デパート理論を証明する
<2021年11月に書いた文章の再投稿です>
要約
大学生の読者の皆さんは、デパート理論というのを聞いたことがあるだろうか。おそらくだれもいないであろう。たとえいたとしてもそれがなんであるのかは、よくわからないのではないか。よくわからないまま、大学の授業の一環としてデパートに行くこともあろう。デパートではないが、わたしも経営学の授業では、ショッピングセンターを利用して学生に店舗設計や展示を学んでもらった。
この理論のことはつい最近まで聞いたことがなかった。先週、ある本の中で紹介されていた。その本は、日本橋の書店で気になっていた本であって、古賀史健著「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」、ダイヤモンド社のこと。それを読んでいるうちに真ん中あたりで見つけたもの。過去に流通業の経営コンサルティングをした経験があり、書くことを趣味としているたわたしにとっては興味がわいた。この理論を証明してみようか、と。
デパートというのは書く人にとってとっておきの場所だという。その場所で一晩の思い出ができる。思い出作りのためにデパートはストーリーとして表現されている。そこで1階からフロアを歩き、エスカレーターで1階づづ上がって店内を見る。そうやって上階にいく。最上階には必ずレストランがある。そこではゆっくり食事をするようにしてある。そして食後に屋上で夜空を見上げながら思い出ができるという。
ほんとうなのか? デパートにそのような設計思想があるとは知らなかった。そんなところに関心がわいた。そこで先週、日本橋三越本店にいってみた。もちろん一晩の思い出というのは、女房とどのような思い出ができるのかという想像上のものでしかない。ただ、新婚当時あれだけいったデパート、いわゆる高級百貨店に最近なかなかいくことがなくなった。33年経ったいまではどうのような体験になるであろうかという検証だ。
このシリーズでは、「デパート理論を証明する」と題して6回に渡り書いてみることにした。まずここではシリーズの要約をしておく。次回以降、3回に分けて、それぞれのフロアで何を見て、どう感じたかを述べてみる。そのあとまとめをして、結論めいたものを残してみることにした。
以下は、日本橋三越本店で実際の店員に話しかけたこと、つくった問いである。
1F 展示フロア、ここでタンゴを踊れるのか、第九の合唱にはよい
2F モンブラン、一本37万円の万年筆、年収いくらの人が買うのか
3F キラキラのランニングシューズ、あれをはいてどこで走るのか
4F プラダ、プレゼントして女房が喜ぶのか
5F フラワーショップ、いつも負けるけんかのあとに買う花はどれだ
5F サプリメント、4860円、これでほんとうに痩せるのか
結論としては、デパート理論というのが証明できたかどうかはまだわからない。わからないというのは、これで一晩の思い出づくりになったかどうかである。はたして都内のデパートめぐりが書く人のためのストーリーづくりになりえるのかどうかは謎である。また、この理論をどこでどう立証したらいいのかという謎は深まるばかりである。
ただ、いつもいくイクスピアリやイオンモールといったショッピングモールと日本橋三越本店は明らかに異なる体験を生むであろう。モールでのショッピング体験は日常に近いもので現実ととなりあわせ。一方、デパートはなにか現実とはほど遠い別世界の体験ができることはいえよう。
モンブランを見る
日本橋三越本店に入る。入り方はいろいろあろう。最も典型的なのは地下鉄の三越前で降りてそこから地下1階から入る方法であろう。その方法をとれば、食品売り場が開けてくる。わたしにとって、この売り場にはほとんど関心がわかない。唯一、鰻を食べさせてくれるところは気になる。
その店の前には、椅子が並べられていて昼間の食事時にはお客さんが店内に入りきらない。そこで座って順番を待っている。待っている人たちの隣には、メニューが掲示されており、なにやらグレードがあるようだ。うちが家族3人で来たとしたらどれを注文するか。おそらく息子は、一番いいものに関心を示すであろう。千葉県からわざわざきたのだから、安いものをほおばることもない。
うなぎ店以外にはそれほど関心を示すことなく、中央にあるエスカレーターを使って1階に上がる。上がってすぐのところにルイヴィトンの店がある。ああ、これは、若い女性客を狙った階というのがなんとなくわかる。そして左に折れると化粧品売り場が開けている。
