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北京大学校長としての胡適 1946-48

解題
                          福光 寛   
   胡適が北京大学校長として北京に入ったのは1946年7月末の事。しかし当時の中国は、通貨膨張から大規模なインフレに見舞われ、学生・教師・職員いずれも、生活苦に陥るものが少なくなかった(写真は水道橋から神田川を御茶ノ水方面をみたもの。右上にJRの架線だ見える。)。全国で反飢餓反内戦を掲げた学生運動が盛り上がりを見せた。学生運動に批判的な胡適であるが、この運動に同情を隠せなかった。もう一つここで注目したのは1947年9月の「学術独立十年計画」の建議である。ここで「学術独立」の意味は、海外に依存しないという意味での欧米に対する中国の学術独立である。中国にある五つの拠点大学を重点整備して、世界の科学革命に資するような高水準の大学に育てるという中国の高等教育機関整備に関する雄大な構想である。周海波《胡適    新派傳統的北大教授》中國長安出版社2005年pp.318-323。なお以下でこの構想は確認できる。《爭取學術獨立的十年計劃》載《胡適全集 胡適時論集6》中央研究院研究所2018年pp.97-107。 
 この胡適の姿は、新中国になってから1951年5月、北京大校長に任命された馬寅初が,自らの大学開始(建校)の方針すら、党中央が定めるところに従うとした姿勢とは大きく異なっている。
 他方で、1947年9月にこの計画を建議した胡適をどう評価すべきか。すでに1946年6月から国共内戦が本格化している。共産党は土地改革を進め、農民とくに貧農の支持を背景に戦っている。他方、蒋介石は1947年7月「総動員方案」を頒布、取締を強化している。そうした緊迫した情勢の中でのこの建議はいかにも現実離れしている。しかしその建議が、中国という国の将来は、世界水準の大学を中国がもつかどうかできまる、という卓見ともいえる、堅い信念から出たものであったことは、記憶されてよい。以下は
周海波《胡適    新派傳統的北大教授》中國長安出版社2005年pp.318-323。

p.318 就任後、胡適は教師の生活の貧しさという問題に直面した。
 これは胡適が北大に初めて入ったときのことではない。胡適が北大に入りたての時、月給は300銀圓。のちには500銀圓。それは収入豊富な時代ではないが、知識分子がとても重視された時代だった。そして現在は戦乱は終わったばかりで、経済は困難、物価は急騰、教師の収入はすで大大低下していた。これを胡適に即してみると、彼の北大校長としての給与は1946年の給与は二十八万元、米ドルで100ドルあまりであった。1947年になると通貨膨張のため、名目上百万元まで調整されたが、米ドルに換算するとわずか三十五ドルであった。1日当たりに換算するとわずか1ドル20セント。それゆえ北大教師の貧しさは、胡適が深く感ずるところで、彼自身は何人かの銀行の友人を頼って不足金を借りて体面を繕った(撐着門面)。国立北京大学校長の生活がこのようであれば、その他一般職員の生活は推して知るべしである(可想而知了)。胡適は嘆かざるを得なかった。このような大学のあり様は見たことがないし、教師の生活が思いがけず(竟然)大問題になってしまったと。一九四七年九月六日《申報》に掲載された胡適の記者との会話:「教授p.319  たちが腹いっぱい食べられず、生活が不安定では、ただ議論するのは時間の無駄だ。」
 胡適も努力していた。
   この困難な状況(窘況)に直面して、全国の教師学生はつぎつぎに(紛紛)抵抗(反抗)しようと立ちあがった。一九四七年の四、五月の間、まず上海と南京の学生が「教育危機を救え」というスローガンを唱え、公費の増加と、教育問題の解決を要求し、併せて「砲口(炮口)に向かい飯を求める」という反飢餓の要求(呼聲)を提起した。同時に華北の学生もまた大声をあげて立ちあがり(振聾而起)飢えが待っていたかのように現れた(以逸待勞的)原因は内戦にあるとして、反内戦と反飢餓を結び付けた。五月十五日、清華大学は学生代表会議を開き、「反飢餓反内戦授業ボイコット」実行を決議した。十六日、北大学部学科(院系)連合会が開会され、「北大反飢餓反内戦行動委員会」が成立した。二日目、招集開会された学部学科代表大会は、「反飢餓反内戦」のスローガンを提起、併せて十九日から三日の授業ボイコット、六二(六月二日)を反内戦日と確定し、全国に電報を打ち、全国各界に、ストライキ、市場放棄、授業ボイコット、授業放棄を呼びかけ(號召),同日、反内戦大デモを実行することを、決定した。

