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朱鎔基 6年研鑽後放逐20年 1952-79

 鄭義編著『朱鎔基台上台下』香港文化芸術出版社2009年pp.56-75を適宜参照とりまとめ。(写真は東京ドーム外観)

   既に述べたように朱鎔基はまず東北工業部に配属された。この時、東北局委員である経済学者馬洪と知り合っている。1952年12月東北工業部は解消され、国家計画委員会が組織される。当時、中央は地方幹部を中央に集める政策をとっている。東北局からはおよそ100人が北京に異動するが朱鎔基もその一人として国家計画委員会に異動し、1958年まで6年間、中国の工業化をこの部署で先導した。多くの文書を起案し、学習し、意見を述べている。この朱鎔基のキャリアに立ちはだかったのが、1957年6月、毛沢東が開始した反右派闘争である。
 朱鎔基はこの時、30歳。湖南人あるいは清華で学んだ者として、独立思考を尊(とうと)び、指導者の話をそのまま金口玉言(これは皇帝の述べる言葉のこと。そこからそれを変えてはならない信条法律を示す、金科玉条と少しニュアンスが違うようだ。中国語の辞書では金貨玉律とある。)としなかったからか。1957年4月、党内の整風運動の指示に従い、官僚主義や宗派主義、主観主義を批判する意見を提起。その後も発言を続けたが、これが、党や社会主義への不満の表明だと攻撃され、党籍と公職を奪われ、陝西山區に労働に追いやられたのである。(右派とされたことについてはその区分が誤っていたとも、当時は右派とする数に目標があり、そのためだともされる。)
 1958年から69年。朱鎔基の肩書はまず業余学校教員である。肉体労働を強いられた人々が多かったなかで、朱鎔基は保護されていたのではないか、との意見がある。それから行政を離れたまま、国民経済総合局工程師である。しかし文化大革命は朱鎔基を、放置しておかなかった。1970年から75年、朱鎔基は五七幹校で労働を強いられている。75年に朱鎔基は北京に戻るが、なおもとの計画委員会にすぐに復帰できなかった。
 石油工業部菅道局下の会社(公司)で一介のエンジニアとして主として野外で働いた。幹部学校での農場生活そしてさらにエンジニアとしての生活。朱鎔基はこうした普通の労働者としての生活をどのように受け止めたのだろうか。
 1978年4月。馬洪は中国社会科学院工業研究所発足にあたり、研究室の責任者として、朱鎔基を招く。おそらく馬洪は朱鎔基を陰ながら、ささえてきたのであろう。1978年9月、中央は誤って右派分子とされた者の名誉回復の方針を決定。中国社会科学院でも、朱鎔基ら被害者の名誉回復を宣言している。翌1979年、朱鎔基は社会科学院を離れ国家経済委員会に転ずる。再び朱鎔基は自身の才能を発揮できる職場の戻ることになった。党籍、公職を奪われてから、実に20年近くの歳月が過ぎていた。

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