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民主化についてのー胡鞍鋼、李羅力、吳敬璉の議論(2019/05/13)

民主化についてのー胡鞍鋼、李羅力、吳敬璉の議論  福光 寛
 胡鞍鋼《中國崛起之路》北京大學出版社,2007  pp.198-204(王京濱訳『国情報告 経済大国中国の課題』岩波書店,   2007 pp.104-110)ここでは胡鞍鋼を引くが中国の経済学者の中国経済に関する議論をみるとき、一つの注目点は政治改革の問題の扱い方である。胡鞍鋼の本書での主張は、共同綱領で見られた民主党派との連携という政治の在り方がその後失われたことを問題にしているが、この問題は事実関係としてはよく知られている。問題はそれをどこまで逆転=民主化させてゆくか。
 手元に李羅力《沉重的輝煌》中國財政經濟出版社,2009がある。李羅力(1947-)は南開大学を出て南開大学で教壇に立つとともに、長く深圳の工作にも従事した人物。彼は一方では経済改革に伴って政治体制の改革が進められねばならないとする(pp.361-362)。しかし彼は「中国政治体制改革の終局目標は、中国共産党の指導下にある民主法治社会の建設にある」と明言し、「中国は政権党(執政党)を変えることはできない」「純粋な意味での西欧民主制度は”普遍(普世)価値”をもつものではない」と言っている(p.366)。民主化の程度や範囲が不透明な印象を受けるが、これは行政に近い人物の本音に近いものではないか。
 この問題で参考になる記述として、吳敬璉/馬國川《重啓改革議程》中和出版,2013も上げておく。吳敬璉(1930-)は、ここで経済的発展方式と政治の在り方との結びつきを強調している。つまりなぜ共産党の独裁体制が必要とされたかと、政府主導の計画経済体制の確立とは結び付いている。そうであればなぜ市場経済への移行が、政治の民主化につながらないのか?それは体制の堅持が官僚の権力や利益と結びついており、また多年の教育の下、政治体制の堅持が必要だという思想が、党内で大きな影響力を持っているためだと吳敬璉は説明している(pp.385,388)。

胡鞍鋼《中國崛起之路》北京大學出版社,2007に戻る。
 著者胡鞍鋼(1953-)については、胡鞍鋼《如何認識當代中國》中信出版集團,2017年,pp.196-201  で彼自身が半生を回顧している。進学して学ぶことが文化大革命によって閉ざされた世代であった。1977年、彼は再開された第一回高考に参加して合格。以来ひたすら勉強して10年後に科学院で博士号取得。その後、六四事件後のあと1991年、極端に絞られた留学生の一人として、留学。当時、留学した人がおしなべて帰国しないなか、1993年帰国。帰国後、国務院などの政府系の研究室には移らず科学院にとどまり国情研究を一貫して続けて20年と続けている。つぎにここでの、引用箇所は、反右派闘争とか、文化大革命が、共産党の独裁に関して持っている意味も改めて意識させられるところである。つまり段階を追って共産党の独裁は進み、文化大革命によりついに独裁は完成した。そのプロセスをはっきり書いている。そしてそこからそのあとのプロセスは、その逆転=民主化のプロセスとしてみることができる。胡鞍鋼はかなり明確にその点を述べている。ところが、王京濱訳の岩波書店版はこの原書の明白な主張を、わざと不明確にしており記載事項も大幅にカットしている。王京濱訳の岩波書店版は著者の意図を伝えない点で大変問題が多い。なおこの民主化の変化の一つとして、党総書記が、国家主席、中央軍事委員会主席を兼任しないということがある(1983年胡耀邦が総書記になったとき、李先念が国家主席、軍委主席は鄧小平と別れた)。しかしこの兼任を避ける問題は、趙紫陽が失脚した以降は、総書記が軍委主席を兼任することがまず慣例化。1993年には江沢民が国家主席を含め3者(党・政治・軍事のトップ)を兼任して、元に戻してしまった。この3者兼任を三位一体というようだ。三位一体はよく考えてみると、日本も同じだともいえるが、基盤をなす党の問題が中国は独特であるようにも思える。近代的な国家はどのようであるべきなのか。先進資本主義国と比較したとき、中国の政治体制の何が特殊で何が共通なのか。議論する余地が多々あるように思われる。なお中国の政治指導体制について、以下は大変詳しく述べていてまた貴重な資料も多く参考になる。胡鞍鋼 楊竺《創新中國集體領導體制》中信出版集團,2017年。胡鞍鋼の本は、いろいろな事実をまとめたものであるので、資料として使うという前提では、大変便利。ただ胡鞍鋼という人が、自身でどのような信念を持っているのかは、よくわからない。

