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イノベーションの種をどう考えるか

 40年前の冬。わたしは名古屋市にある立派なホテルの一室にいた。当時大学生だった頃にはホテルに似合うものは何も持ち合わせていなかった。あったといえば仕立てをしたスーツ。その下にはほとんど病気のしたことのない身体。それくらいであった。あとは一つは何かを目指す熱意といったものだった。ただその熱意はどこかに消えようとしていた。そこを救ってくれたのがホテルに来た人だった。

わたしを含めて20人の大学生と高校生が集まった。午後からはじまる奨学生証授与式。1年間奨学金をもらいどこか外国にいき学んでくるというものだった。いまは東京の学生はどこにでも留学できる。親が裕福であれば留学はできる。わたしにとってはお金がネックだった。でもだれが一体大切なお金を他人であるわたしにくれるというのだろうか。

盛田国際教育振興財団。あのソニーの盛田昭夫さんのつくった財団から奨学金がもらえたのである。その式典があった。しかもその式にくるのは盛田さん本人だったのである。ひとりひとり前に出て賞状をもらう。まだ海外に行く前だというのに。そしてわたしはあの賞状をもらったときに彼の口からでた言葉を覚えている。消えることのない刻印となった。

ソニーは他の会社がやらないことをやってきた。(何度も失敗を繰り返すであろうが)これからもそういう会社でありたいと思っている。(アメリカでの生活はたいへんだろうが)がんばってきてください。ただだまってそう聞いた。わたしは深々と頭を下げて会場をあとにした。

2月号のダイヤモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー誌。この雑誌の対談にソニーの記事が載っていた。ソニーはイノベーションの種をどう育てていくのか。対談はソニーグループの十時社長と早稲田大学の入山教授によるものだ。読書会が行われこの記事に関して話をする機会があった。

5人の参加者がこの記事の感想を話した。日頃の問題意識や関心事の違いはあろうがそれぞれ話をした。記事の要旨はここでは書かない。読者の皆さんで記事を読むことをお勧めする。ただ参加者からはこんなことを聞きたいという意見があった。

イノベーションには時間がかかるとあるが、一体どのくらい時間がかかるのだろうか。新規事業は失敗が多いが、失敗した投資をどうしておくのがいいか。企業はすべての経営資源(ひと、もの、かね)をイノベーションに振り向けることはできない。事業構成をどう組み替えるのがいいのか。これまでものを売っていた会社がまったくの新しいサービスに乗り換える。例えばクラウドサービスへと変わる。どうやってかじ取りをするのか。

こういったことが話題としてのぼり、それぞれについて参加者の意見をいうというものだった。わたしはこの記事については31ページの上段右から6列のところが気になった。そこには日本の産業全体における課題が書かれてあった。

十時社長によると日本のM&A(合併・買収)はアメリカと違うこと。スタートアップが事業を売却することをあまりしない。そういった偏ったところに課題があるのではないか。そのためイノベーションが起こりにくい。そういう課題提起であった。

これを読んだときに私の頭にはすぐにある買収劇が浮かんだ。あのインスタグラムがメタ社(当時はfacebook)に買収をされたのが2013年と記憶している。その買収額は約1千億円だったこと。インスタグラムが買収された頃はケビンとマイクというスタンフォード大学の大学生が経営をしていた。社員数はたったの12名。しかも売り上げはなく赤字会社であった。そういった会社にもかかわらず1千億円という値段は当時のニューヨークタイムズの時価総額よりも高かった。

ほんとうにそれだけの価値があるのか。そうかもしれない。11年後の現在メタ社の株価は上昇し時価総額は1.2兆ドル。日本円にして180兆円である。社長のザッカーバーグ氏は13%の株式を所有。個人の資産額は23兆円にのぼる。39歳でこの資産は莫大といえよう。彼は給料を一円ももらっていない。

資産額は小さいとはいえ、大学生2名が経営する会社が1千億円というのは驚きだ。そのままお金がはいるというわけではないが少なからず手にしたことであろう。

ではこれがイノベーションの種とどう関連するのか。特にソニーのような大企業内での新規事業、新製品の開発にもいえるのではないか。

いろいろあろうが3点に集約されよう。ひとつは失敗を許容できること。次に原資があること。そして違うことをやること。一見すると怪しい、なにかだまされたのではないかと思われるような種への投資になる。しかしイノベーションというものはそもそもそういうものだ。どういうことだろうか。

もともと勝負はほぼついている。負けが多い。99%は失敗する。しかしその失敗を許容することが企業文化としてあることが前提になる。ユニクロであっても柳井社長は一勝九敗だといっている。あのユニクロが一割しか成功しないものである故にエレクトロニクスのイノベーションが成功する確率はかなり低い。服と違ってどうしても必要というものでもない。ひょっとしたら成功確率は1%以下ともいえよう。

