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社会主義経済問題研究(第七稿)の執筆 1978年11月~79年1月

(「薛暮橋回憶錄」天津人民出版社1996/2006より)

p.238 1976年10月6日 中央政治局は果断な措置を取り、「四人組(四人幫)」を粉砕し「文化大革命」というこの災難を収束させた。しかし1977年と1978年というこの2年は、正されるべき誤った路線の仕事がなお徘徊しており、深刻な障害となっていた。当時中央主席を担任した華国鋒同志は「四人組」粉砕では重要な役割を果たした。しかし彼の指導思想は依然「左」のモノを引き継いでいた。彼はすべて論を堅持し(すなわちすべて毛主席が決定した政策を、我々は皆固く擁護する。すべて毛主席の指示を我々はたゆまず遵守する)、無産階級の独裁のもと継続革命を行うという誤った理論を堅持していた。老幹部が仕事に復帰することや、冤罪事案の名誉回復について、延期あるいは阻止し、多くの同志による、打倒され権力を奪われている鄧小平など一群の老同志を仕事に復帰させるようにとの要求を拒絶した。経済工作方面では、過去20数年の左の誤りを継承して、建設を急ぎすぎ、再び不適切な高速度を追求、生産関係の処理で「大きなもの」「公なもの」に偏った処理が行われた。1977年に提起された二つの方針(大辦)とは、一つは今後3年以内に全国で農業機械化を基本実現する。もう一つは3年以内で全国で大寨を普及させる。毎年3分の1ずつ大寨県化を図るとするものだった。

p.246 当時すべて論がなお盛んな状況下で、歴史経験教訓を総括するには、20世紀後期以来の「左」傾思潮を批判し、左の誤りをただすことが必要で、それは思いがけず(不准)禁区を超越することであった。というのもこれは毛沢東同志の1957年以後のいくつかの誤のまりと関係している。20数年にわたり、わwれわれの絶対通の同志、とくに指導幹部は、左の誤りは多少の違い、深浅の違い、それを悟ることの遅い早いの違い、はあるにせよ、まったくないということはなかった。少数の同志は認識が早かった、しかし往々にして怖くなり(心有餘悸)あえて話すことはなかった。この禁区に向き合うことは、簡単なことではなかった。

