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陳寅恪への批判と陳寅恪による不開講の申し出 1958年7-8月

 歴史家陳寅恪(チェン・インコウ 1890-1969)が学内での批判のターゲットにされたのは1958年7-8月。これは時期としては、1957年6月から始まるいわゆる反右派闘争から1年遅い。他方、馬寅初(マア・インチュ 1882-1982)の人口論に対する批判は、ほぼ同時期1958年に始まるが、収束せず翌1959年にpeakに達するほど長く続き、最後は1960年に馬寅初の北京大学校長辞職を招いた(見出し写真は1957年陳寅恪自宅での講義の様子である)。
 これと比較して、陳寅恪はすぐに①講義を開講しないことで、学生を誤らせることを避ける。②退職し、校内から引っ越して学外に居住する。と申し出た。これに対し、勤務先の中山大学関係者は慰留に努め、①を認めることになった。そして陳寅恪への学内での批判は一旦収束している。
 1958年7-8月の批判の口火は、郭沫若が1958年6月人民日報に寄せた「書簡」の中で、資産階級の歴史家が資料を過度に偏重しすぎると述べたあとで、英国を鋼鉄生産で15年内に追い越すように、我々は資料の占有面で陳寅恪を追い越さねばならない、と書いたことだとされる。つまり陳寅恪は資産階級の歴史家と名指しされ、その研究方法が資料を過度に偏重するものだとの批判を郭沫若はあえて仕組んだ。果たして中山大学歴史系で7-8月に出された論文71編中36編が陳寅恪批判にかかわるものだった。西欧から文化が来たという説、種族優劣論、農民の起義や個人の歴史における役割についての誤った認識観点などが批判され、陳が多年開講して、資産階級の毒素をまき散らしている、などの批判が一部の学生からおこなわれた。
 陳の先ほどの開講停止の申し出は、こうした批判に対するもので、これは彼が中国の政治環境のもとでできる最大の抗議と抵抗だった。
 なお文革時の陳寅恪の被害の詳細は年譜を読んでもなお不明な点が多いが、賃金や預金が一時凍結され、生活に困窮したことが知られる。1969年春節後に80歳の高齢にして転居を迫られた。奥さんが婦人会の学習によびだされ、陳寅恪の面倒をいつもはみれなかった。その年の夏、心臓病で奥さんが瀕死になった。文革での心労もあり、衰えた陳寅恪は10月7日に亡くなった(80歳)。その後、11月21日に闘病を支えた奥さんもなくなった(72歳)。

資料:『馬寅初年譜長編』商務印書館2012年
   『陳寅恪先生年譜長編(初稿)』中華書局2010年
   吴定宇『学人魂 陳寅恪傳』上海文芸出版社1996年 


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