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白羽「一個七〇届眼中的四中」1968-1970, 2012/03

『暴風雨的記憶』三聯書店2012年3月pp.363-364, 366-369から採録。白羽は1968年に北京四中に入学した人。1968年から1970年まで、13歳から15歳の多感な時期、文化革命下の中学生活をここでは述べている。とくに学生を農村に追いやる下放政策に公然と反対した趙京興についての思い出は圧巻である。白羽は1970年に四中を離れ小学教師。1977年北京放送(广播)学院に進学。その後、中央人民放送局(广播電台)に勤めている。

p.363   1968年初めに私が北京四中に進学(進入)したとき、わたしはまだ13歳だった。いわゆる「進入」は、その時、入学試験で男女の学校を分ける規定が廃止された結果である。われわれこの「七〇届初中生」は、男も女も、居住区域により近いところである全国に知られた重点中学に配属(配分)された。当然、私はたとえ文革がなくても、試験で進学できたと考えていた、というのは私は小学の成績は突出していて少年先鋒隊の大隊長だったので。もともとの理想は試験で合格して四中に入ることだった。近くにあるから入学というのは、昔日の栄光とは程遠かったが、四中の大門に第一歩を踏み込んだときは
p.364   さすがに感激した。
  初めて四中の校内に入ったとき、いたるところで西北からの風が壁新聞の破片を切り裂き巻き上げていた。高学年の学生と先生方は、教養と礼儀(文質彬彬)を感じたが、社会において革命造反をする強烈な気分(火藥味)はほとんどなかった。「文革」前の父や知識分子の生活環境がそうであったように、とても熱心で懇切であった。「新四中公社」など群衆組が組織されていたが、校内では政治活動はとても少なかったが、その合唱団が演出した《紅衛兵組歌》《長征組歌》《毛主席は我々の心の中の太陽である》の類の詩歌連唱を見た程度である。あの短い時期、政治の空気はそれほど強烈(濃烈)ではなかった。学校にはすでに「三結合」の「革命委員会」が成立。「授業に戻り革命をすること」が進められ、おおよそ「正常」な教学秩序があった。
  (中略)

p.366   1968年前半の片時の平静は、「階級隊列を整えよ」というスローガンで忽ち破られ、多くの教師が「階級敵」とされた。
 私の記憶のなかで忘れられない場面がある。学生たちが校長室に突入し、楊濱になぜ修正主義教育路線を行うのかと質問するが、彼女は真っ青になりながら一言も発しなかったこと。劉鉄嶺が全校大会で自身の「反動日記」を自己批判した態度が穏やかだったこと。ある中年の女性教師が剃刀で自身の喉を切って、大講堂の後ろの通路で無残に亡くなっていたこと。少し前まで演台で毛沢東の詩詞を演唱していた音楽教師の曹会澄が破れた作業服を着て、暗然とレンガを積んでいたこと。あるとき長安街をデモして「劉少奇を倒せ」をわざと「(語学教師の)廖錫端を倒せ」と叫んで、ほかの学校のデモ隊に奇怪(莫名其妙)におもわれたこと。(階級異分子とされた)20人余りの中老年教師が、小屋(牛棚)に入れられ、紅衛兵の監督者(少将)によって日夜交代で、監督、飲食、起居、労働、学習、批判闘争をさせられ、「その日の報告」を求められていたこと。。。
 間もなく何人かの学生もまた迫害を受けた。我々はそばで聞いたのは劉源源(劉少奇の子)に対するクラスレベルの批判会で、劉源源は講演台のそばに立っていた。発言とスローガンに対して、感情を全く示さなかった(无動于衷)。後で聞いたところでは、彼が殴られそうになったとき、紅衛兵団長の長張杰(そのお父さんは総参謀軍機械部某処処長)は関係を通して彼を白洋淀に匿った。八届十二中全会が正に終わり、軍代表が全校に伝達した。周恩来が劉源源兄弟姉妹数人を探し出して
p.367   中南海で、直接伝えた。君たちはなお「教育の良い子女でありうる」と。我々はほかにも、傳亮(彭真の子)、薄熙成(薄一波の子)、孔丹(孔原の子)などの幹部子弟に対する批判闘争全校大会に参加した。彼らの罪名は「’文革’への不満」であり、一度に二三十人が一律に「噴気式」(の姿勢)だった。
   私にはなお二人隣家でもある校友がいる。一人は(年長の)映画監督陳凱歌(北京撮影所監督陳懐皚の子)で、1966年に紅衛兵に家を荒らされ(找家)彼は壁に立たされた。もう一人は同年齢の同窓生劉平梨で、彼の父親は老紅軍で八一厂(八一映画製作所)創始人の一人で、母親は「三八式」幹部(訳注 抗日戦争初期に身を投じた幹部)で北京撮影所の医者である。劉平梨は、江青の三四十年代の隠し事を想いを寄せる(要好)同窓生に話して聞かせた。結果は暴露されて(被揭發)「反動学生」となり、全校で批判闘争され労働改造されることになった。もっともやっかいなことは、学校が私に学生を代表し発言することを指令したことだ。したくなかったが先生は言った。「君は劉平梨の側に立つのか、あるいは毛主席の側に立つのか?」と、私は命令に従うしかなかった。演台に上がる前、そばに立っている劉平梨は笑みを浮かべて(笑眯眯)私に言った。「さっさと言っちまえ!それだけ俺は早く座れる」。彼は一貫して楽天派で、過去も今も私を不愉快にさせない、いまにいたるも私の良き友だ。

