劉少奇

暴風雨的記憶 2012

正式のタイトルは「暴風雨的記憶 1965-1970年的北京四中」生活・読書・報知三聯書店2012年。北京四中卒業生の回顧録(なお写真は名古屋駅前ビル 2019年11月17日夕刻)。ただ名前を連ねる人たちは皆社会的に活躍している著名人が多い。北京四中というのが、北京のエリートの集まるところだったことが分かる。しかしその四中も文化大革命の惨劇は、避けることはできなかった。掲載された文章はいずれも文革の

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胡耀邦 冤罪を正す 1977-80

黄峥《刘少奇冤案始末》九州出版社 2012年   
 陳利明《從紅小鬼到總書記  胡耀邦》 人民日報出版社  2015年
   《胡耀邦》 北京聯合出版公司  2015年
   罗平汉《墙上春秋 大字报的兴衰》中共党史出版社 2015年

  胡耀邦は1977年12月10日、中央組織部長を拝命する。中央党校副校長のポストはそのまま兼務である。さらに1年後には、中央党校副校長、組織部長のままさらに中

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劉少奇の四清運動への対応 1962-65

席宣 金春明《“文化大革命”簡史 第3版》2006年
魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年
張裕編選《王實味到劉曉波》自由文化出版社2013年
陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年
黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年    等

  劉少奇は毛沢東が提起した四清運動、五反運動に積極的に参加。結果として、自らが打倒される結果を招いたように

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毛沢東と劉少奇 対立の発端 1959-62

席宣 金春明《“文化大革命”簡史 第3版》2006年
魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年
陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年
黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年    等

 もともとは毛沢東の後継者として、毛沢東自身が認めていた劉少奇がなぜ転落したのか。1959年4月27日。全国人民代表大会の選挙において、劉少奇は中華人民共和国主

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反右派闘争と大躍進の発動 1957-58

魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年
陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年
黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年    等

  1957年6月8日に人民日報は社説「這是爲什麽?」を発表。これが反右派闘争開始の合図になった。
 1957年9月20日から10月9日。北京で八届三中全会が開かれた。この会議で中国共産党は無産階級と資産階級の間の

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ハンガリー事件と劉少奇  1956-57

魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年,167-174
黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年,66-71

 (1956年2月フルシチョフがソ連共産党20回大会で秘密報告を行いスターリンの全面否定を行った。中国共産党はスターリンの全面批判には納得できないとしたが、他方でスターリン批判が、中国共産党が独自路線を歩むことを可能にする側面を歓迎したと考えら

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薛暮橋 (1904-2005)

百度百科

薛暮桥(シュエ・ムーチアオ 1904年10月25日ー2005年7月22日) 元の名前は雨林、江蘇無錫の人。1927年中国共産党に加入。1938年から1942年まで新四軍で働く。新四軍教導総隊訓練処副処長。通俗著作『政治経済学』教科書を書いたが、それは新四軍幹部の育成(培训)教材となった。中華人民共和国が成立後、政務院財政経済委員会秘書長と私営企業局局長とを兼任したほか、国家統計局局長

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于光遠(1915-2013)評伝

于光遠評傳
                                                                                                        福光   寬
 于光遠(ユー・グアンユアン)はどういう人か。簡単な略歴は、まず1915年上海生まれである。中国の名門大学清華大学で物理学を学んだが、その後、革命活動に身を投じた。新

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2.8 劉少奇の悲劇 1951-1962

写真は左が陳雲、右が劉少奇である。杜潤生の劉少奇についての記述は、参考になるが重要な1962年について簡略すぎて事実を見るに不十分である。そこで《劉少奇在建國后20年》から1962年1月の7000人大会から同年7月の北戴河会議までの経緯部分を以下の下半分に引用しておく。1962年という年は大躍進の失敗が明らかとなり毛沢東を権力から引きずりおろす言わば最後の機会だったが、結局そのようなことは誰も起こ

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劉少奇 天津講話 1949

(1949年6月4日 劉少奇が民主党派および党の各クラス責任者を前に行った講話である。労働者による争議の拡大、経営者資本家の逃避により、社会の混乱が広がる中、劉少奇は天津にゆき、現地の産業界そして党幹部と懇談。この講話はその直後のもの。天津でなにがあったかを報告したものと思われる。その核心部分、劉少奇が資本主義搾取を肯定したとされ天津講話として批判された該当部分を訳出する。ここで確認できる資本主義

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