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毛澤東-鄧子恢 小脚女人批判 1955/07

薄一波 若干重大決策于事件的回顧より 写真は鄧子恢のもの。(鄧子恢の中央農村工作部部長就任は1953年2月。その後、1955年1月初め、鄧子恢は劉少奇、周恩来らに農村の緊張情況を報告。中央政治局では、農村合作運動を当面抑制(控制)そることを決定していた。この決定について毛沢東は同意していたが、1955年4月下旬、自ら南方を視察、農民の積極性を高いと見て、鄧子恢の方針は、農民の積極性を妨げると判断するように変化した。5月さらに6月下旬と鄧子恢と議論している。この6月下旬の議論は長時間にわたるものとされている。こうした経緯の上で以下で述べられている1955年7月31日の「足の小さな女(小脚女人)」という匿名での批判である。そのうえで8月26日には、当面の数ケ月について、各省自治区の農業合作化問題報告については、中央が直接回答するという中央農村工作部宛ての通知が出され、中央農村工作部は合作問題での指導権を失ったのである。楊雨《『大躍進』運動紀實》東方出版社2014年pp.22-24)

p.230 1951年に山西発展農業生産合作社問題をめぐる争論が開始されてから、わが国の農業合作化の発展程度は比較的早かった。農業生産合作社の数量は、1951年12月に關于農業生產互助合作的決議 草案 が制定されたときには300あまりであった。1952年6月には3000余り、1953年12月に關于發展農業生產合作社的決議が正式に発布されたときには14000余り。1954年春には10万個。1955年春には67万個である。しかし1955年の夏季以降、発展速度は急激に加速した。年末に合作社に参加した農家戸数は全国の農家戸数総数の60%以上に達した。1956年4月には、全国農村は初級形式合作化を基本実現された。10月末には多数の省市で高級形式合作化が実現された。
 農業社会主義改造の急速発展は、また資本主義工商業と手工業の社会主義改造の急速前進を伴った。我が国資本主義工商業と(和)社会主義改造は、1955年夏季以前は、基本は低級から中級へそれが発展して高級まで(進むもので)、主要産業から逐次に次に重要な産業へと、大都市から次第に中小都市に発展するものであった。第一次五か年計画は、1957年末までに私営工業の大部分に各種形式の国家資本主義に転変することを求めていた。私営商業の半数以上には各種形式の国家資本主義商業あるいは合作商業に転変することを求めていた。しかし1955年の夏季以後、農業合作化が大きな波(高潮)になって推進されると、1955年冬、全国の都市で資本主義商工業改造の高潮が沸き上がった(掀起了)。1956年1月末、全国大中都市は全産業の公私合営を基本実現した。1955年末、全国組織された手工業者は約200万人、これは当時の手工業人員総数の25.47%である。農業と資本主義商工業を改造する高潮の影響下、(この数値は)1956年4月には90%に達した。
 わが国社会主義改造加速進行の転換点(転折点)は1955年夏、党内で進められたいわゆる「足の小さな女が道を歩いている(ので遅くてたまらない)」という批判にある。
  「足の小さな女が道を歩いている 小脚女人走路」批判、これは7月31日に毛主席が省市自治区党委員会書記会議で行った「農業合作化問題に関して」という報告の中で提出された。この報告はわが国農業合作化の可能性と必要性を説明し、自発性と利益に互いの利益にかなうという原則を重ねて述べ、わが国の条件では合作化を先に機械化はあとにするという原理を提出、かつまた合作化事業を発展させるうえで指導を強め規則計画に沿うことを求めるもので、これらは疑いなく正しい。しかし報告の基調は、「足の小さな女のように歩く」右傾視点観点の批判にあった。かつこの会議のあと、次第に高まり、10月の七届六中全会とそのあとの「中国農村の社会主義高潮」という本の出版で最高潮に達した。当時全国で「足の小さな女にように歩く」ことはしない、という空気が形成された。これは農業合作化を急速に進めただけでなく、すべての社会主義改造急速化を推し進め、1956年の経済発展速度のばく進(冒進)につながった。
 党内で進んだこの批判は、毛主席と当時中央農村工作部部長、国務院副総理兼第七事務室主任の鄧子恢の間のものであり、浙江省の農業合作社を整頓強固にする問題、そして全国農業合作化の発展速度について、重要な違い(分岐)があったことによる。

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