだと】分かったの。自分なりの確信ね。で、大袈裟なんだけどさ、このままだと、私、先生に殺されるんじゃないかって思ったわけ」
 「うん」
 「である日さ、レッスンの途中でいきなり立ち上がって裸足のまま、窓から逃げた」
 そう言ってミハルはまたどんぐり眼を細めて笑った。俺は笑うこともできずに、ただただミハルの話の続きを待った。
 「でね、もう二度とあの先生のところにはいかない!って、家でわんわんと泣き出しちゃったの。母はびっくりしたわよね。何事かって」
 そして、少し間を開けてから言葉を継いだ。
 「それで、ピアノ教室やめちゃったんだけど、その先生、その後どうなったと思う?」
 「どうなったの?」
 「警察に捕まった、、、傷害でね」
 「ええ、、まじで?」
 「旦那さんを刺しちゃったんだって。ずいぶんと旦那さんから暴力を受けていたみたいよ」
 店内の音楽が「アップタウンガール」から「ディスナイト」に変わった。従業員が空いたビールグラスを下げにきたので、ミハルはおかわりを注文した。
 「ミハルちゃん、ビール好きなんだね」
 「そうね。時と場合によって好きになるわね」
 ミハルは真っ直ぐ僕の顔を見た。頬に赤みがさし、どんぐり眼が少し充血している。五十通の履歴書を読んだせいなのかお酒のせいなのかよくわからなかった。ミハルの新雪のように白く細長い指が、麻雀牌に吸い付くように絡みつく。リズミカルに鍵盤を叩く。その艶かしい指の動きが、映像として、鮮明に脳内に流れる。鼓動がまた速くなるのを感じた。
 会計を済ませ外に出ると、ひんやりとした風が頬を撫でた。空は墨汁をぶちまけたような深い闇に覆われている。こんな闇を使って筆を振るったら、誰もが世界有数の書道家になれるような気がした。
   「副店長、ご馳走さまでした」
 ミハルは俺に向かって一礼して、店の前の通り沿いで客待ちをしていたタクシーに乗り込んだ。
 「ミハルちゃん、また明日ね」
 「うん。明日ね」
 後部座席のドアが閉まる直前、ミハルは俺にむかって手を振った。酔いが醒めたのか、ミハルのどんぐり眼からも頬からも赤みが消えていた。数秒間ミハルと視線を合わせた後、ドアは閉められた。
 俺はスラックスのポケットに両手を突っ込んで、ミハルの乗ったタクシーが視界から消えるまで、その場所に立ち尽くしていた。タクシーは二つ先の青信号を右折し、見えなくなった。ぽつりぽつりと雨が降り出してきた。そういえば夜半から雨が降り出すだろう、と朝の天気予報で言っていたのを思い出した。
 「ついてないな。全くついてない」
 思わず真っ黒な空に向かって呟く。客待ちのタクシーが退屈そうに列をなしていた。しかし、このままタクシーに乗って帰宅する気にはなれなかった。通りを渡った先のコンビニでビニール傘を買った。雨は徐々に激しさを増していく。傘の柄を持つ右手が悴んでくる。雨が激しくなるにつれ気温がぐんぐん下がってきているようだ。俺は、ここから五分ほど歩いたところにある行きつけの飲み屋に向かって歩きだした。とりあえず、もう少し酔いたい気分だった。

【第三話につづく】

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