 もっとも驚き心を動かされたのは、遇羅克そして趙京興の件だ。1968年、初三学生の趙京興は学校内で壁新聞「私はなぜ上山下郷(訳注 農村に下放することをこう言った)に行かないのか」を張り出した。将来歴史が与えるであろう彼の使命を完成するには、貴重な青年時代を使い多くの書物を飽きるほど眺めることが必要だと、声を上げた。私自身は「上山下郷」に対してロマンチックなイメージを膨らませていたが、趙京興の選択は深く理解賛同した。まず私は若い時はたくさん読書すべきだと考えていた、当時の社会世論は実践を読書より重視し、甚だしくは「知識がおおいほど反動」だというものではあったが。さらに私は、「天が生んだ私は必ず必要とされる」という同じ使命感を感じていた。
 一九七〇年の「一打三反(訳注 直接の内容としては反革命破壊行為、職権の悪用、投機・浪費への反対である。)」の時、公安局は遇羅克を逮捕し、その親友で同性格の犯人である趙京興は、学校の小屋(牛棚)に押し込められた。たまたま私は、小屋の管理人で、さらに彼の批判に対して責任がある学校の「専案組」にも参加していた。つまり北京市のどこで趙京興に批判闘争が行われるにせよ、いつも一緒に登壇して批判発言をする必要があった。こうして私は趙京興と朝から夜まで一緒で、彼をより深く理解することになった。
 趙京興は当時十七八歳で、すでに、文学、歴史、哲学、政治、経済、を飽きるほど学び、理解していないことはなかった(无所不通)。彼は遇羅克の出版を助けただけでなく、八万字の「哲学批判」と三十万字の「社会主義経済問題に関する対話」を書いていた。彼はさらに1966年以来、二つの新聞と一つの雑誌の社論に逐一批判を書き続けた。
 彼は日記の扉に「カール、努力せよ」と書いて自らを励ました。押し込められた小屋の壁には「魯迅の骨は最も堅かった」との条幅を掲げた。わたしは常に趙京興に各種の学術問題で教えを請うた。彼は喜んで応じ、堂々と話し(侃侃而谈)私が得るところ少なくなかった。あるときは批判闘争から戻ると、趙京興は君の今日の批判はあそこはこう書いた方が良い,あすこはこのようにすると深くなるなどと伝えた。私は直ぐに彼の「指導」のもと、彼を批判する原稿を書いたものだ。
 間もなく運動はより高い段階に移った。遇羅克は銃殺され、趙京興への「専案組」は情報から隔離された。公安の調査にはその方がよいと。ある日の夜、我々が待ち構えていると(严阵以待)三人の中年の私服警察が来た。彼らは謝富治の命令で来たと言った。部屋に入るや厳しい声で怒鳴った。p.369   「立て!お前が趙京興か?」趙京興は立ち上がると悠然と答えた。「私が趙京興です。」警察が問うた。「お前の自身の言論に反省後悔しているか?」「いいえ」ー「お前を逮捕する!」
二人で趙京興に手錠をかけ、校門前に止めた黒い大型高級ジープに押し込むと、洋々と去っていった。その後、趙京興は警察に拘束されたまま批判闘争を受け、私は彼の影のように、毎回彼とともに発言した。しかしその後、彼は一度も私の目をみることはなく、私と今一度話すこともなかった。これらの批判闘争会では以前に比して一つ内容が加わった。それは会の前後、小屋の中あるいは貨物車の上で、彼に毒づいたり、殴る蹴るなどの行為が加わったことだ。趙京興はいつも黙々とこれを受け入れた。最後に彼は現行反革命の罪で30年の懲役刑の処せられた。同時に聞佳と名乗る美女と名乗る美女も判決を受けた。気質高雅,清丽脱俗,どこも変える必要のないほどの美人だった。
 (19)70年代末のある夏の夕方遅く、私は故宮筒子の川辺で趙京興を見かけた。彼は三人の友人と散歩しながら談笑していた。私は再三、あいさつしよう思いながら遠慮してしまったのは、今に至るも心残りなことである。


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