見出し画像

1915-1920年の馬寅初 北京から上海へ

 馬寅初が米コロンビア大学で、論文The Finances of New York City で哲学博士の学位を得たのは1914年6月。彼は1882年6月生まれなので、そのときちょうど満32歳である。その後、彼は1914年12月に米国を離れ1915年初めに上海に到達している。今回はとりあえず、北京で北京大学に職を得てから1919年五四運動で不眠症となりダウン。1920年に休職して、上海で元気を取り戻すところまでをみる。
 徐斌 馬大成編著《馬寅初年譜長編》商務印書館2012年pp.24-54  による。この資料は読んでいるといろいろな発見がある。1919年、学務でかなり疲労困憊したことがうかがえ、それが1920年の休職につながったと思える。

最初の北京大学時代 1915~1920夏
 そして政府の財政部に奉職するが、袁世凱総統時の財政部は心を満たす場所ではなく、ほどなく退職して北京大学に転じている。年譜は北京大学に転じた年として、1915年と1916年の双方を上げている。
 1915年の記載として北京大学法学教授に転任、明徳大学商科主任、高等師範教員を兼任とある。
 他方1916年記載としては、1916年に北京大学法科教授に任ぜられた、銀行貨幣学課程主講だったとある。
 年譜で最も意外だったのは、五四運動に直面した馬寅初の憔悴ぶりである。また少し驚いたのはそのそばにいつも胡適の姿があったことである。

 1917年2月16日。蔡元培校長は学校評議会に対し、本校教授の兼職に絡んで(1) 兼職するものは、一律に講師(に格下げ? 訳者)とする。(2)教授するものは厳格な試験を受けるべきである云々として経済系の寅初から始めることを提案したとある。
    参考 蔡元培  北京大學校長就職演説詞
    蔡元培   北京大学の経験 1912-1919
    蔡元培  馬寅初  胡適について
 1917年5月15日、蔡元培は教育部に対し米国、日本などの大学の例に倣って、現在の法科付属商科を法科付属商業学に改めることを求め、その後、教育部はこれを批准して6月18日、教育部は北京大学法科付属商科を法科付属商業学門とすると発布している。
 1917年10月に中国銀行顧問に就任している(以下、主語を略すが馬寅初についてのことである)。
 1917年11月3日 北京大学編譯會評議員に当選している(この編譯會評議員の役割は?北京大学評議会との違いが不明。以降 北京大学評議会に出席の文字がたびたびある。 訳者)。
 1917年12月11日 北京大学経済門研究所銀行貨幣教員研究員に就任。
 1917年12月22日 北大法科研究所が設立され、経済門研究所主任に就任。

 1918年1月18日。担任課程が発表されている。銀行貨幣課程を担任。ひと月4回毎週午後3時半から4時半(講義)とある。
 1918年2月。蔡元培が1918年1月に始めた進徳会に加入している(なお、胡適や陳独秀も加入している)。
 1918年3月10日 法科経済商業門主任に当選している。この時点で法科には法律門、政治門、経済商業門があり、馬寅初はこの経済商業門主任となった。

 1918年5月17日 「法科で卒業論文を廃止すべきことを論ずる」を発表。卒業論文に代えて「審定譯名」作業をさせるとのこと(審定譯名作業の意味は指定した翻訳をさせることだろうか?この提案は学校教授会,研究所、校長の賛同、教育部の支持を受けて実現したとある。訳者)。
 (なお毛沢東が北京にいたとされるのは1918年8月から1919年2月の間である。参照 毛沢東が留学しなかった理由) 
 1918年10月22日  教授評議会評議員に選出されている(胡適も選出されている)。

    1919年3月1日 北京大学評議会により会計(審計)委員会委員に推薦されている(7名)。3月5日 最初の同委員会で互選により五票を得た馬寅初が会計委員会委員長に就任。
 4月 各教授会主任会議が開かれ(出席8名 なお胡適もその一人)互選により四票を得た馬寅初が教務長に当選(4日)。

