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葉永烈 李鋭と廬山会議(1959)

葉永烈《歷史的注脚》中華書局2014年60-61。作家である葉永烈の取材ノートである。李鋭についての記述から廬山会議のところを引用する。取材ノートを読んでいると、沢山のことが分かっていて、なお一部しか字には残せないという作家の思いが伝わる。歴史とはそういうものかもしれない。

p.60   "廬山会議"は二つの重要会議を含んでいる。1959年7月2日から8月1日までの中共中央が江西廬山で開催した政治局拡大会議と1959年8月2日から16日まで挙行された党の八届八中全会である。政治局拡大会議は中央政治局委員と各省、市、自治区党委員会第一書記、中央、国家機関の主要(一些)部門の責任者である同志が会議に参加した。
 李鋭の黒革ノートの記載によれば、1959年6月30日に通知を受けて(接到通知)、廬山に向かい開会した。この日、北京(から)山に登った人は中南海居仁堂で、彭真から13個の問題を討論する「神仙会」を開くと伝達されていた。もともと李鋭は廬山会議出席とは無関係であるが、毛沢東の連絡秘書(通訊秘書)になったので、会議に列席する人(代表)になったのだ。
 「神仙会」のテーマは毛沢東が定めたもので、経験教訓を総括し、指標を調整し、”左”傾の誤りを継続して糺すことであった。会議の気分は軽く活発であり、李鋭と毛沢東秘書田家英、胡喬木との行き来はとても多かった。
 李鋭の回顧によれば、彼ら少数の人を呼び出して三度話した。とても打ち解けて(很融洽)話し、時に座に笑いが満ちた。李鋭は次のような詩を書いている。
    山中半夏沐春風,
               隨意交談吐寸衷。(衷は内心。)
    話到曹營事難辦,(曹營事は敵陣でせねばならない仕事。)
    笑聲震瓦四心通。
 この中で「話到曹營事難辦」は、毛沢東が李鋭らの人を探して話したとき、「わたしはこのように頭が混乱しているところがある(有胡思胡想)。なにか下級を非難できないことがあると、どこかいずれかの部門を非難する(怪 責任を問う)。さもないと王鶴壽は(三国志の)蒋干のようにように恨みをいだくことになる。曹營之事は果たしがたいと。」ここまで話して、毛沢東と三人は、一斉に大笑いして、息もつけないほどだった。
 胡喬木は毛沢東の秘書。李鋭と胡喬木はとても早くに知り合った。李鋭が私に語ったところでは、1939年夏、中共南方局は青年工作会議を開催した。李鋭は当時湖南省組織部で工作、省青年委員会書記を兼職していた。馮文彬、胡喬木は中央青年委員会を代表して延安から重慶にやってきた。会が終わってから李鋭は胡喬木に従って、湖南の青年工作視察に向かい1ケ月を過ごした。のちに李鋭は、湖南を撤退して延安に入ってからは、ずっと胡喬木と一緒だった。延安の到着後、胡喬木は彼に中央青年委員会の宣伝部に置いて工作させた。
 周小舟はかつて毛沢東秘書を担当した。20世紀50年代初め、周小舟は中共湖南省委員会宣伝部部長であり、李鋭は副部長であり、ほとんど毎日一緒に工作した。のちに李鋭は周小舟を引き継いで中共湖南省委員会宣伝部部長を担当した。
 李鋭は黄克城ともよく知っていた。李鋭の回顧が述べるところでは、解放初期、黄克城は熱河で冀察熱遼分局書記であった時、同地の新聞社社長であった。南下して湖南のあと、李鋭が『湖南日報』新聞社社長で、湖南小宣伝部部長のとき、黄克城は湖南省委員会書記であり、李鋭はいつも黄克城の自宅に通った。
p.62   1952年9月、黄克城は中国人民解放軍参謀長に任ぜられたとき、李鋭は黄克城に従い、同じ車で北京に向かった。
    "神仙会"はついに緊張(不輕松)を始めた。(1959年)7月14日夜、国務院副総理兼国防部部長の彭徳懐元帥は、当時客観存在する問題について毛沢東に長い手紙を送り,小組会で述べた考え方についての自己の不便(適切でないと思うところ)を述べた、彼は1958年以来の”左”傾の誤りとその経験と教訓の意見を述べた。「浮わついた雰囲気や、小高炉などなど、これらはすべて表面の現象に過ぎない。民主の欠乏、個人崇拝。これが一切の欠陥(弊病)の根源である。」彭徳懐のこの手紙は、「万言書」と呼ばれている。
 7月16日毛沢東は彭徳懐の手紙を全参加者に印刷提示し、会議にこの手紙について討論を求めた。小組会では、黄克城、周小舟、張聞天などの発言は、手紙の全体の(總的)精神は良いものだと認識し、彭徳懐の書簡中の意見に同意を表明するものだった。
 7月18日、李鋭が田家英の居住処を訪れると、胡喬木、吳冷西,陳佰達の全員がいた。彭徳懐の手紙に話が及んだ時、全員がとても関心を示した。手紙の内容はとてもよく、彼らの観点と一致していると。李鋭は付け加えて言った、彭老だけが、このように書ける勇気(膽量)があると。
 多くの人が彭徳懐の手紙に賛同した正にその時、7月23日、毛沢東は大会の講話で、彭徳懐への反撃を開始(発動)した。彭徳懐の手紙は、「資産階級的動揺性」の表れ(表現)であり、党に向けての侵攻であり、右傾機会主義的綱領と考えられるとした。ここから廬山会議の風向きは大きく変わり、最初の反”左”から、一挙に180度ひっくり返って”右傾機会主義に反対するものに”変わった。
 毛沢東は歴史上本来彭徳懐と対立(矛盾)したことがあった。毛沢東はかつて言った。「私個人は多くの人に恨まれている。とくに彭徳懐同志に。彼はとても私を嫌っている。とてもでなくとも少しは嫌っている。私と彭徳懐同志との原則(政策)はつぎのようなものだ。攻撃しないなら私も攻撃しない。攻撃するなら必ず反撃する。」今回、毛沢東は彭徳懐の「万言書」を(攻撃ととらえて)反撃を始めたのである。

p.63-67(このように毛沢東が批判を始めたあと、李鋭はあきらかに失策を犯す。7月23日の午前中の毛沢東の講話に不満をもって夕食後、周小舟、それに周恵と3人で話しあってしまう。実はこうした小グループでの話し合いは、分派活動という批判を受ける可能性があり、しかも毛沢東の批判を受けた直後であった。そして3人は、黄克誠のところに行くことになる。黄克誠のところにいると、そこに彭徳懐もきてしまい、外見上、彭徳懐を中心としたグループで謀議をはかったとみられる事態になる。李鋭は胡喬木のアドバイスで、黄克誠のところで会合を持った事実を7月30日に毛沢東に書簡で報告する。しかし、この報告は李鋭の保身の役には立たず、逆に反党集団が存在し反革命活動を行った証拠にされてしまう。その後、8月9日10日になるグループ内で、毛沢東のことをスターリンの晩年のように個人の独断専行になっている、といった会話をしていたことが事実上明らかになり、李鋭は8月11日に、7月23日に反革命活動をしていたことを大会で自己批判することになる。こうして李鋭は転落。翌1960年1月27日に党籍を解除されすべての党の職務を失い、1979年1月に復権するまで、長期にわたる苦難を強いられている。) 


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