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魏京生の逮捕 1979/03/29

 北京西単のバスの停車場のそば。200メートルほどの壁に、壁新聞が張られるようになったのは1978年春頃からだとされる。その中で魏京生が1978年12月5日に張り出した「五番目の現代化」と題した壁新聞は広く注目された。そこで「われわれを天下の主人とすること、我々を独裁統治者が野心を拡張する現代化の道具とせず、我々が人民生活を現代化できること、人民の民主、自由と幸福が、現代化を実現する唯一の目的であること、この第五の現代化がなければ、すべての現代化は新たなたわごとに過ぎない。」と述べている。

 社会的背景としては、かつての紅衛兵たち、農村に追いやられた彼らが、専制的政治制度の問題や社会的な不公正・不平等にめざめたことがある。都市に戻ってきた彼らに仕事がなかった問題もある。1950年北京生まれの魏京生自身も元紅衛兵である。1966年中国人民大学付属中学所中初中3年を卒業して付属中学紅衛兵に参加。各地を巡ったあと1968年に安徽省で農業に従事、その後、1969年から73年まで人民解放軍に勤務。除隊後は北京動物園の電気工事に配属。こうした経歴の魏京生がどのように自らの思想を形成したかは興味があるが、今回はそれを置いておく。
 王丹は、魏京生が1979年3月25日に「民主かあるいは新たな独裁か」と題した壁新聞が、人民は鄧小平が新たな独裁者になることを警戒すべきである、と書いたことが保守派の反発を招き、党内改革派と民間の民主派との蜜月を終わらせたと指摘している(王丹『共和国史』p.231)。

 4日後、北京市革命委員会そして北京市公安局はそれぞれ社会秩序に関する禁止事項を通告している(党の指導、マルクスレーニン主義・毛沢東思想に反対する刊行物や壁新聞などの禁止、交通妨害行為、許可なき壁新聞の禁止など)。3月29日魏京生が逮捕されたほか、主だった民主派の刊行物の発行責任者も逮捕された。10月6日魏京生の裁判が北京市中級人民法院で開廷。10日後の10月16日、反革命破壊活動を行ったとして懲役15年に処している。12月6日北京市人民政府は「西単墙」で壁新聞を張り出すことの禁止を通告している。
 中国の憲法は実は当時も言論、通信、集会、出版。結社、デモ(遊行),示威、ストライキの自由を認めている。また四大自由(大鳴、大放、大字報、大弁論)と言って、壁新聞(大字報)のことを、とくに権利として明記していた。魏京生は裁判でこの条文を盾に無罪を申し立てた。1980年1月鄧小平は憲法から四大自由条文の取消を発議、同年9月の五届人大三次会議で、取消が決議されている。

資料:王丹『中華人民共和国史 第二版』聯經2016年6月
   罗平汉『墙上春秋    大字报兴衰』中共党史出版社2015年7月
   独立中文筆会『従王実味到劉暁波―中国当代文学獄囚徒編年録』自由
    文化出版社2013年2月
   武国友『中共執政党建設史(1978-2009)』遼寧人民出版社2011年5月


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