この売り場の前をとおると店員が笑顔で会釈をしてくれる。そこがショッピングモールにある店舗との違いだ。モールの店の人は前を通ってもほとんど反応がない。女房がいうには、百貨店の店員は昔から笑顔で会釈をしてくれるという。「そういうものなのよ」、と。
なにやら愛想がいいところに来てしまったのかもしれない。そして中央には、僕にはよくわからない展示物がある。この展示物はいったいなんだろう。よく見るとエイリアン2に出てきた巣のようにも見える。その背後は階段状になっている。ここでなにをするんだろう。
若いカップルできたのなら、洒落た服を着てタンゴでも踊るのであろう。そのためにフロアには板がしかれている。お互いに靴の音を鳴らしながら、1曲踊るのであればそれは楽しいであろう。
このような光景が目に浮かぶのは、アル・パシーノが映画、「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」を見たからだ。その中でパシーノが田舎からニューヨークに行った。そこで美しい女性とタンゴを踊った姿を思い浮かべてしまう。うちには程遠い光景だ。
それにしてもこの階で吹き抜けの展示を見て、周りを見渡すとそれなりの服装をして、それなりの振る舞い、言葉遣いを要求されそうな気がする。ひとによっては、ここの展示で上に行くか、それとも帰るかを問われているともいえよう。上に行くには、階段を使う必要はない。エスカレーターがあるからだ。では、なぜ展示物の後ろには階段があるのだろうか。
おそらく12月になると第九の合唱でもするのだろう。年末に向けてコーラスを聞くには厳かでよい。それをやっているのなら、毎年立ち寄っていくひとにとっては、欠かせない行事になっていよう。第九を聞かないと年末ではないというひともいるくらいだ。
うちは、そんなこともない。
まあ、上の階に上がれそうだ。展示に向かって左側を抜けて、エスカレーターで2階に上がる。そうするとなぜかまた左に曲がる。左に曲がるのが癖になっているのかもしれない。めったに右回りはしない。
曲がったところですぐに万年筆を販売するモンブランがある。そこでしばらくながめてみた。1本37万円もする。これは高いのか、それとも、安いのか。高級文房具だ。
これは大学生の読者にとってはいささか不快になるような話だけどもあえてわたしの考えを書こう。高いか、安いかというのは、問わないことだ。
高級文房具というのは、値段ではない。値段とは別のところに価値がある。その価値とは、使う人、すなわち、所有者がどのような状況に置かれていてその時間をどのように使いたいかであろう。
ある著者が渾身の力を振り絞って書いた本を読んで、そのメモを紙に書くとき。例えば、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」を読む。日本語訳ではなく、原書を読む。その原書は、図書館で借りたものでなく、大手町の丸善本店で購入する。それをソファの上ではなく、姿勢を正して両袖の机で読むようなときだ。
あるいは、マイケル・サンデルの「これから『正義』の話をしよう」の原書を読む。これらは、ゴロゴロしていながら読むような本ではない。また、100円ショップで買ってきたペンでメモをとるようなものではない。
万年筆を使って、背筋を伸ばしてメモを書く。そうでないと頭に正しくはいってこない。よい考えも浮かばない。こういうところで差がつくのであろう。
ほとんどの人にとって1本37万円もかける必要はないけど、文房具には少しばかりこだわったほうがよい。そうでないとためにならない本を読み続けるはめになる。そういった本を長く、たくさん読んでしまえば、やがて考えが下劣になる。言葉が下品になる。そうすると身振り手振りにまでに影響し、その影響が服装や振る舞いにまで及ぶ。
高級デパートではそのような下品さを排除している。品性はあるか。品格はあるか。品性がある、あるいはあると思っている人は、下品なものを避ける。あえて世俗の極みといわれる問いをあげれば、この万年筆を買うひとの年収はいくらくらいなんだろうということだ。これはよくわからない。
