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ダイバーシティ(多様性)をめぐる三つの疑問

1980年代の名古屋市。200万人の人口のうち外国人は少なかった。3人兄弟の末っ子であるわたしは兄と姉が通った大学に入学した。名古屋市にあるカソリック系の大学だ。地元では南山大学として知られている。そこではやたら外国人の先生多かった。学生も外国人が多かった。なのでわたしは入学した。どうしてもアメリカというところに行きたかったからである。

入学してみると学部の8割は女性だった。180人を6つに分けて少人数制をとった。ほとんど男子学生はいなかった。半年もすると少しづつ女性がお化粧をしはじめてきれいになっていった。そんなときにある授業でこんなことを聞いた。

日本の社会は男女平等ではない。大学を卒業して同じように働いても同じ給料が出るわけではない。わたしは素朴にも差をつけてはいけないのではないか。そんな疑問を持った。差がつくなんてそれはないだろう。同じ大学で同じ授業を受けて卒業する。それで給料で差がつくというのは不公平だろう。そういう印象を持っていた。印象のみでそんなことはありえないくらいと考えていた。

それからアメリカの大学と大学院にいき同じような指摘を受けた。アメリカでもあるのか。するとアメリカではこういう授業があった。マイノリティ(少数集団)を差別してはいけない。差別が今でもあるのか。差別というのは200年以上も前の奴隷制のことをいう。

第一差別は違憲であろう。憲法にそう明記されている。そんな当たり前のことがわからないのだろうか。差別はいけない。してはいけない。それだけなのになぜ大学と大学院の授業でわざわざするんだろう。

あれから40年以上が経過した。大学においても職場においても差別というのはなくなっていない。それどころかマイノリティのひとたちの人権を冒涜(ぼうとく)するようなハラスメント事件が起きている。

これは東京大学の大学院で学生に対してアンケートをとった結果である。これはないだろう。いまだにハラスメントというのが行われているのが実態だ。

東大卒業生のキャリアに関する調査

さてこのような実態はあきれるばかりである。それを是正しようという動きがある。いいことではあるが、それに対していくつかの疑問を提示して見る。目的化、業績、定数割当といった視点である。

結論から言うと差別はしてはいけない。するなということだ。なぜこんなに簡単なことがわからないのだろうか。そうしてここまで複雑にこじれてしまうのか。よくわからないというのが正直の話だ。

まず目的である。どうも最近の議論を聞くとダイバーシティ(多様性)が職場で目的化してしまっているのではないか。そういう気がしてならない。大学や企業の目的というのが見失われているのではないか。ふたつともその目的はとてもシンプルなものと考えている。

大学は研究と教育の場であること。そのために教授がいて学生がいる。その運営には教務課をはじめいくつかの部門がある。すぐれた研究をしてすぐれた教育をすることが第一であろう。学生は4年間で専門性を磨く。そういうところに差別やハラスメントがあってはならない。当たり前ではないか。

企業においても同じことが言えよう。企業の目的は顧客の創造であってその評価は業績(お金稼ぎ)である。財務指標(70%)、非財務指標(30%)で評価されよう。ダイバーシティ(多様性)は非財務指標である。

多様性を追求するところが企業ではない。会社法に明記されているとは考えられない。目的をはきちがえているのではないか。あくまで手段である。そのためには差別をするなということである。

次にいくつかの経営コンサルティング会社が会社の業績とダイバーシティ推進とは正の相関があるという。実例を使って詳しく述べている。またデータを集計してチャートにして説明しているところもある。マッキンゼーやデロイトといった著名なコンサルティング会社がこのように顧客に説明しているところもある。これは悪いことではない。

これを理解して使うには注意が必要であろう。この説明に普遍性はない。また自分が働いている職場に適応したとしても再現性はない。たまたまうまくいったというわけではないだろうが、必ず業績が上向き、社員がやる気を出すということにはならない。むしろ逆効果という指摘もある。

むしろ男性がやる気をなくしてしまう。そういう結果もありうるのではないか。どんなにがんばっても上に行けない。昇進ができないし給料もあがらない。男性の方がやる気をなくしてしまう危険性がある。

あるところで聞いたのであるけれどもカナダのある職場では男性は比較的静かにしているという。職場でしゃべらないということだ。おとなしくしている。一方、女性は職場で進歩的そして競争力を発揮してアグレッシブに働いているという。権利を主張する。当然のことである。

それに欧米では女性の進学率の方が男性より高い。大学に進学する女性の数は平均55%だという。そのうちわずかな女性は弁護士、医者、大学教授、官僚になっていく。その中で重要なポストにつけないまでも社会的に認められ、かつ、給料のいいところに採用される。男性はそういう女性には勝てない。地位も給料も追いつけない。

アメリカではダイバーシティを推進している職場をマイノリティのひとたちが避ける傾向があるという。そのようなことを明記して推進しているところは過去において差別が多かった。ダイバーシティ推進のためのメリットよりもデメリットの方が勝る結果になる。余分なコスト、負債、負担を生み出している。CDO(チーフ・ダイバシティ・オフィサー)というのはキャリア・パスとしておかしい。そういう指摘がある。

最後に定数割当というのがある。女性が管理職に占める割合をあげる。例えば現状の13%から順次20%、30%と増やしていく。また役員の割合を10%にするという施策がある。これはどうなのか。

あくまで差別をしてはいけないということだ。大学卒業の55%が女性であれば理論的には男女平等半々くらいにはなるはずであろう。人間の脳において男女に差はない。これは生物学に証明されている。それが職場では理論どおりにはならないということではないか。女性ができる仕事がある。また女性が得意とする仕事が多くある。それでも反映されていない。となるとどこかおかしい。

例えばファッション、食品、飲料、生活向上のためのサービス、こういったものは女性が能力を発揮しやすい。知識も豊富で関心が高い。同じ大学にいっていって卒業している。そういうところでは女性の管理職の比率が上がることは当然ではないか。それすらもしていない可能性がある。

ところが自動車、電気、ガス、建設、運輸・倉庫といった分野で定数割当をしたらどうなるか。それでは逆の結果になりかねない。そういうところは議論が必要であろう。あくまでも差別はいけないということである。差別をするからこういったところまで発展してしまう。

差別は違憲であるから。人権を無視していることになる。そうすれば女性を含むマイノリティが職場で力を発揮できないのは当然であろう。

40年間、このテーマは繰り返しひとつのパターンをもって現れる。静かになったかと思うとまた騒ぎがおきて現れる。

アメリカでアフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドが白人の警察官によって殺害された。彼は無抵抗だった。そしてハーバード大学では初の黒人女性の学長が半年で地位を辞した。なぜこのような事件が繰り返し起こるのだろうか。それはアメリカが奴隷制をしてしまった過去の暗い歴史があるからだ。

このような議論を大学や職場でするには出発点を間違えないことであろう。出発点を間違えるととんでもない議論に発展しかねない。

時間を有効に使う必要がある。そのためであればマッキンゼー社やデロイト社のような優秀な経営コンサルティング会社を使うというのは得策であろう。専門家に聞いてみることだ。それにはお金を払わなければいけない。無駄ではない。