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馬寅初-單槍匹馬 戰死爲止 1957-1960

   馬寅初について調べていた時に出会った梁中堂論文は衝撃的だった(梁中堂《馬寅初事件始末》中共山西省委党校学報 第34巻第5期 2011年11月 48-77)。関連論文などを広範に調査したうえで、著者は馬寅初の人口論が論争の中核であったという通説を否定して、そこに現れた経済理論、哲学思想、政治的立場が論争の焦点であったとしたほか、またこの論争に、康生、陳伯達など党中央は無関係だったとした。また退職に至る要因として秘書による、馬寅初の個人財産や日頃の言動の暴露が与えた衝撃が大きかったとした。馬寅初については、1939年の中国経済学社の秋の年会で馬寅初が孔祥熙を面罵した、という有名なお話が、孫大權の調査で完全に否定されたことがあった(《“馬寅初面斥孔祥熙”辦析》四川大學報哲學社會科學版2003年第5期141-144)が、彼の多様な側面には研究が不十分な点が多く、今後、研究者が増えると訂正されてゆくこともなお多いと思われる。
 ただ事件から50年以上たってからの、梁中堂論文が言っていることは、党中央組織は馬寅初事件で間違った行動をしていなかったと言っていることに過ぎないようにも思え、事件後50年以上経ってなお、事件そのものの非人間性を薄め、党の名誉を守っているようにも思える。この事件は実際にはどのような事件だったのだろうか。
 ここでは、楊勤明《馬寅初-單槍匹馬 戰死爲止》炎黃春秋2006年第8期·49-51,esp.50-51を引用してみよう。そこに描かれるのは、梁中堂とは異なる情景である。考慮すべきは、まず1957年に反右派運動のうねりがあったこと。馬寅初はとりあえずこのうねりを乗り越えたあと、反右派運動のうねりの後に1960年に至って失脚していること。私の見方は、馬寅初は、自分の立場を利用して抵抗したのである。ただ疑問として残るのは、馬寅初が彼以外の民主人士、知識人、学生への圧迫をどう考えていたかである。彼の知識人としての真理を壁にした抵抗は立派に見えるが、孤立していたようにも見える。人口論以外で知識人として、北大校長として抵抗すべきことはほかになかったのだろうか?そこにまた梁中堂論文が示したような解釈を生む余地も確かにあるのかもしれない。

