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Brus & Laski, From Marx to the Market(1989), OUP:2002

 本書の結論部であるが、市場社会主義market socialismが何かについて明確に述べられている。大きな主張点は、従来の資本主義に代わるものとしての社会主義と言った考え方が否定されていること。「社会主義国」で行うべきことは、革命によって中断された市場化を進めることだとされていること。この2点において、従来の社会主義者の主張を覆している。この本は1988年に書かれて1989年に発表された。社会主義圏の崩壊を背景に、社会主義国で何をするべきかが論じている。今日読み返すと幾つか問題を感じる。社会主義国についてはそれでいいとして、では資本主義国の在り方について、市場社会主義は何を主張するのだろうか。そもそも市場化と資本主義化は同じものなのか。また中国の「社会主義市場経済」は「市場社会主義」と同じものだといってよいのだろうか。

p.150 この我々の以前の著作とは異なり、「現実の社会主義」を改革するプロセスから生み出されるべき、経済制度の規範的モデルを探求しようとしたものではない。この躊躇の理由の一つは過去のこのようなモデル構築について我々の経験にもとづく。過去の著述で何度も議論したことが結局ほとんど成功とはいえないことが証明された(proved scarcely sucessful)という。我々は、経済制度の究極のモデルを明確に定義する努力の有効性への疑いを表明している、共産主義国の改革論争への参加者の見解を共有する。
 この本の背後の意図は、「現実の社会主義」の実際の進化の過程を研究することにあった。なぜこの進化は市場社会主義自体(market socialism proper)に向けてのますます強まる傾向を演じたのか。この傾向の現実化にはどのような種類の問題が含まれているのか。9章及び10章で議論された市場社会主義のありうべき特徴は、指図的priscriptivではない。我々は、経済が市場の調整に従属することに好ましいpropitious条件をつくりだすことを目的とする、様々な改革提案の実現可能性vialbilityについての断言を下すことを避けるように努めてきた。この自己制限の間接的効果のなかでは、市場社会主義が「現実の社会主義」が経済の挑戦に立ち向かう唯一の道とみなすべきかどうか、あるいは直接的中央計画を機能可能にする代替物が、たとえば(一部の人の考えでは)東ドイツの線で存在しているかどうか。といった問題はもちろん除かれている。われわれは市場志向の傾向を、歴史的な規模で十分な重要なものとして扱う、そのすべての含意が出されるように集中している。
 これらの含意は特定の問題あるいは組織に限定されない。市場社会主義の概念が,前世紀において世界の多くを支配した社会主義対資本主義の論争に新たな側面dimensionをもたらすことは明確であるべきだ。もしも社会主義がーもっとも一般的用語においてーその経済的特徴付けにおいて、公有制、中央での計画すること、そして労働に応じた配分、が支配的であることが。その経済的特徴付けで、必ず含むというのであれば、そのときには市場社会p.151  主義自身は、これらの信念の柱のそれぞれに対して、明らかに一つ以上の点で原則に反しており、それを社会経済システムの今一つのやり方だと穏やかに告げるにはかなりの詭弁が a degree of sophistry必要である。
 残酷な東欧批評は社会主義を「資本主義に向けた痛みにあふれた道」だと述べている。市場社会主義がこの道にある(あるいは多くの人がいうようにこの道を滑っている)とみることは行き過ぎmuchかもしれず、少なくともまだ早すぎる。しかし我々の心の中で資本主義と社会主義の経済体制のこれまで認識されていた違いが、市場社会主義のもとで完全に曖昧になったthroughly blurredことにはほとんど疑いがない。それゆえ市場化は、「現実の社会主義」の経済的疾患の救済策the cureとして受容されたのであれば、もともとのマルキストの約束がアナクロニズムとして脇に追い遣られるだけでなく、資本主義から社会主義への概念それ自体も(そうでなければならない)。この面における「現実の社会主義」の進化は、この点で第二章で議論された逆転された規制を補っている。他方では進化した資本主義は、それ自身が社会主義の転形する期待された性向を示すことはなかったが、「現実の社会主義」が成熟するとともにますます資本主義の武器庫から借りることを求められた。市場社会主義へ遡及すること(市場社会主義に助けを求めることrecourse to MS)は、社会主義が、全体としてしっかりしたシステムbounded system で、過去において発達した制度的枠組みに由来し、そして中間的にではないにしても長期的には、新たな制度的基礎によって全体的に置き換わるとの定義されるもの、として認識されることを実際に辞めるべきであることを意味する。市場社会主義へ遡及すること(recourse to MS)は、反対によりよい合理的経済の最終的デザインのアイデアが全く誤っているとみなされてきたものであったことを意味しているが、そして本当の最も困難な問題は、「現実の社会主義」が生み出したところの革命により壊された継続性をいかに回復するかにある、ということを意味する。
 市場社会主義自体は、すでに明らかになったトレンドにおいて観察されるところでは、多くの基礎的な社会主義者の価値を放棄することを意味しない。機会の平等、完全雇用への主要な関心、社会福祉などなど。市場調整の外にあることに取り組むこと、我々が長期計画と呼んだものを含むマクロ経済政策のかなりの部分を保全すること、(これらの点で)20世紀末に向けての市場社会主義の概念は、個人の自己利益の集合物には帰着できない、社会の全体的利益への信念を保持している。この意味において、依然、極端な自由主義の立場からは批判が残る。この批判が正しいかどうか、それは結局、Mises/Hayek型の伝統的社会主義に対する批判と同じものだが、其れにこたえるには今はまだ時期尚早である。市場社会主義自体の概念のアピールとしp.152  て、そしてこの点において、我々は明らかな開放性という立場をとることを躊躇しない。明らかな開放性は、市場社会主義が実際の理由のある求めに応じて動いてゆくことを可能にするだろう。

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