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陳雲のロシア留学 1935-1936

 陳雲(チェン・ユン 1905-1995)が1935年にロシアに向けて旅立った話は良く知られている。35年8月5日、上海から海路ウラジオストックに向かい、シベリヤ鉄道でモスクワに着いたのは8月20日(このロシア旅行の経緯は福光寛「鳥籠理論そして陳雲」『成城大学経済研究』第214号2016年12月37-42,esp.52を見よ)。そして翌年12月8日にはモスクワを離れて国境に向かった。モスクワ滞在は1年余り。なお今回資料として一部を訳出する劉芳啓《陳雲的蘇聯情緣》は朱佳木主編《陳雲與當代中國》當代中國出版社2010年612-619に収められていたもの。著者は暨青浦革命歴史記念館館員とのこと。ここで著者は、いくつか指摘をしている。商務印書館で働いていたとき、陳雲がロシア語を勉強したことはこれまでも知られていたが、当時すでにロシア人と意思の疎通ができる程度まで勉強が進んでいたこと。そして1935年秋からモスクワで1年余り過ごし、講義を受け、文章を書く学生生活を陳雲が過ごしたこと。英字紙で情報をとり、中国なまりの英語(洋涇濱)を話したこと。こうしてロシアで培った、ロシア人との意思疎通力が、抗日戦争勝利後の東北局でのソ連軍との対応、さらに一次五か年計画での、ソ連から援助獲得に役立ったことを著者は示唆している。仮説として陳雲は新中国におけるロシアとのパイプの一つにも見える。
 となると逆に不思議に思えるのは、毛沢東との関係である。毛沢東は彭徳懐や張聞天など、ソ連寄りと見た人を政権から徹底して排除したように見えるからだ。ロシアとの関係にもかかわらず、陳雲が排除の対象とならずに済んだのは、陳雲という人の出自、長年の毛沢東への貢献が、カギであるように考えるがこの点は別の機会に述べることにしたい。

p.612   一 ロシア語の学習
 陳雲とソ連との縁は十月革命が元である。1917年にロシア国で十月革命が勃発(爆発)した。十月革命の砲声は、中国にマルクス主義を届け、中国の先進分子に一筋の民族解放の新道路-社会主義道路を着目させるよう響いたのであった。1917年から1925年まで、多くの志のある人々の努力宣伝によりマルクス主義の思想観点、文章専門書、雑誌書籍が中国に広く伝播した。1922年9月そして1924年6月、上海商務印書館は瞿秋白がモスクワで書いた2冊の散文作品《俄鄉記程  新俄國游記》,《赤都新史》を出版し、ソ連の実際の情景を宣伝紹介した。この時、陳雲は商務印書館が主催していた上海図書学校(内容不明 訳者)を卒業(結業)し、何冊かの政治書籍を読み始め、救民強国の真理を探究した。1925年に、(20歳の 訳者補語)陳雲は同僚の紹介により、また、上海通信(通訊)図書館に本を読むために通った。上海通訊図書館は進歩青年で應修人(イン・シウレン 1900-1933)、樓適夷(ロウ・スウイ 1901-2001)が20年代初期に始めたもので、進歩の要求のため、自学する青年読者に服務することを目的にしていた。五三十(五卅)運動のあと、應修人は中国共産党に加入した。図書館は秘密裏に党の刊行物を広めた。またいつも党の指導者に図書館での報告を求めた。ここで思想に進歩を求める陳雲はマルクス主義に接し始めた。彼は『マルクス主義入門(淺説)』『資本制度入門(淺説)』を読んで、その中の理屈(道理)は三民主義よりさらに良いと考えた。半年後(兩三個月後)陳雲はすぐに中国共産党に加入した。共産党に加入後1926年に大革命が爆発した。陳雲は前後して20回余り党内流動訓練班に参加し、『共産党宣言』『国家と革命』『共産主義運動中の”左派”幼稚病』などマルクス=レーニンの著作を閲読した。これらの著作の学習を通じ、中国革命の実際と結合して、陳雲は革命家(者)にとって、ロシア語がとても重要だと認識した。そこで陳雲は上海でソ連人と接触を始め、ロシア語を学び始めた。
 ロシア語を学ぶ過程で、陳雲は商務代表処で仕事をする共産主義者スラコフスキーと知り合った。二人はロシア語と中国語を交えて会話し、一方で語学を学習し、他方で
p.613   ソ連と中国の革命運動についての見方について交流した。交際の過程で、陳雲は彼らにとても良い印象を与えた。「この若者は非凡な才能を示している。言葉の表現では、彼の持つあらゆる知識を表現している。」「彼の表情は豊富で,知恵があり(聰慧)情熱的である(充滿激情)」(彼は)「自分の国家と民族独立と人民の社会自由のために奮闘する真正の戦士である」。彼らの支援の下、陳雲はロシア語の進歩がとても速かっただけでなく、ソ連国内の戦争についても詳細に理解し、帝国主義がいかに干渉しているかや、ソ連人民の生活などの問題についても理解した。これらすべてが彼が1935年にモスクワに行く準備となり必要な知識となった。
 共産主義の理想実現のため、陳雲はロシア語の学習に努力し、積極的にソ連革命の情況を理解した。中国革命の発展貢献する個人的力量を高めたところに着眼を大きく、小さく開始する(大處着眼,小處着手)陳雲は体現されている、理想に向けて一歩一歩進める着実な仕事ぶりと態度である。