 5月 五四運動がおこり当局により学生が逮捕され、蔡元培はこれに抗議して辞職する。この困難な局面に教務長として、馬寅初は矢面に立った。
 6月 学生の逮捕者は1000人に達し、北京大学の建物に拘禁された。馬寅初は200人余りの教職員が集まった会議で、蔡元培の復職がなければ辞職すると、政府に対する公開声明を発表している(7日)。大学を代表する8人として教育部に交渉に赴いている。続いて、11日北京大学教授陳独秀が「北京市民宣言」を配布したことで逮捕入獄させられたことを受けて、北京市内の高等教育機関の教員連名で、京師警察庁に書簡を送り、陳独秀の行為は「愛国」の余りの行為であるとして保釈を求めている(15日)。このあと馬寅初は教務長の継続は自身のような才能にかけ、配慮の浅いものには困難として辞任を申し出る(17日)が教授会の了承は得られなかった。

 9月 馬寅初、胡適らは北京にもどった蔡元培を訪問(13日)、9月20日の開学をきめている。
 10月 馬寅初は北京大学教務長の職を辞職している(年譜によれば馬寅初は不眠症(失眠症)だとして休暇を願い出、なお教務長を代理することになったのはこの間、ともに動いていた胡適である。10月24日、27日)。
    11月 会計委員会委員長、また教務長として入学実験委員会委員長などの任命を受けている(9日)。しかし3日後、評議会組織委員会に書簡を送り、委員職の辞職を願いでている(12日)。病気の再発の恐れがあるとしている。

1920年1月 寅初は蔡元培校長に教務長への復職を促されているが、身体が弱く精力もないとして書簡で復職を断っている(15日)
 2月 経済系主任そして会計委員会委員長に推薦受けて就任(23日)
 3月23日 浙江興業銀行懂事長の要請を受け同行総辦事処顧問に就任している。同行で勤務するときは月400元、北京で教職時は月100元という条件。職務内容は学理の講義、規程の審査、事務の研究改良、各行事務の考査、重要文献の審査、学生派遣海外出張への支援。
 6月11日 北京を離れるとして経済学系主任を黄伯希の暫時代行を頼んでいる。しかし6月27日の北京大学総務会議には出席している。

上海での活動 1920夏~ 
 7月 馬寅初は、上海、杭州などの経済情況を考察したいとして、北京大学に対し1年の休暇を申請している。同月、上海華商証券交易所が成立し、推薦を受けて交易所董事に就任。上海東南大学校長郭秉文
と同大学に商科を開設する相談をしている。
 10月15日「グレシャム(格菜辛)の法則の研究」を北京大学月刊第1巻第7期に発表。悪貨は良貨を駆逐するという有名な法則。中国の幣制混乱を念頭に幣制改革の必要性を訴えるもの。
 10月19日上海吳淞公学で「銀行の根本問題」と題した講義。信用が銀行の根本である、信用は資本を製造できる、信用があれば時間がある、など。

 11月20日上海吳淞公学で「我が国の悪い貨幣の影響」と題した講義。貨幣改革の喫緊性を述べている。
 11月22日から24日 陳独秀とともに、北京から旅行で訪れた蔡元培らを歓迎し接遇している。
 12月 全国銀行公会連合会の準備会 審査会 そして連合会議に連続して出席している(5日から8日まで)。また7日の夜には上海で設立された「経済研究会」の発起設立にも参加し理事に当選している。
 このほか上海吳淞公学で「中国の交易所」と題した報告を行い、取引所の機能や役割について議論している。 

   (1921年以降は別稿で検討するが、上海に移ってから馬寅初は、北京大学の学務から解放され、元気を取り戻したように見える。)
1921年の馬寅初 上海から北京へ
中国経済学史目次
新中国建国以前中国金融史


画像1


main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp