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東清鉄道 中国経済用語

   東清(中東)鉄道の建設(1897-1903)問題。戴建兵等《話説中國近代銀行》百花文藝出版社2007年pp.35-37の翻訳 ロシアによる東清(中東)鉄道建設が、日清戦争後、三国干渉を契機に、清国内にロシアの進出を歓迎する気持ちが高まったことが一因で、受け入れが決定されたこと(1896年)。その建設(1897-1903)の結果、東北が欧州とむすびつくようになったことが分かる。つまりロシア革命以前から、ロシアの進出を歓迎する考え方が中国内部に存在したことは興味深い。逆にこのようにロシアの影響力が中国の東北地方にまで浸透を始めたこと、これが日本からみると脅威になり日露戦争につながったと考えられる。

p.35 中東鉄道(鉄路)は元はまた東清鉄道あるいは東省鉄道といい、1920年に北洋政府交通部が管理を代わってのち中東鉄道と呼ばれるようになった。
 19世紀末から20世紀初めのロシアの対中国投資の最大の項目は鉄道投資であり、鉄道投資の中で最大のものが中東鉄道であった。華俄道勝銀行(Russo-Asiatic Bank )が設立されてのち(本店はペテルスブルグ。フランスの4行が5/8、ロシアの1行が3/8出資, 総額600万ルーブル。しかし役員会はフランス3、ロシアが5でロシアが実権を握った。またロシアの財政部と関係が深かった。その後、三国干渉後、清政府はロシアからの四厘借款から500万両の白銀を同行に出資。政府が共同する中外合資銀行とした。中国の出資は750万ルーブルと換算されたが、役員会で中国に席は与えられず、銀行の管理はロシアに握られたままだった。中国の出資のあと、1896年中に上海、天津、漢口に、1898年には哈爾濱に支店が置かれた。)
 華俄道勝銀行設立のその日から、東清鉄道の建設は主たる目的であった。この目的を達するために、華俄道勝銀行は清政府官員に惜しみなく賄賂を、行い、そのため専門に設けた専用資金額は300万ルーブルー「李鴻章基金」である。
 甲午中日戦争後、清政府は、いささかも緩まない、日本の強大な政治、経済圧力に直面した。ロシア国は「三国干渉還遼(下関条約直後、ロシア、ドイツ、フランスが日本に迫って遼東半島を清に返還させたことを指す)」を先頭に立って組織したことで、清政府の目には救世主(球星)となった。国内で「ともかくロシア人と会おう」との呼び声は日増しに高まり、清政府は「西洋と付き合い、東洋をけん制する」外交政策の実行を決定し、ロシアと協力して日本に対抗することを追い求めた。
   1896年6月ツアー、ニコライ二世は戴冠式(加冕典禮)を行った。清政府は布政使王之春を祝賀に派遣を準備したが、ロシア国は王之春の格が低く発言に重みがない(人微言輕)と考えて、李鴻章を特使として改めて派遣することを要求した。李鴻章は全権委任大臣(欽差頭等出使大臣)を拝命し、ロシア国に赴き戴冠式に参列した。華俄道勝銀行代表取締役(董事長)ウホトムスキーは特使の身分でスエズ(蘇伊士)運河に出向いて出迎え、ペテルスブルグ(彼得堡)に至ると、ニコライ二世自ら李鴻章に会うなど、最高級にもてなした。1896年6月3日、李鴻章はモスクワにおいて、ロシア国と日本を共同して対抗する(抵禦)「中露密約」に署名した。(同密約は)軍事上の相互援助のほか、日本(についての?)条項に共同で対応(對付)するほか、ロシア国が運輸部隊をして区域を威嚇させることを規定し、中国はロシア国に黒竜江、吉林の両省を通りウラジオストク(海參崴)に至る鉄道の建築を許すこと、この鉄道の建設と経営は華俄道勝銀行に任せること、