外資系経営コンサルティングファームに勤務していたころの話だ。ほとんどのコンサルタントはTUMI(トゥミー)のビジネスバックを持っていた。あれは安くても5万円くらいした。たしかによくできている。とくにバックの皮は耐久性にすぐれており、傷がつきにくい。それはアメリカの軍隊が使う防弾チョッキの素材が使われているためだ。そんな話を思い出す。
あれを持つとその中身が限られてくる。ノートパソコンはB5サイズのレノボ製ThinkPadと必然的になっていく。ThinkPadはそのキーボードの特許と落としても壊れにくい耐久性にある。日本製のパソコンを使うという選択肢はなかった。その理由は、日本製は家庭向きであり、ビジネスの仕様にはなっていないところにある。
バックとパソコンにはそれなりにこだわりがあった。そんなことを思いながらモンブランを後にした。次は3階にいった。
プラダが似合うか
モンブランを後にして3階へ上がる。そこには特別展示コーナーがあって、なにかピンク色で彩られた全方位から入れるシューズショップがあった。そこでキラキラのシューズが売られていた。キラキラした部分は足の甲を覆っている。ランニングシューズであるもののパーティ用の履き心地のよいヒールかなと勘違いした。
機能的にはランニング用であって、キラキラとしたところで光を反射する。光を反射するランニングシューズ。パーティには履いてはいかないだろう。
ちょっと見ているだけで店員が話しかけてきた。プレゼントにどうでしょうか、と。そうはといっても、プレゼントするところがない。けど、好奇心いっぱい。だれが履くんだろう。どこで走るんだろう。そこから質問をしてみた。
履く人がいるだろうけどこれを履いて都内のどこを走るのでしょうか。
店員によると皇居の周りを走るランナーがいるという。何度か皇居の周り4キロを走ったけど、キラキラとしたシューズは見かけなかった。皇居はアシックスやナイキが多いのではないか。比較的柔らかい部類に入るアシックスのシューズ。皇居1周4キロという短い距離を走る初心者にはちょうどいい場所。キラキラシューズで足るのだろうか。
面と向かってそれ以上は聞かなかった。もはや世代の違いについていけなくなってきたか。そんなことを考えながら4階に上がった。いつもどおり、左回りをした。
するとプラダがあり、そこで立ち止まってバックをしばらく見ていた。とてもお店の中には入れない。なにか見えないバリアのようなものがある。商品を眺めるだけにしておいた。
1分もしないで店員が話しかけてきた。お祝いにいかがでしょうか。お祝いって? 確かに女房の誕生日は12月にある。ただ、誕生日のお祝いにプラダのバックをもらって女房が喜ぶだろうか。特にバックにかけてはかなり下調べをして、何度も足を運ぶ。そしてある時、思い切って買うようなことをしてきたひとだ。
たまたまデパート理論を証明したいというはずみで来店し、そこで見つけたプラダを買ってもどうなんだろう。これは女房にしかわからないことだ。バックは身体の一部分のように大切にしていることもある。そんなところにいたずらに立ち入らないほうがいいのではないか。デパートというのは、買うところというより、見るところなのだろう。
それでもひょっとしてということもあるから、一応、店員に聞いてみた。素敵なバックですけど、どう見ても30代までの若い女性向けですよね、と。するとだいたい決まった返事をしてくる。いえ、いえ、そんなことはありません。幅広い年齢の方に支持されています。奥さんにおひとついかがですか。
この回答は明らかに間違っている。あのような可愛い系のバックを結婚33年の女性が持とうとはしないであろう。持ってもいいけど、それを持ってどこにいくのだろう。都内の洒落たレストランで友達とお昼をするのならわかる。ただ、女房の友人は、ほとんど都内から離れて暮らし、ここ千葉県で会うくらいだ。家の近くで会って、昼から夕方まで、延々としゃべる。
ちょっと違うのではないか。あえて立ち入らないほうがいい。新婚においてもデパートに着くなり、見る階が全く違っていたこともある。それがいきなり、時間が経ったからといって、いいバックを見立てたと勘違いして、プレゼントというのも違うだろう。こだわりのあるものについては注意が必要だ。
1、2階では、自分のこと。3、4階では、女房のこと。そんなところが思い浮かんだ。そして5階になると女房と自分について考えるようになった。階が上がるにつれて現実から遠くにいくはずだった。どこか非現実的な夢の世界に向かうと期待したが、どちらかというと逆に現実的な空間になっていくようだった。デパート理論はどちらを説いているのか。
