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謝錦華「非北大哲学系不読」2012/10

標題の直訳は「北京大学哲学系で学んでないこと以外について」。ややひねくれた題目だが(多分、遊びで付けた題目で)、素直に書けば「北京大学系で学んだこと」。『青春歳月在北大ー哲学系1957級同学回憶録』社会科学文献出版社2012年10月pp.144-145

 1955年、私は故郷の「合肥一中」を卒業した。同学は現在合衆国の有名中国人「楊振寧(訳注 1957年ノーベル物理学賞受賞。1964年米国国籍取得。2003年から清華大学に長期滞在。2015年米国国籍放棄。その政治的発言には変遷があり六四事件以降は、愛国的発言に終始している。)」の母校である。1955年に「胡風批判(胡風案)」が全国に広がり、文芸界はとくにその被害が大きく、「肅反(訳注 反革命分子を粛清する運動)」の拡大が作り出された。私の父謝南谷は安徽の話劇団におり離職休養に入った幹部であった。しかし彼は1936年「国立戯劇専科学校」で、趙丹、白楊、張端芳とは同窓で、田漢、曹禺は同校講師だった。そのため「隔離審査」を受けた。私はその余波で(株连于我)受験した「北大哲学系」では採用されず、「山東師院中文系」に分配(分到)された。私はとても不満だったので、二年後、再び受験。老いた母の仏への信仰、「観音菩薩」への願掛け(嘱求)もあって例外的に(出格地)採用された。喜びに狂わんばかりだった(欣喜若狂)。
 1957-1960年初まで在校して学んだ。馬寅初、馮友蘭、鄭盯、任継愈、黄丹森ら有名な専門家の講義は、人をして突然として理解させる(茅塞顿开)もので、十年書を読むのに勝るもの(勝讀十年書)だった。
 同窓生の友情は真に深く、レーニンシティ大学留ソ学生の孫実明は病気のため我々の系に転入したのだが、常にリューダ姑娘から彼に手紙があった。我々は彼に手紙を読むように騒いだものだ。彼は結婚したらすべて公開すると言って、皆をどこまでも笑わせた(众笑不已)。モスクワ大学のキリリエンコは我々の系に留学し、(ともに)芦城に農村に入って(下放して)、田の畔でロシア語で「一筋の道」を教えてくれた、今に至るも良い思い出だ(沁甜至今)。
    反右闘争の後期、今なお恐怖を覚えることだが、「極右分子」は逮捕され入獄した。1958年「大躍進」で労働に下放され、農村の人々との関係はとてもよかった。また周楊の講話を聴いた。「旅館の枕もとの「鼓足干劲」などの字で人は如何に安眠するか。各業務にはその特殊性がある。」。また樊弘が経済学を講じるのを聞いた。略して言えば「市場経済」の補充性である。のちに批判されたと伝え聞いた。また
p.145  「四害を除く」運動(訳注 1958年から62年に行なわれた、ネズミ,蚊、ハエ、スズメを駆除する社会運動)に参加したが、まことに荒唐無稽だった。米帝国主義やソ連修正主義のスズメは飛んで来ることはなかったのだろうか?DNAを変化することには、道理がある。続けて十三陵水庫の修理があり、堪えがたく疲労した。その時、日本はすでに山と海の姿を変えていたのではないか?馬寅初の人口論を批判することは、さらに数学上無意味な根拠なき批判(零蛋的瞎扯)だった。「反右傾」でさらに彭徳懐を打倒したのは、よく理解できないことだ(令人费解)。
 「白旗を抜いて赤旗を挿す」批判闘争で人を死に追いやった!(そうしたことで)安心して勉強できるだろうか。20世紀60年代初めの飢餓は私に浮腫(浮肿)をもたらし、ついには合肥市に病休でもどることになった。1966~76年の「文化大革命」は10年の災難(浩劫)だったが、十一届三中全会で正され(拨乱反正)私は再び教室に戻った。1998年に「合肥服装学校」を引退し晩年を享受している。「莫道桑榆晚,为霞尚满天」(訳注 人生の晩年:桑榆晚においてなお盛んであるさま)、校友の皆さんの百歳までのご健康を祈るものである。

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