           二、モスクワに赴く
 1935年、陳雲は長征の隊伍を離れた。上海に行き白区の党組織を回復すること、(そして)コミンテルン(共産国際)との連絡を回復(重建)するという命令を受けたのである。しかし白色テロにより、上海の党組織はひどく破壊されていたので、中共の駐コミンテルン代表団は先にしばらくソ連に来ることを提案した。当時いかにソ連にゆくかはとても困難な事情があった。宋慶齢、国際友人の馬海徳それにソ連船長などの支援を得て、陳雲は何とか無事モスクワにたどり着いた。のちに陳雲は「潭秋同志とソ連に赴いた思い出(回憶與潭秋同志同赴蘇聯)」という題で、上海からモスクワまでの具体的な旅程を記述している。驚きと危険に満ちた旅であり、陳雲にとり初めての出国であり、彼は革命に参加後、慕ってきたソ連に達したこと、モスクワに着いた後、彼はとても喜んだ。彼と其の外の同志も一緒に、すでにソ連での工作2年あまりの康生を引き連れて、ソ連各地を参観した。そのあと陳雲は中共駐コミンテルン代表団の工作に参加し、モスクワレーニン学校で学習し、併せてモスクワ東方大学で代理副教授を担任した。この時のモスクワの仕事(工作)では、学習と生活の経験(経歴)が陳雲にわすれ難い印象を残した。1960年10月21日に陳雲は河南考察期間,中共河南省委員会の責任者とソ連について語った時、我々の二つの国の情況は異なっており、彼らは土地に対して人は少なく、糧食十分食べれる。1935年に私がソ連に行ったとき、卵、豚肉、牛肉を買うことが出来、宿では牛乳を買えた、と述べている。1942年と1988年には陳雲は、前後してモスクワで、革命理論知識を学んだこと、そして英語を学んだときのいくつかの具体的情況を思い起こしている。
 モスクワのレーニン学校において、陳雲は主に政治経済学、レーニン主義問題、西欧の革命史、
p.614  中国革命問題と中共党史を学習している。彼は時間をおかず系統的にマルクス主義の経済理論知識を学習した。このほか陳雲は以前に学習した英文の基礎上で英文を学んだ。数ケ月後、陳雲は「モスクワの英文版毎日新聞をみることができ、会話は中国なまりの英語(洋涇濱)を話すことができた。」翌年(1936年)5月陳雲はレーニン学校の学習で”突撃手”の称号を得た。
 モスクワにいる間、陳雲の生活はとても忙しかった。政治任務のほか、国内の革命情勢に一層関心を注いだ。彼は一二・九学生運動を極めて賞賛したし、《全中国学生の救国運動》の一文を前後して大平、史平の書名で《救国運動》《全民月刊》上に発表した。のちに陳雲は《救国時報》上にさらに《革命運動の発展と敵のスパイ(奸細)活動の防止》《これは本当の話か嘘の話か》《夜更けに》《誠意と基本準備》など多くの文章を発表した。
 このほか陳雲は中共と中華ソビエト共和国中央政府の代表となっており、ブリュッセル国際和平会議中国代表団の名簿にも入っている。
 1936年10月、中共駐コミンテルン(共産国際)代表団は陳雲を団長とする中共中央代表団を組織することを決定した。(中略。以下は簡単にまとめる。この代表団はその後、12月8日にモスクワを離れて帰国の途についた。中ソ国境までタンク90両などを従えてまず移動、国境近く新疆の霍爾果斯に4ケ月いたあと、新疆に入り陳雲は新疆の指導者盛世才と軍事技術の供与などについて話し合いをして任務を終えている。背景にある新疆地域の軍事情勢についての記述が不足している。著者は1年余りの間に陳雲は、様々な役割を演じたとしている。なお1936年12月に国境地帯で4ケ月動けなくなったのは、西安事変の影響とされる。前掲、福光論文p.53)

   三、ソ連軍方との交際(簡略にまとめた)
 抗日戦争勝利以後、中共高層とソ連共産党高層の政治見解の違いから中ソ関係は微妙になった。中共中央は彭真を書記、陳雲たちを委員とする東北中央局を決定、
p.615  東北地区の工作の統一指導、ソ連軍との関係設立にあたらせた。1945年9月15日に陳雲らは延安からソ連の軍用機で東北に入った。東北にいた時、陳雲はソ連軍の沈陽、長春、哈爾浜に駐在のソ連紅軍の高級将校と広範な接触を進めた。大都市を国民党政府に与える必要もあり、陳雲はほかの指導者とともに大都市から撤退して、広大な農村や小都市に根拠地を置く方針を(党)中央に提起し、採用された。
 東北解放後は、戦争中の重工業が受けた破壊の回復を急ぐため、陳雲は大量のソ連の専門家召請を提起した。

   四、ソ連援助の争奪
 全国解放後、陳雲は財政経済工作の指導者として第一次五年計画の編制の責任者となり、1952年と1958年の2回ソ連を訪問、工業化建設への援助を強く求め、大型プロジェクト設計専門家の招へいと、ソ連への中国留学生派遣などの問題の交渉にあたった。(中略)
 陳雲は言った。第一次五年計画中の156項の援助は、ソ連の労働者階級とソ連人民の我々への情宜を示している。1951年夏(ソ連の通信社の記者の詩取材を受けた時)陳雲は指摘した。「目下の国際形勢のもと、中国とソ連が中心の和平陣営国家の経済協力(合作)は、中国にとり極めて重要です。この種の経済援助が中国の経済建設を支援すれば、
p.616   米帝国主義による中国に対する経済封鎖を有効に破ったことになります(有效地反對了)。

   (なお周知のように1960年7月にソ連は中国に対するこれらの協力の破棄を一方的に通告するのである 訳者)

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