階が上がるにつれて現実的になるのか、それとも、非現実的になるのか。本によれば非現実的になるはずだ。レストランでゆっくりと食事をし、屋上で星を見上げ、ひと晩の思い出をつくるのであるから。
フラワーショップとダイエット
これまで1、2階ではまず自分のことが浮かんだ。そして3、4階は女性向けという商品が多く、女房のことが浮かんだ。そして5階へ。左旋回をすると奥にフラワーショップがあった。そこを覗いてみる。まもなく店員がわたしに気づく。4階までの店員の愛想の良さになれてきて、こちらから会釈してみる。店員がたずねてくる。
お祝いにひとついかがでしょうか。
ここもお祝いか。めでたいことがあるわけではないが、三越本店はお祝いものを見に来る人が多いのだろう。花をお祝いとして差し上げる習慣があるわけでない。そこでひとつ自分のエピソードを店員に話した。
女房と口げんかして負けた時に買う花はどれがいいですか、と。それをいったところフラワーショップの店員ににっこり。実は最寄りの駅にある青山フラワーマーケットでも微笑み返されたことがある。
あまり自慢できることもないけれどこれだけはというものがある。女房とわたしはよく口げんかをする。このけんかの数の多さは自慢ができる。ところが自慢できない部分もある。記憶によれば勝ったことが一度もない。良くても悪くてもわたしが負ける。
これはいかがものか。けんかというのは、だいたい五分五分であるのが普通であろう。ところが勝率は一方的に女房にある。こちらは早々に負けを認め、花を買ってきて、ごめんね、というしかない。そのような背景があるからして、店員の次の質問にはいささか困ってしまった。ご予算はおいくらでしょうか。けんかに負けて花を買う。そのときの予算がどれだけになるかは考えたことはない。
結婚指輪は、給料の3ヶ月分です、といういいかげんなことを聞いたことがある。しかし、謝罪のための予算がどのくらい必要かというのは計算したことがない。一束3千円として100回であれば、年30万円くらいの予算にはなろう。
このくらいは年初に計上しておいたほうがいいであろう。3,000円くらいで適当に選んでつくってください。それもなんとなく定番めいている。それで気持ちがこもっていると受けとられるかはさだかでない。1勝もしていないのだから。
そうやってフラワーショップを後にして、急いで帰ることにした。左回りでエスカレーターへ。すると店員がサプリメントのサンプルを珍しく声を出していた。珍しくというのは、行けば気づくかもしれない。高級百貨店の店員は、愛想はいいけど、それほど一生懸命売ろうとはしない。
ぜひ、お試しにいかがですか。立ち止まった。これ、何ですか。健康茶です。これでダイエットに役立ちます。ほんとうですか?
はい、300人のモニター報告によれば、1ヶ月間でほとんどの方に効果が表れました。モニターに参加した平均年齢と減量数値によれば30代、3~5キロくらいという。その年齢であれば可能かもしれない。ただ、自分のダイエット実績からして1ヶ月1キロくらいが健康的でリバウンドの少ない減量であろう。
5千円くらいの品ということもあり、買おうかどうか迷った。迷ったあげく、やはり買わないことにした。衝動買いは危険だ。うかつに買っていってろくなことにはならない。
書いてみたストーリー
書くための教科書という本の中にあったデパート理論。その理論を見かけたことをきっかけにさっそく現地で証明しようとした。流通の経営コンサルティングをしていたこと。書くことを趣味としているわたしにとってはどことなく興味がわいた。この理論は何か。
それはデパートがストーリーによって設計されていること。そのコンセプト(概念)は、「ひと晩の思い出」がつくれるという。その設計思想を反映して作られた建物に行き、下から上に上がっていく。最上階あるレストランでゆっくりと食事をして、屋上で仕上げをする。なにかストーリーをつくってみる。そんな思いで日本橋三越本店にいってみた。
1階からはじめて5階まで時間にして30分くらい。その間でできるかぎり、自分のこと、女房のこと、そして息子のことを考えてみた。我が家と重ね合わせてストーリーをつくる。現実と現実逃避が行きかう。
