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ある読書会での成果

2010年から続いている読書会。わたしがこの会に顔を出すようになったのは2011月6月だった。3か月間準備した。十分に準備したつもりだった。それでもこの読書会は難解を極めた。課題として使われているのはイギリスの雑誌でエコノミストという。それを英語で読んで英語で討議するというものだった。エコノミストを読む会。通称エコ会という。

わたしは準備期間を経て6月から通い始めた。朝8時から2時間。ぶっとおしで討議する。狙いは論点整理。記事の論点は何か。それをどう深堀してあらたな問いをつくるのか。それをひたすら続けた。

この会を始めたのは慎泰俊(TJ)。あえて敬称は省略する。早稲田大学の大学院ファイナンス学科を卒業。授業内で使われていた英紙エコノミストを卒業してからでも読み続けたいということだった。でも読んでもよくわからないということだった。不思議に彼の魅力にとりつかれた仲間たちがいっしょに読もうと集まってきた。わたしは言葉少ない彼が残したいくつかの名言をいまでも覚えている。

If you keep reading the Economist for ten years, something is going to change. エコノミストを十年読めば何かが変わる。果たして何が変わるのか。わたしには最初全くわからなかった。4年続けてもわからなかった。そういうときには好きなTJのことをとにかく信じるしかなかった。

静かに考える時間をもった。なぜあれほど周りの人は彼に集まってくるんだろう。人としてどう違うんだろう。そこで彼の生活習慣を観察し真似るようにしてみた。彼が普段何をしているのかというのはnote上に公開されている。

すると5年目にこつこつと続けることではないかということに気づいた。それは意外にも読書会の外にあった。まずTJが走る人だということだった。ウルトラマラソンに出たりしてとにかく長く少しづつ走る。なぜそんなに長く走るんだろう。理由はTJがいっていたことだ。この世の中は少しづつだけどゆっくりと確実に変わる。そういうことを言う人は読書会にはいなかった。

歩く。動く。走る。そういうところから真似た。するとわたしが長年悩んでいたなにか気分が変調をする。気分が安定しない。そして眠れないといったことが3年くらいして消えていった。2015年からはじめてこつこつ3年。すっかり消えたのは2018年のことである。

まず最初の変化は走ることによって生まれた。こつこつと長く走ることによって心身の安定をとりもどすことができた。このことをホメオスタシスという。これは生体恒常性ともいわれる。わたしたちが身体の外から受ける環境や内部の変化にかかわらず、身体の状態(体温・血糖・免疫)を一定に保つことをいう。走るというのはそういう状態にリバランスする効果がある。

あえてかなり危ない単純化をすればストレスからの回復ともいえよう。ただちょっとストレス回復とホメオスタシスとは違う気もする。これをやり続けるのは簡単ではない。

次は読書会に参加しはじめてから8年経過した2019年のことだった。10年経過するまであと2年しかない。もう何も変化しないのではないか。変化するのはひとつだけなのか。そうではなかろう。読書会で読む習慣ができた。中毒になるほど読んだ。いまでも読んでいる。議論にもいくばくか強くなったようだ。ただこれは変化というよりも読書会を続けることによる期待効果であろう。ではあと何が変わるのか。何も見つけることができなかった。あてもない。わたしはあせった。

そこでもう一度TJのことを考えることにした。彼はどういうひとだったのだろう。走ることによりこつこつと続けること以外。あと何があるというのだ。そこで彼の日記をひたすら読むようにした。出版してある書籍も買って読んだ。エコ会を始めたときに出版された「働きながら、社会を変える。」を読み返した。この本は本人から直筆のサインをもらっている。

何日も手に取って読んでみた。そしてあるとき思いがけないことがあった。目次をじっとながめてみる。するとこの書籍の構成がとてもきれいに整理されていることだった。また文章構造がなにかの西洋画のようにしっかりとした構図がとられている。こういうことに気づくことはこれまでなかった。

平行してエコノミストを読み続けた。すると記事の文章構造に気をくばるようになった。いままでの読み方を変え2回読み終える。そこで3つほど仮の論点を書き出してみる。論点というのはイエスかノーで答えの出るイシューである。イシューについては慶応義塾大学の安宅さんから学ぶとよい。彼の書いた書籍。「イシューよりはじめよ」である。

そうしているうちになにか書きたくなった。エコノミストの記事を読んで何かを書く。そんなことができるのだろうか。読書会はエコノミスト・リーダーである。エコノミスト・ライターまでいけるのか。最初はわからなかった。

2019年1月からとにかく試しに書いてみた。どんなことがあっても週1本。どこにたどりつくのかわからなかった。道があるのかどうかさえわからない。書く人が出版した本も読んだ。その中で清水幾太郎著、「論文の書き方」が参考になった。しばらくしてバーバラ・ミント著、「考える技術・書く技術」をながめた。そうやって少しづつ文章構成を練りなおした。

またYou Tubeで公開されているイギリスの歴史家アンドリュー・ロバーツのインタビューを見た。そこで著者というのは構想に9割、執筆に1割という時間配分をとることを知った。まずはじめに構想して頭の中に文章全体の何かしらのイメージを作る。作らない限りは執筆を一切はじめてはならないという。そのとおりにした。

あの著名な小説家フレドリック・フォーサイスのインタビューもYou Tubeで視聴した。彼も同じことをいっている。頭の中で何回も練り直し、それができてから執筆をする。できてからはじめてひっそりとだれもいないところで書く。終わるまで一気に書き続ける。そのとおりにした。

とにかく何が何でも3年続けてみた。これもTJの習慣を真似をしたにすぎない。彼は走る人だけでなく書く人だった。するとどうだろう。どうやらわたしは少し書く人に近づいた。そう気づいたのである。わたしはエコノミストを読む前は決して書く人ではなかった。書くことなど習慣として持っていなかった。

書くことの楽しみ。書くことのつらさ。エネルギーが読んだり聞いたりするのに比べて10倍くらい多く消費する。書くのは並大抵ではない。しかしやるとできる。やるまではわからない。そして文章を書き終えたあとはどこかを走り終えたときのなにやらすっきりとした同じような感覚が残る。やった。達成感。

ひょっとしてわたしは13年の時を経て書く人に変わったのではないか。何かが変わる。そうなるとこの読書会で得たものは大きい。それは書くということを習慣にする。思考(考えること)が洗練される。記憶にも刻まれる。わたしは記憶力が回復してきたのだ。読んでしばらく考えて醸成。書くことによって切れ味が増す。

何かが変わる。ひとつはこつこつと続けること。次に書くこと。わたしにとってはTJがはじめた読書会から得たものは計り知れないものだった。他では決して学べないことだった。アメリカの大学院でも他の読書会でもこの二つは学んだことはない。

彼と初めてあってそれほど会話したわけではない。ただどこかわたしはいまでも彼のことをはっきりと覚えている。いまは政治や経済の話題より絵画を見ながらああだなこうだなという話をしてみたい。そう考える時がある。あるいはやっぱり君はジャズが好きだったんだね。僕はクラッシック音楽でどうもジャズは好きになれない。そういった軽い切り口の話題でいい。

TJは最初から走るひとだったし、書く人だったじゃないか。では15年も続けていてこれからあと何が変わるんだよ。そんなことも聞いてみたい。

10年どころか12年かかってしまった。でも続けてよかったと思っているし、TJには素直に感謝の意を表したい。もし出会いがなかったとしたらそれは恐ろしいことになっていたのかもしれない。