p.36  鉄道協力の具体的条項は中国の駐ロシア代表と華俄道勝銀行との協議によること、を規定している。同年9月、清政府の駐ロシア公使許景澄と華俄道勝銀行は「中露東省鉄道合作(合辦)契約(合同)」に署名した。契約は清政府と華俄道勝銀行が一緒に中東鉄道を進めること、所有建造、経理一切の便宜(事宜)は華俄道勝銀行が事務を処理する(承辦)。ロシア国が中東鉄道の建築権を取得したあと、華俄道勝銀行代表取締役のウホトムスキーは、自ら上海に行き李鴻章に100万ルーブルの謝礼を支払った。
 1898年清政府とロシア国政府は、「旅大借地条約」と「続旅第借地条約」を署名締結した(旅大は大連の旧称)。ロシア国は南満支線の建築権を取得した。すなわち中東鉄道幹線から一筋の支線で旅順、大連に至る。条約締結後、華俄道勝銀行北京支店の経理璞科第は李鴻章に白銀50万両を贈り(付給),李鴻章ははなはだ満足(甚爲滿意)だとした。
 1897年3月に東省鉄道会社(鉄路公司)が設立された。鉄道総会社(鐵路總公司)はペテルスブルグにあり、支店は北京東交民巷の華俄道勝銀行行内に置かれた。華俄道勝銀行北京支店経理璞科第は、北京鉄道会社(鐵路公司)の責任者を兼任していた。華俄道勝銀行と東省鉄道会社は一組の人々(一套人馬)であり、二つの機構、二つの単位の指導者は相互兼任であった。華俄道勝銀行は中東鉄道の強大な金融の後ろ盾であり、中東鉄道はまたルーブル決算などの手段で銀行の勢力を拡張した。
 このあと、鉄道会社は哈爾浜に鉄道工程局を設立し、全路線の建設工程を担当させた。1897年中東鉄道の幹線の工事が開始された。工程は哈爾浜を中心に、東部、西部、そして南部の3本の鉄道に分けて、19の工区に区分され、6ケ所同時に施工された。
   1903年にこの5インチ幅のロシア式広軌鉄道は全線開通した。鉄道の本線(幹線)は西は満州里を起点にして、齊齊哈爾,哈爾濱,牡丹江を経過して、東は綏芬河に至り、ウラジオストク(海參崴)に直通する。南満支線は北は哈爾濱から、長春,沉陽を経由してまっすぐ旅順、大連に至る。本支線の全長2800キロ余り、黒竜江、吉林、遼寧三省の広大な地区を縦貫し、ロシア国境内の西シベリア大鉄道と相互に連結する。
 中東鉄道と南満支線の建設と開通は、ロシア国の対中国経済浸透と資本拡p.37   張を大いに容易にした。中東鉄道はロシア国が中国東北を統制し、極東で覇権を争う(爭霸)うえで重要な道具となった。ロシア国の財政大臣が維持することが示すように、中東鉄道は重大な政治と戦略意義をもちつつあった。それはロシア国をして最短時間で軍隊をウラジオストク、満州、黄海海岸そして中国首都付近に送り込めることができる、大量のロシア国の軍隊の出現はロシア国の中国と極東における威信と影響を正に大きく高めることになる。
   同時に中東鉄道の建設は、鉄道建設がほとんど空白の東北の大地上に「丁」字形の骨組みを置いたことになり、この後の東北の鉄道建設はこれを中心に容易に展開された。鉄道交通は東北地区の長期にわたり封鎖されていた政策の大扉を叩いて開けた(敲開)、東北と外界の経済との文化関係を強化した。鉄道の建設開通に伴い、大量のロシアの紡績、巻煙草などの工業品が東北市場になだれ込み、東北の農林鉱生産品もまた絶え間なく(源源不斷地)欧州に輸出され、国際市場で売り出された。中東鉄道の建設は、客観的には東北農産品の商品化を加速し、東北地区の資源開発と鉱工業の発展を加速し、東北地区の近代化を促進した。

建国以前中国金融史

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