地下1階から2階にかけて。うなぎ店では、息子に一番高いうな丼を食べさせてあげたいな。コロナ過でもう2年近く外出をがまんしている。まずはおいしいものでも食べよう。1階は、タンゴを踊るというような妄想でなく、特別展示をするスペースとして理解しておこう。女房とタンゴなどということを考えるのは現実的ではない。店員の愛想のいいことには少し驚いた。
2階のモンブランが現地体験では一番の思い出だ。37万円は出せないけど、万年筆を使って書きものをする。それはわたしには、大切だろうし、必要なことだと考えた。万年筆を持つと、それなりの品質でかんがえるようになるであろう。
まず、文字を丁寧にゆっくり書くことによって、ことばを大切にする。どうもパソコンやスマホを使うことでことばを粗末に使っていたようだ。もっと文字をかみしめないといけない。書くというのは、日本語の文字を書くということ。
たとえば「親」という字を書くとき、「木」の上に「立」って、「見」という表意を意識しているかということであろう。成人したならば、いたずらに口を出さず、じっと子供を親として見守るようにしているかどうか、とか。
文字を意識して書くために、25歳のときに買った万年筆をひと晩水につけて再生することにした。女房に聞くと、インク、紙にこだわるようになるという。インク工房というのもあるそうだ。そう、工房、スタジオという空間はとてもクリエイターにとっては大切なものだ。
3階から5階へ。キラキラとしたシューズで、皇居を走るひとがいるという。そのひとは、そのシューズでなにか表現をしたいのかもしれない。足元にきらびやかなものをつける。それによってなにかメッセージを出している。やらないけど、見かけたら、それって、三越で買ったんですか、と声をかけてみようか。
そういえば、ランニングをしなくなって3年経っている。もう一度やろう。
可愛らしいプラダのバックは、30代までだろうけど、それでもひとによってはいつまでもあのバックを持って出かけたい。年齢を問わず、持ち歩いてみる。そんな思いがあるだろう。新婚カップルだったら、そう思うかもしれない。
うちの場合は、バックのことは口に出さないほうが良い。
5階の花屋さん。花というものはお祝いにあげるものだな。花を見るとどうして夫婦げんかで負けて、謝る証として買うものとなるのだろう。この行為は一般的なのかな。
ダイエット食品は買わなかった。
これがストーリーです。最後のエピソードでは、自分なりの評価として当初の目的を達成したのかというフィードバックをし、これからどうするについて書きます。
振り返り
ラストは振り返りをしてみる。することといえば、当初の目的を達成できたのかどうかを書いてみる。
デパート理論の検証に日本橋三越本店に足を運んだ。まず、理論が証明できたのかどうか。ひと晩?の思い出づくりになったかどうか。次に思い出、あるいは想像に沿ってストーリーづくりになったかどうか。何をもって証明したことになるのか。最後にそれらを踏まえてこれからどうするか。これらはすべて謎のままである。
理論であるからには、多くの人が立証しようとする仮説に賛成をするであろう。立証できなければ仮説のまま。理論としては確立されてはいない。百貨店があるコンセプトに沿って設計されている。本に書いてあるとおり、ある思い出をつくりだすことは真実であろう。そう信じて日本橋に行った。
筆者は、そこにいけば、何かしらの体験ができる、と。そのはずで30分という時間で展示をみた。いろいろなことが頭に浮かんできて、そうして時間が過ぎた。その流れを記述した。
体験をもとにストーリーなるものが書ける。これも評価としてはそうであろう。周ったところを思い出しながら、6回に渡り書いた。
さて、そうはいうもののひと晩の思い出かどうか。夢心地に近い、非現実的ものか。その心境になったかどうか。どちらかというと現実的なものさしで展示を眺めていたようだ。これは、わたしがすでに結婚をしており、子供がいて、長い間家族と東京で暮らしているためであろう。そのため、どうしても現実志向になった。
もし、わたしが20代の東京圏の学生であるとしよう。その学生が恋人と日本橋三越に来たとすれば、未来に向かって、こうあったらいいな、という心境でストーリーを思いめぐらし、描いたであろう。未来志向だな。
ただし、展示してあるものは、ほとんどのものが、あったらいいなというたぐいのものでなく、一点でもそれなりのこだわりと忘れたくない思いを込めた商品であることには間違いはない。いくつか商品を選んで将来に向けての設計をするには百貨店はいい。これがほしいな、じゃあどうするでもよいだろう。これはショッピングモールではできない。