p.247 1978年10月、私は計画委員会の党組織に対して小さなグループで本を書きたいと報告した。計画委員会党組織はこれを批准した。参加した執筆グループの同志は、蘇星、吳凱泰,何建章,余學本。この年の11月、まさに十一届三中全会の前日夕刻、我々は杭州に到着し執筆を開始した。我々は午前8時から12時。午後2時から6時までを執筆時間とし、私を先頭に一律に厳格に守った。(中略)
 12月下旬、我々は杭州で党の十一届三中全会広報をみたが、これは一つの天大の喜びであった。この会議は建国以来のわが党の歴史上深い意義のある偉大な転換(転析)であった。全会が終わったところ、この2年間は工作は徘徊局面だった。文化大革命中とその以前の”左”傾の誤りを全面的に正すことになった。この会議では、固く批判されたのは「ふたつのすべて(兩個凡是)」の誤った方針であり、真理標準問題の討論は高く評価され、思想の解放、脳の筋肉を動かし、実事求是、一致団結して前進という指導方針も確定された。「階級闘争を至上とする(以階級闘争為綱)」というスローガンは果断に使用が停止され、全党の工作の重点は社会主義現代化建設上の戦略方策に転換された。(中略)
 党の十一届三中全会は我々の本を執筆して、歴史経験教訓を総括する熱情を、最高度に鼓舞した。我々はわずか3ケ月という時間で、『中国社会主義経済問題研究』の第七稿を書き上げた。この間に元旦と春節が過ぎ去ったが、我々は年越しも春節の祝いもすべて忘れていた。
 私が本書の中で表明した中心思想の主要内容は以下の問題である。
 社会主義を建設するには客観経済規律を尊重しなければならないことを強調した。歴史経験が証明するところでは、客観規律は「どこにもあり、どこにもない」ものだ。あなたの行動がそれと対応しているとき、それはあたかも存在しないかのようであり、あなたがそれに違反すると、それはあなたに懲罰を与える。(中略)
 その次に私は過去二十数年わが国社会主義建設が受けた挫折は、我々の左方面から客観経済規律に違背が生じ、”左”傾の誤りを犯したからだということを体系立てて論証した。
 第一に私は生産資料所有制問題がすぐに実現するという過渡的誤りを批判した。(中略)
 第二に労働に応じた分配の規律という誤りを批判した。(中略)
 第三に過去にあった商品貨幣と価値規律の問題上の誤りを批判した。(中略)
 (中略)
p.251 価値規律については、わが国で流行の政治経済学の教科書は大体つぎのように書いていた。「価値は社会必要労働量で決定される。各種の商品はその価値にしたがって交換される。」私は本の中で新しい解釈を提出した。価値規律を全面的に認識するには、その運動状態を認識しなければならない。需給(供求)関係が変化すると、各種の商品の価格は自身の価値に比べて高くあるいは低くなり、価格は価値から乖離する。需給関係の変化は、価格をそれぞれの方向への変動をもたらす。実際上価値規律は価格を通して、価値を中心に(価格が)上下に波動して実現する。私は規律とはモノの運動規律だと考える。価値規律は需給規律を含むべきである。この点で私は冶方同志とのかつての意見とまた意見が違う。彼は社会主義社会の商品の価格は価値と一致(符合)するべきだと主張し、市場の需給変化に応じて変動するべきではないとしていた。
p.252 当時我が国は相当あまねく計画価格と計画供応制度を実行していた。それゆえに本書(『社会主義経済問題の研究』)は価値規律の作用はなお国家計画の制限を受けていると述べた。我々は理論上価値規律の作用は制限を受けるべきでないと主張できるが、実践において目下はそうではない。私のこの論断は、一度ならず冶方同志の厳しい批判を受けたが、ただ我々は計画価格を実行するだけであり、価格が価値規律で調節されることを許していないので、価値規律の作用は実際上は制限を受けている。あらゆる計画価格を実行する国家において、価値規律の作用は人的制限を受けている。冶方同志は、価値規律は客観規律で、客観規律は制限を受けるべきでないというが、しかし彼は同時に計画価格の実行を堅持し、市場価格に反対する。この情況のもとでは価値規律の自発調節作用は事実上やはり制限を受けている。この一点について、私と(重要産品に計画価格制定を主張する)彼の観点との間に根本的な違いはない。私たちに共通した欠点は、計画経済体制と価格管理体制には根本的な改革が必要である(という点について)当時認識が欠けていたことである。
 (中略)
 第四に急ぎ過ぎることを批判した。盲目的に実際的でない高速度を追及しようとし、国民経済の比例発展の規律に違背した誤りである。

p.253 本書の初稿は杭州で3ケ月余りで書かれ、1979年の春節後北京に戻った。北京に戻ってからすぐに印刷した初稿を国内の有名な理論工作者に送付し、1ケ月余りの間に100件近い返信を得た。多くの貴重な修正意見が寄せられた。4月初めに私は執筆グループを引き連れて無錫にゆき、太湖飯店に泊まり、もともとは休息時間だが仕事に没頭した。この時、孫冶方同志もまた4人の同志を連れて同じ建物で、彼の文革時期、獄中で考えぬいた「政治経済学」の腹稿をもとに、資本論なみの巨著を書いていた。われわれ二つのグループは苦労して執筆をし、時に意見を交換したが、一段と楽しく集えた日々であった。北京に戻ってから、冶方同志が肝がんを患っているが、本人はなお知らないことを知り、私は深く嘆き悲しまざるを得なかった。
 本書は無錫で約2ケ月修正されたのち、北京(指導部?)に意見を求められた。7月末再び青島で最後の原稿確認をし、8月末に完成しただちに人民出版社に送られた。1979年12月第一版が読者にお目見えした。

