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三反運動 五反運動 1951末‐1952

(薄一波『若干重大決策与事件的回顧』中共党史出版社 1997修訂版の2008年の重版による。)
P.98   7. 腐食を防ぐ方針のもと、三反運動を展開する。
 抗米援朝、土地改革、反革命鎮圧の3つの運動に勝利したことを基礎に、党中央と毛主席は、1951年末に反汚職(貪污)、反浪費、反官僚主義の「三反」を開始した。これは我が党が政権を握って以後(執政後)、資産階級の党への腐食に意識的に抵抗克服し、共産党人の民を基本とする廉潔な政治を保持するための最初の成功した実践であった。
 三反運動で劉青山と張子善の処刑を果断に決定したことは、当時大声での警告(振聾發聵)となり、正気を保ち邪悪を振り払う(扶正祛邪)効果があっただけでなく、その後数十年強い印象を残した(記憶猶新)。今日我々の歴史条件と直面する任務はあの当時と同じではないので、主として法制によって経済犯罪その他犯罪活動を処罰(懲治)することが完全にできるし、「三反」のような群衆運動方式を再び取る必要はない。しかし「三反」運動において群衆に深く依拠して犯罪現象と戦ったことは、腐敗を厳しく処罰し、腐食を防ぎ、厳しく党を管理する(治党)などの方面で貴重な経験をのこしたのであり、当時多くの幹部と群衆があの苦しみの中で始めた、たゆみない(自强不息的)革命精神は、代々受け継ぐに値する。

(劉青山と張子善の事件は河北省党委員会による調査と死刑とすべきとの判断が1951年12月14日に中央に上げられたもの。興味深いのは二人が所属する天津地区委員会8人、そして地区の幹部党員552人が二人の量刑をどうするかの投票を行ってその結果と判断が中央に伝わっていることである。その後、12月20日に党籍解除、死刑(あるいは執行猶予2年)との処分案が再び中央に上げられた。1952年2月3日中共中央華北局常務委員会は三反運動の進め方を協議。二人を銃殺にすることと、公開裁判を開くことを決定。この決定を受けて、2月8日河北省人民政府政務委員会は二人を銃殺死刑とその全財産の没収、公開裁判を決めた。劉青山と張子善は1931,1932年に入党した古参党員で、土地革命から解放戦争までの貢献があり、劉青山は逮捕時、天津地区書記で石家庄市委員会の第一副書記も兼任するなど地位も高かった。問われた罪状は、立場を利用して、公共工事や災害復旧などに絡んで、また国家から用意される貸付やさまざまな食料を利用するなどして,私腹を肥やしたことにあった。木材や鋼材の不正な売買、国家から支給された食糧の横流しのほか会社を自ら作ったり投機を行ってもうけたり、「機関生産」を利用してもうけてたとされている。厳しい処分の反面、注目されるのは劉青山の死刑後、その3人の子供に対して生活費が支給された温情は注目される。これは整風運動や反右派闘争における対象者の家族に対する厳しい対応と異なっている。なお二人とも車を乗り回して派手な生活をしていたとされるのでそれがねたみや恨み告発につながったことは想像できる。ただ政権をとって、わずか2年で、こうした顕著な腐敗現象がでてきたことは、共産党員であるから清廉とはいえないことを図らずも証明している。「処決劉青山和張子善細節 毛沢東親批斬殺令」中国網中国国情2015年2月9日 guoqing.china.com.cn 「毛沢東爲啥一定要処決劉青山張子善?」人民網2015年5月5日cq.people.cn   ともに2015年7月29日閲覧)

p.114  8.「五反」(運動)の発動、不法な資本家の狂った侵攻を打ち負かす 
 1952年初め、「三反」運動が高まっている中、毛主席の提議により、党中央は大中都市で資産階級の賄賂、脱税漏税、国家財産のだまし取り、工業原料の盗み、経済情報の窃盗に(反対する)五反運動を開始した。この闘争は、資産階級の違法活動に打撃を与える重大措置であり、労働者階級が不法資本家と実力対峙するもの(較量)であった。闘争に勝利し、党に歯向かい、社会主義国営企業に向かって狂った侵攻をした不法資本家を打ち負かしたことは、正常な経済秩序の建設そして資本主義工商業の改造にとり、その後の計画経済の建設にとり重要な作用となった。

p.120  1952年2月25日私(薄一波)は上海に入った。私が入る前に上海の「五反」は実際は既に開始され、燃え盛っており(火力猛烈)200人余りを逮捕し、新聞の宣伝は熱が上がり、空気はとても緊張し、資本家の自殺事件が48件発生し34人が死んでいた。私が上海に到着した日に、毛主席と党中央の上海については「五反」を遅く発動する指示が伝達され、華東局と上海市委員会は即座に、先に集中して三反を十分に行い、五反運動は暫時停止することを決定した。…

p.122 準備を重ねたのち上海の五反運動は3月25日に正式に開始された。この日全市動員大会が挙行され、当時上海市長だった陳毅同志が報告を行った。彼は、行き過ぎた現象の防止を何度も協調し、党の政策を詳しく報告した。この会があってから、上海の資本家は落ち着き、飛び降り事件(五反運動に悩んだ資本家がビルから飛び降り自殺したことを指す)の影響もたちまち消え去った。

     (なお上海については開始が遅れ、いったん休止の後、準備を整えて行われたとある。pp.120-122を参照。このような五反運動は、大陸に残っていた資本家をおびえさせ、おとなしくさせる効果、抵抗させる気持ちをなえさせる効果があったのではないだろうか。その意味でこの運動が社会主義改造の出発点になったという指摘は正しい。しかし五反運動では、不正が現実にあるとかないとかいうのではなく、不正はあるという前提で、力によって迫られる状況で、資本家に残された道は不正を白状して、しかるべき納税納付に応じることだったのではないか。しかしこのように戦争中の敵と味方のように、資産階級個人の人権を無視することで、力で人を押さえつける統治を始めた共産党は、法律や人権を軽視するという体質を自らの体の中に深く宿してしまったのではないだろうか。)

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