ストーリーを描くことができたかというのは、なかなか答えにくい。この体験をどう書いたらいいか。流れとして、事件・事故の後に物語が複雑化し、最後に新たな局面をむかえるというストーリーにすべきだったのか。最初のどこかで物語に命を吹き込んで、そこから、登場人物、ここでは、わたしの家族3人がそれぞれに複雑な行動をとり、いずれは、新たな局面、あるいは問題解決へと向かうほうがよかったか。さすがにそこまではいかないだろう。
定番である起承転結という構成で書いたほうがよかったのか。これら文章構成をはじめから意識して三越にはいかなかった。ストーリーの構成を頭の中に持たなかったからだ。おそらくはそう書けるだろうというくらいにしか準備していなかった。筆者のいう3部構成。主張、理由、事実という文章を書いたほうがよかったのか。
何をもって証明かというと、これは再現性があるということ。だれがやってもストーリーになるということ。だから理論であり、セオリーといえる。それが繰り返し発生すれば、仮説ではなく、多くの人がそうだと認める立証された理論になろう。
さて、これからどうするか。これからも何かを書いていくだろう。日本橋三越にいって、何かを書く上で外さないほうがいいというもはあった。それはコンセプト(概念)であり、建物の設計思想のこと。これを筆者は、ひと晩の思い出である、と。設計者の意図がそうであり、多くの人が認めるのであれば、(おそらくそうに違いない)、その思い出づくりの場所。その空間を使ってストーリーをつくる。
このコンセプトというのは、文章を書く上での一意性(ひとつのもの)は何かというのであろう。テーマを固めたら筋を通す。コンセプトからはずれないほうがいい。そして文章の最初と最後には何を書くか。それが書く前から決まっていなければいけない。それができたかどうかはちょっと怪しい。
わたしにとっては、小さいころ母親によく連れて行ってもらった百貨店。結婚して、今日で33年。新婚の頃には、よくいった百貨店。子供が小さいころに時間を過ごすところ。そのようなところであった。
最初にいったのは、もう35年以上前のこと。名古屋から東京にきて、日本橋というのは、なにかの起点であった。東海道の始点。国道1号。それは平たんに西側を向いているものの、名古屋からみれば、東側。その東の起点にから、上を見れば、そこにあるのはおそらく何かの意味と価値くらいだろう。
三越の屋上で女房、子供と一緒に上を見上げた時、35年前に描いた意味と価値と同じものが見えたとすれば、ああ、よかったといえる。見えなかったとしたら、なんのためにわざわざがんばってきて、これからもがんばるのか。
ここまでそんなに悪い人生でなかった。アメリカ留学を2度して、帰国後、そこそこの外資系企業と日系会社(三菱系と三井系の2社)に勤務し、5つの大学で教えてきた。ただし、良い思い出が多かったわけでもない。病気あり、ケガあり、リストラあり、失敗も多しだった。
オウム真理教の事件では、20分の違いで命を落としていた。9・11同時多発テロ事件のときは、ダラスの空港で5時間待機。1年後、勤め先の外資系企業のリストラで放り出された。リーマンショックのあと失職した。10年、大学講師をした。
いつかまた三越にいくであろう。いったら屋上から何が見えるか。次に書くときは、35年前に描いていた東京の将来と現実のギャップを通してストーリーを創作してもいいだろう。コンセプトは、ひと晩の思い出ではなく、また、今回の家族をからめたようなものでなく、なにかの「起点=はじまり」にしてみようか。そのころ日本橋三越はあるだろうか? 平日の昼間はほとんどひとがいない。
終わりのはじまりというのはどうか。
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いまから100年前、1918年から1920年スペイン風邪が流行した。その期間、パンデミックにより多くの死者が出た。その10年後、1929年、世界大恐慌が起こった。ニューヨークの株は一気に暴落。それにより多くの人が職を失った。
今はコロナ過が2年くらい続いている。中央銀行の量的緩和で株価は比較的高止まり傾向。どこか似てはいないだろうか。歴史は繰り返すのか。