p.338  私は一貫して、社会主義は社会化大生産の基礎上に建設されねばならず、社会化大生産は商品経済の十分な発展を前提とする、と考えている。かつて我々が模倣したソ連の経済体制は、商品経済を製品(産品)経済で置き替えることを急いで実現し、商品経済を発展させることなく、指令性計画で、社会化大生産を人工塑像のように行政の手法で作り出したが、実践が証明するところでは成功ではなかった。我々の現在の社会主義経済はただ一種の商品経済でありうるだけである。    p.349  私は暗い旧社会に対して強烈な不満をそして新社会に対して麗しい憧憬を抱きながら革命の道を歩んできた。私は一貫して、社会主義制度というものが、人類の認識が到達したところの、社会正義を維持保全(維護)し、共同富裕を実現するもっともよい政治経済だと考えてきた。しかし都市に進軍し始めたころ(進城之初)、私の社会主義の認識は、ただマルクス主義の古典著作やソ連のすでに出来上がったモデルに由来するものに過ぎなかった。解放後、私は主要には経済部門の実際工作に従事した。しかし独立した理論思考の習慣を保持し,思考後、考えがまとまったときは雑誌新聞あるいは内部資料に文章を発表した。私が一生抱き続けた学問する目的(治學宗旨)は、絶えず真理を追求し、誤りを知れば必ず改めることであり、実践を通じて不断に自己の世界観を修正発展させた、当然私の経済観を含めて。この方面では、私の社会主義時期の価値規律そして商品経済認識の転変と発展の過程が、代表的だ。
 私は一貫して価値規律は社会主義経済の中で作用すると主張している。しかし価値規律はいかに作用するか?どのような範囲で作用するか。数十年来の認識には浅い深いがあり、少しずつ高まった。
 1953年に私が「価値規律は中国経済の中で作用する」を書いたとき、全国経済工作と理論工作は人員はまさにスターリンの「社会主義経済問題」を学習中であった。多くの同志は商品生産や価値規律は、社会主義経済の全く別の作用(異己力量)だと、また計画がある国民経済すなわち比例発展規律の対立物だと、考えている。それゆえに彼らは、当時我が国ではただ国有経済だけが社会主義経済規律(主要には計画があり、比例発展規律に沿っていること)の支配を受けており、小商品生産は価値規律の支配を受けており、資本主義経済は価値規律と剰余価値規律の支配を受けていると言ったが、私はこの種の意見に不同意である。私は当時主要農産品価格は国家が定めており、国家は価格政策を通じてすなわち価値規律を利用して生産数量を調節しており、小商品生産を国家計画の軌道に組み込んでいる(納入)と考えていた。資本主義工商業については、国家は加工購買の約定、代理販売を通じて、それを国家計画の軌道に組み込んでいる。
 全体としていえば、私のこの文章は、国家計画がすでに価値規律を利用して、国民経済の主要部分全体について計画管理を実行できることを強調している。国営経済の指導地位が次第に増えると、価値規律の自発作用を強調することは次第に制約をうけるようになる。これは回復時期の経済工作に一つの重要な勝利だ。我々はこれからさらに大きな努力をして、盲目性を克服、計画性を強め、一歩ずつ国民経済の計画化を実現し、社会主義経済規律の主導作用をさらにはっきりと発揮できるようにする。私のこの観点は孫冶方同志の批判を受けた。冶方同志は価値規律は客観規律であり、それを制限することはできない。価値規律を制限したり取り消したりあるいは価値規律を改造することは、いずれも同じ誤りを犯していると考えた。

#薛暮橋    #社会主義 #孫冶方

 


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