でもやってみなければだれもわからないこと。それがイノベーションともいえる。また二度同じように成功するわけでもない。

ソニーがウォークマンを売り出す前のこと。社内では製品に対して相当な反対意見があった。それはテープレコーダーのソニーがなぜ録音もできないような音声端末を売ろうとするのか。それで買う人が満足するのか。機能を落として市場に投入するのは何事か。そういった反対意見が多かった。それでも投入して成功したのである。

次はお金がある程度ついてこなければいけないだろう。成功するか失敗するかわからない。熱意だけというものの値段はなかなかつけようがない。それでも原資である元金はなければ動きようがない。

やっているうちにうまくいくはずがないとわかっていてもその成功確率は高めることができるのである。やりながら学ぶことによって得られる。

またそういった失敗が多いという事情がわかっているスタートアップのひとたち同志は補完し合う。転覆することはわかっているためだ。舟をこいでお互いに助け合いをして育つまで待ってくれる。しかも資金面で応援してくれるのである。サラリーマンはしない。しなくても会社からお金が支払われるためだ。そういった無謀な挑戦をさけ見物にまわる。

そしてなにより違うことをやる必要がある。イノベーションは世の中にすでにあるようなことをしても競合商品としてしか扱われない。全く発想を変えるような商品がイノベーションとして受け入れられていく。ということは一見して怪しいもの、裏切られたようなもの、欺かれたようなものに移る。中にはばかばかしいものまで含まれる。しかしそれらが不思議といままでの商品とは違っていても世の中に受け入れられていく。

例えばNetflixがある。月額1千円以下のビデオストリーミングサービス。契約さえしておけば映画が見放題である。しかもレンタルショップに返却をする手間がかからない。遅延金を支払う必要もない。会員証の代わりにメルアドとクレジットカード番号をサイトに登録しておくだけの定額サービスである。実に便利なものができた。しかしながらNetflixには落とし穴がある。

それはついつい見過ぎてしまうことだ。無駄に時間を奪われる。それはビールをがぶ飲みしているのと同じでソファーから起き上がれなくなる。気づいたときには廃人に近い。翌年の体重測定と健康診断でひっかかるのが落ちであろう。

同じようなことがAmazonについてもいえる。確かにイノベーションである。しかし多くのユーザーがやっていることは電子モール内の価格比較ではないだろうか。どんな商品が売りに出ているのだろう。お得な商品はないか。そうやっているだけで時間が過ぎていく。10分というわけにはいかない。30分、1時間と過ぎていく。ショッピングセンターにいるのとたいして違いはない。買い物の目的などないのだ。そこで時間を失う。それでだけではないどんな商品をクリックして閲覧したのかという履歴はサーバーに残る。それが解析されてこんな商品いかがですかと提案されてくる。

買ってしまう。購入履歴はサーバーに記録され向こう側にいる人工知能に解析される。消費嗜癖は分析され機械を通して次々にいらない提案がやってくる。そういう仕掛けだからほとんど無料に近い値段で登録できる。

それでも他と違うのであるからイノベーションといえよう。種が育つ環境は過酷であり育ったとしても常々こういった批判にさらされよう。

奨学金の支給期間が終了してわたしは帰国することになった。振り返るとアメリカでの生活は過酷だった。がんばってきてください。そういった彼の笑顔は忘れることができなかった。しかし留学は過酷だった。わからないことだらけでも進まなければならない。失敗やわからないことを繰り返しながら進むしかなかった。

もう一度やりたいか。その答えはわからない。40年後の今だったらやめたほうがいいと若い人には言えるのかもしれない。

ただ、あのときわたしが表彰台から去る時にしてくれたことがあった。頭を下げてありがとうございます。そういって去ろうとした。すると彼の右手が表彰状をもっているわたしの方に向かってきた。どうしたらいいんだろうか。ひょっとしてあの盛田さんが握手をしてくれるのだろうか。わたしはわけがわからず他の学生たちと同じことをした。

もう言葉はなかった。あれ以来再会もなかった。しかしあの時の右手に残った感触は消えることはなかった。とても大きくて包み込むようにわたしの右手をつかんだ。それは優しい手だった。暖かかった。

さてソニーがいまもそういった会社であろうか。盛田さんはもういない。この記事に載っていたチーム経営という表現が的確であろう。ほんの数人で応援する会社ではないだろう。

ソニーは過去の成功に囚われずに成長する。チーム経営としてのソニーに期待したい。