 教師と学生の生活状況は、胡適一人で解決できことではなかった。それでも学校の経済方面の実際問題をできるだけ解決しようと、方法を考え、積極的に資金を集めた。同時に胡適は教授たちは終日貧しさを嘆いているとも主張しない。極端には学生の思潮には不同意である。一部の教師が自己の教学と学校全般に無関心であることに不満を示し、一部の人が学校の会議に参加しないことに不満を表明している。「北大で教授会を開き、教授約百人が集まった。私は2時間半議長を務めた。帰宅してから気分はすこぶる悲観的である。このような校長はやるに値しない。みんなが話す事考える事すべては、生活の話(吃飯)だ。達先生に向けられた話には立腹してしまった。彼は「我々が今日心配しているのは明日の生活のこと。どうすれば十年二十年の計画を考える事ができるのか?十年二十年後ここにいる人はみんな死んでいるよ。」学生の思潮に対しては、胡適は
p.320   心配すらした。彼は学生運動に同情を示した、学生は青年なので、このような困難な環境の下で、苦悶を感じているに違いないと。彼が見るところ、学生は授業に出席すべきである。現在授業ボイコット現象がひどいが、それでも教学の任務は完成できるだろうか、(また)学生の授業ボイコットデモは生活問題を解決できるだろうか(むつかしいのではないか)。ある記者が胡適を取材して、彼に学生運動への賛否を質問したとき、胡適は次のように答えている。「今日の学生の授業ボイコットデモは、問題を解決できない。和戰(国民党と共産党による内戦のことを指すと思われる 訳注)は双方に係ることで問題は複雑で、とても学生が理解できるところではない。学生がもし政治に参加するべきだと考えるなら、学校を離れて政治の場に身をおくべきだ。」
    (中略)
p.321   このように困難な状況のもと、胡適は長期的観点(長遠)に立脚していた。もっとも考え話したのはなお彼の中国教育発展計画であり、中国の科学文化発展のためにさらに多くの人才を育てることだった。一九四七年、胡適は白崇禧と陳誠に手紙を書き、国家の将来の備蓄(儲備力量)として、北京大学に全国で原子エネルギーを研究している一流の科学者を集め、最新の物理学の理論と実践の研究に専心させ、青年学者を訓練すること、を提起した。また、さらに自ら錢三強,何澤慧,胡寧,吳健雄,張文裕,張宗燧らの人と連絡をとった。しかし胡適のささやかな努力は政府役人たちの注意をひかなかっただけでなく、風雨激しい時代であることを全く考慮しないものであり行い難いものだった。胡適の美しい想定はただ一つの空想にとどまらざるを得なかった。
 しかしこの消えることのない胡適の広大な理想にとどまらず、彼はその後さらに「十年高等教育発展計画」を提出した。八月二十六日、胡適は南京で中央研究院会議に出席したとき、かつて蒋介石に向かって話したこの構想を提出した。
p.322   胡適は政府にこの五年十年の時間内に精力を集中して、北京大学、清華、中央大学、浙江大学、武漢大学など五か所の大学を発展させる。さらに五年五か所の大学を発展させる。九月に胡適はこの「十年高等教育発展計画」を整理して《学術独立奪取(爭取)十年計画》とし、新聞雑誌などを通じ発表し、社会の広範な支持を求めた。この計画の目的はまさにこの十年のうちに中国学術独立の基礎を作ることにある。胡適は解説して言う、中国において学術活動を進めるには、”学術独立”がなければならない。”学術独立”の要求を達成するには以下の四条件を必ず備えねばならない。一、世界学術の基本訓練を中国自身がもつ大学で十分対応でき、国外に求める必要がないこと。二、基本訓練を受けた人材が、国内の設備が十分で指導者資料が十分な場所で継続して専門の科学研究を行えること。三、わが国が解決を必要とする科学問題、工業問題、医薬および公共衛生問題、国防問題などが、国内の適切で専門人材と研究機構などが社会国家に協力し解決を追求できること。四、現代世界の学術に対して、わが国の学者や研究機関が世界各国の学者や研究機関と分担協力して、ともに人類と学術の進展の責任を負うこと。胡適はこの計画はとてもよく、十分国際的な関係(接軌)が考慮されており、北京大学に脈打つ学術の自由独立精神を考慮したものだとした。
 胡適はこの計画には相当自信(相當得意的)もあった。十月十日、胡適が天津で六つの科学団体連合年会上で講演した時、《大学教育と科学研究》を題目とし、再び科学研究が大学の中心でなければならない、大学は高等研究を主要任務とするべきだと、協調した。「なぜ科学研究は欧州で発達したのか」胡適は自問自答した。「この点はとても注意に値する。いろいろな解釈があるが、私はもろもろの原因はいずれも重要ではなく、最も重要なのは中古以来の数十の大学存在してきたことだと考える。これらの大学は中断なく、イタリーのボローニャ大学、フランスのパリ大学、英国のオックスフォード、ケンブリッジ大学など、いずれも1000年900年
p.323  あるいは7-800年の歴史がある。これが科学革命を作ったのである。これらの大学は不断に成長し、設備は日々増加、学風も日々養成され、こうして科学研究がなされる。研究人員は終身研究、しかし研究人材は大学から生まれている。彼らの精神を表現すれば、真理のために真理を求める(以真理求真理)である。」胡適の目からすれば、国家に高水準の大学がはあるかないかは、直接そしてこの国家の前途命運と関係している。あの特殊な時代、経済困難で、時局は不安定なときに、胡適が中国の高等教育のため心血を注いだことや、苦心は人を感動させる。

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