《中國崛起之路》p.198  中国の政治の特徴(国情)は、一党制ではなく、両党制でも多党制でもない。共産党が指導する多党協力と政治協商制度である。
 この方面で中国は一定成功した制度を創出し実践しており、またこれまで歴史的誤りや教訓もあった。1949年に中国共産党が執政を始めた時直面した基本任務は、現代国家の基本制度を作る(建立)ことであった。
p.199 1949年第一届全国政治協商会議は「共同綱領」と呼ばれる建国綱領を可決した。綱領は新中国が一党制の政府でなく、労働者(工人)階級、農民階級、小資産階級、民族資産階級の4大階級を含む、各階層が共同して組成し、また労農連盟を基礎にし、労働者階級が指導する、連合政府であることを明確に規定していた。1949年の中央人民政府は、《共同綱領》と《中央人民政府組織法》を根拠に選挙で生み出された中国人民政治協商会議第一届全体代表であり、以下の5つの部分から構成されている。国家の最高政府機関である中央人民政府委員会。国家最高行政機関である政務院。全国最高審判機関である最高人民法院。全国最高検察機関である最高検察署。全国最高軍事統帥機関である全国最高軍事統帥機関。後ろの4機関は中央人民政府委員会が任命指導する。
 しかし1954年の全国第一届人大は、《憲法》を可決して上述の体制を取り消し、国務院を設立(成立)した。その総理は国家主席が指名する。(また)全国人大で選出され、それぞれ全国人大に対して責任を負っている最高人民法院、最高人民検察院を設立した。このほか、最高国防諮詢機構である国防委員会を設立した。
 1949年の第一届中央人民政府の構成員の中では、毛沢東が主席に就任。6人の副主席の中で党外人士が3人、50%を占めた。政府委員56人の中で党外人士が27人48%を占めた。4人の副総理の中で党外人士は2人50%を占めた。15人の政務委員の中で党外人士は9人60%であり、政務院が所轄する34の部、会、院、署、行でトップに就いた党外人士は14人41%であった。
 しかし《共同綱領》のこの制度の配置(安排)は臨時的なもので、過渡的で、状況に応じたもの(策略性)で、1954年第一届全国人大第一次会議時にすでに大きな変化があった。まず国家副主席は朱徳ただ一人になった。次に国務院副総理はすべて中共政治局委員あるいは候補委員になった。民主党派の参政人員は大幅に減少(下降)し、参政能力は大幅に弱められた。
 1957年の反右派闘争のあと、中国の民主党派は、公然と(正式)政治の周縁に追い遣られた。国家機構では3人の部長と、
p.200  一人の副省庁が免職(被撤職)された(1958年)。全国人大委員会の3名の委員と38名の人大代表が代表資格を取り消された(被撤銷)。
    60年代に入ると、基本的には民主党派は執政に参加する資格も能力ももはやなかった。1966年に「党委を蹴って革命をせよ」;1968年には党の一元化が提起された。すなわち党政軍民学であり、党の指導がすべて決めるとする。すなわち一党執政である。人大は作用しなくなり、取り消された。全国政協もまた開かれなくなった。民主党派は基本上は工作を停止した。1977年以後、党は回復を開始し、国家基本制度建設が開始された。80年代には二つの憲法章程が制定された。一つは「党章(中国共産党章程のこと 訳注)」一つは「憲法」。一党執政を繰り返すところから、一党が指導する多党協力の執政の方向への転向(変)だ。
 1980年鄧小平は党と国家指導制度の改革改善を提起した。制度上、党と国家政治生活の民主化を保証すること、そして社会生活全体の民主化を保証すること。
 第一、党の重大会議の開会(召開)の制度化を始めた。党の今までの全国代表大会は基本的には《党章》の規定による。”党の全国代表大会は五年ごとに1回開かれる。”中央委員会全体会議(中央全会)の開会も制度化を始め、毎年少なくとも1回挙行するとされた。”