p.50 1957年春、中南海で開かれた最高国務会議で、毛沢東の面前で、馬老は再度人口問題を提起、避けずに直言した(直言不諱地說)。「人口が多すぎるのは我々の致命傷です。1953年の全体(普遍)調査ではすでに6億を超えています。2%の純増加率の計算ですと、15年後には8億に達し、50年後には15億に達します。これは自分の好みにこだわり人を驚かせる(嗶眾取寵 危言聳聽)ものではなく、もし人口を抑え計画生育を行わなければ、その結果はとても考えられません。」劉少奇と周恩来が(馬の意見に)賛同を表明し、毛は笑いに笑って言った。「人口も計画生産できるかどうか、研究と試験を試してよろしい。発言がない人は発言を、試してない人は試すように!」馬老は、今回の廷諍(朝廷での勧告)は効果があったと勘違いして(以爲),人口問題の研究の執筆を急いで彼の名著《新人口論》を完成させ、1957年6月に人代一届四次会議に提出した。7月5日《人民日報》最終版に登載されると、国内外で強烈な反響があった。間もなく康生は偽名で「人民日報」上に文章を発表し、ある人が人口問題を口実にして政治的な策謀(陰謀)を図っているが、これは完全に右派の侵攻である、とした。6月1日『紅旗』雑誌の創刊号上に毛沢東は「一つの合作社の紹介」と題した文章を発表し、”中国の人口が多い”と“前進がむつかしい”反動観点”を正にとらえて(針對)、”人が多いことは良いことか悪いことか、党の指導のほか、6億の人口は先決要素である。人が多ければ議論が多く、熱気も高く、力も大きい!”と提起した。しかし80近い馬老は投降の準備がなかった。
 ”反右”運動の高まりとともに、全国の主要な新聞雑誌には馬寅初を批判する文章が次々に発表されその数は200余りに達した。彼には、マルサス主義を宣伝した、人が多ければ仕事は容易にできるという(人多好辦事的     これが唯物史観かは私にはわからない 訳者)唯物史観に反対した、社会主義制度の優越性を否定した、という3つの大きな帽子が押し付けられた。馬老は毛、劉、周三人のうちの一人との面会を求めたが、伝えられた毛の言葉は、「馬先生が負けたくない、投降しないというなら、文章をなお書かせて、戦わせればいい。彼はとても良い反面教師だ!」というものだった。
 馬老は後ろを振り向くことなく(義無反顧)、発表した文章の中で、”国家と真理のため、私は孤立を恐れない、孤立を恐れない、批判闘争を恐れず、冷水を被せられること(冷水澆)を恐れず、熱した油の中に入れられること(油鍋炸)を恐れず、解職され牢に入れられることも、さらに死さえ恐れない。どのような情況であれ私は私の人口理論を堅持する。”と宣言した。
 1958年に馬寅初に対する批判は、すでに学術範囲から政治闘争と人身攻撃に質を変化させていた。1959年夏、馬老は人民大会視察団として北京の外に視察に行き、その目で(目睹)大躍進、人民公社、公共食堂が人民大衆に与えた災禍を見て、この上なく胸が痛み(痛心疾首)気持ちを落ち着けることが出来なかった。北京に戻って間もなく、周総理が、毛主席と党中央を代表p.51   して、彼を探して話して、彼に自己批判することを求めた。しかし話は右に行き左に行きまとまらない(談不攏)。最後に周総理はまるで哀願するかの言い方で言った。「馬先輩(馬老啊)!あなたはわたしより19歳年上。あなたは道徳学問では、これまで私の先生です。1938年に重慶で知り合って以来、固い交わりは丸20年ですよ!人生に20年はいくつありますか?今回私があなたにお願いしているのは、あなたの『新人口論』に対して本質的(深刻的)自己批判を書いて下さいとのお願いです。それをしてくだされば、あなたも私もみんなも助かる(好)のです。また社会主義のこの大事な関門を過ぎることができます。どうですか?」馬老は、明らかに絶対どうしようもなかった(萬不得已)、総理もこのような話を(本当は)できなかった、しかし馬老になんとか自己批判させようと話したが、実際(やはり)自己批判させられなかった。馬老は長い間考え、最後に二つの言葉をひねり出した。「わたしは友人を愛しますが、それ以上に真理を愛します。国家と真理のため、自己批判すべきなのは私馬寅初ではありません!」数日後、馬老は『私が求めることを再度述べる(重申我的請求)』を書きあげ、雑誌『新建設』に提出発表した。(中略 この重申我的請求の最後のところに、有名な次の文章がある。「わたしは八十に近く、敵の数は明らかに少なくないが、単身槍を持ち馬に乗って応戦し、戦死して果てるまで。決して力で圧服されたり、理屈で説得されてあの種の批判者に投降しない!」。)
 馬寅初は『重申我的請求』の一文を読んで、秘書に指示した。”反右闘争はすでに全面的に勝利した。馬寅初がなお我々と戦い続けるのは、糞穴(茅坑)の石頭だ、臭くて固い、馬寅初が自ら下馬したくないなら、我々は組織を使って下馬してもらうしかない。”1959年12月5日、康生は呼び出した北京大学党委員会書記に指示した。”馬寅初はなお立場を利用して抵抗しており(負隅頑抗)死んでも投降しない(態度である)、彼は右派進攻、反党社会主義を行っており、矛先は党中央に向けられている。政治的に彼の低劣さを必ず批判せよ(批臭)。北大校長はもはやさせられない、辞職しないなら解職すると通知せよ。”この話は当然、康生個人の意見ではない。一夜のうちに万を超える(たくさんの)壁新聞(大字報)が北大構内を埋めつくした。馬老の自宅、書斎、寝室の中までが壁新聞で埋め尽くされた。批判集会は小さなものが大批判大会になり、”反毛沢東思想の大毒草『新人口論』を徹底批判する!”中国のマルサスー馬寅初を打倒せよ!””馬寅初が投降しないなら、彼を滅亡させよ!”こうしたスローガンが北大構内に響き渡った。
 1960年1月3日、馬寅初は北大燕園を追い出され、城内東総布胡同32号に転居させられた。文章は発表出来ない、講話を公開で行ってはならない、新聞記者の取材を受けてはならない、外国の親戚友人と会ってはならない、と定められ、彼の一挙一動が地区の派出所と居住区の党委員会の監視に置かれる軟禁はその後20年に及んだ。(以下略)

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