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薛暮橋 1959年11月の劉少奇同志との思い出(回憶錄1996)

(「薛暮橋回憶錄」天津人民出版社1996/2006より) (写真は心光寺石仏。右側に文化4年1807年という年号の碑文がある。子供を抱いた母子像であることに気づきはっとした。)

 p.198 (1959年11月。劉少奇が海南で組織したソ連の政治経済学教科書の読書会に参加して)「大躍進」と人民公社化運動の中にあって多くの同志は程度の差はあるが、客観経済規律を軽視していたが、しかし(劉)少奇同志は読書会においていつも客観経済規律の重視を強調し、中国の実際情況から出発すべきことを強調した。彼は言った「この教科書は良い本だが、欠点もある。ソ連の同志はしばしば自身の経験を根拠にほかの国の経験を見ているが、この点でわれわれは警戒するべきだ。自己の経験を普遍真理として、ほかの人の経験を特殊情況で行われたこととする。このような見方は一面的だ」
 (劉)少奇同志は学習中謙遜した(平易近人)態度で、私には強い印象を残した。彼は学習において、威張ったりすることがなく、ひたすらほかの人の意見を聞き、別の人が少し良い意見を出すと、すぐに肯定した。それゆえ読書会は大成功だった。(参加した)人々はみな収穫があったと感じた。読書会は1ケ月続いた。12月上旬私が北京に戻ったとき、なお自己批判(検討)のことを思ったが、のちに薄一波同志が、私を保護し、審査を通したことを知り、大変感激した。かくして気持ちを軽くして出勤できた。
 海南の読書会が行われた頃は、全党が上から下まで右傾機会主義闘争を展開していた。その気分のもと、実際でどうであるか(実事求是)で問題を探求検討することはとても困難だった。同志の発言の中に。私自身の発言の中にもすべて左の思想があった。会が終わってから多くの同志は前後して農村に入り、基層の調査をし、群衆に分け入り、調査研究して、真情を了解した。左の指導思想はようやく次第に熱を下げていった。

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