 第二、党と国家権力の構造と配置を改めた(重新)。第一段階は1980年に提出された中央指導者の兼職があまりに多すぎる問題だった。第二段階は1982年に党の十二大で党の中央主席の職務が取り消され、党の総書記の職務が設けられ、1943年以前の党の指導体制が回復し、中央書記所が再び設けられたことである。第三段階は1983年に六届全国人大一次会議が、党、政、軍の最高職務をそれぞれ3人に担任させたことである。七届全国人大一次会議は、党中央総書記、国家主席、軍委主席この3つの党、政、軍の最高職務それぞれ3人に担任させた。これは新しいタイプの最高権力メカニズムを体現している。すなわち、指揮する馬車は多数いて、相互に牽制(相互制衡)一緒に享受する(共同分享)。
   国家最高指導者の終身制は廃止し、2期任期制を実行した。
p.201   1982年の五届全国人大五次会議は《憲法》を修正し、国家主席を回復し、設けた。国家中央軍事委員会を増設し、国家中央軍委員会主席を設けた。まず国家指導者の任期制を定めた。すなわち国家主席、副主席、国務院総理、副総理、国務委員の連続任期は二期を超えることはできないとし、国家指導者の職務終身制を廃止した。残念なのは(可惜)1982年の《党章》と以後の修正では(総書記や中央政治局常務委員)の任期制は存在しないことである。
 第三、党指導者の革命家、若年(年輕)化、知識化、専業化、制度化を促進すること。十三大中央政治局常務委員の平均年齢は63.6歳で十二大が73.8歳だったのに比べて10歳若返った。政治局委員の平均年齢からみると、十二大の71.8歳に比べて、十三大は64歳で約7歳若返った。江沢民、喬石、李鵬、そして李瑞環はいずれも1987年の党の十三大で中央政治局あるいは中央政治局常務委員に入ったものである。当時党の指導者の若年化は党の制度建設に対し、大きく推進された。
 十三大が可決した《党章修改案》は党の全国代表会議に重大な職権2項目を増やした。重大問題を討論し決定すること。中央委員会、中央顧問委員会、中央規律検査委員会の構成員を調整し追加選出すること。
 第四、党と政治を分けること。1987年の党の十三大報告はつぎのように規定した。”今後、各クラスの党委員会は政府内に担当職あるいは政府工作を管理する専門書記や常務委員会を設けない” 
 第五、党の民主制度建設を強化する。党の十三大報告は、党の集団指導体制と民主集中制の完全化(健全)を提起した。それは中央からはじめなければならない。中央政治局常務委員会は中央政治局に、中央政治局は中央全会に工作についての定期報告を行う制度を設けること。中央全会の毎年の開会回数を適切に増やすことは、中央委員会が集団的解決作用を発揮することに役立つ。中央政治局、政治局常務委員会、中央書記処の工作規則と生活会制度を設け、集団指導の制度化を進めることは、
p.202   党の指導者への監督・制約を強めることになる。これは党の集団指導での政策決定を完全にする良い制度であり、党の決定の民主化,科学化を保証し、党と委員会の中央政治局、政治局常務委員会、党指導者に対する監督を確かに保全する。十三大が可決した《党章修改案》はまず予備選挙での差額選挙の採用し、選出候補者名簿を作成、そのあと正式の選挙をすることを提起している。
 第六、通常の退職制度を作ること。(中略)
p.203  第七、共産党が指導する多党協力と政治協商制度を改めて回復開始し、全国政協の民主監督と参政議政(議政とは政事を議論すること、政府の方針に対し意見や建議を提出すること 訳注)作用を発揮させること。(以下略)
   ⇒ 鄧小平による1980年8月18日の中央政治局拡大会議での「党と国家の指導制度の改革について」と題された講話。鄧小平による1986年9月27日六中全会での「ブルジョア自由主義に反対する」講話。胡耀邦による1987年1月16日の政治局拡大会議での自己批判と党総書記辞任。趙紫陽による1987年10月25日中国共産党第13回大会冒頭の報告。これらによって、この時期の中国共産党の民主化への歩みと限界を跡付ける作業は及川淳子によっても丹念に行われている。及川淳子「政治改革をめぐる言論空間の様相」同『現代中国の言論空間と政治文化』御茶ノ水書房2012年、pp.31-58所収。

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