書くためにすること、しないこと

2019年から英語で文章を書く練習をはじめた。練習であるからして出来上がった文章は習作としている。それらを書くためのプラットフォームに投稿している。記録としてだ。これまでに130本以上残した。日本語の方は2020年の5月から1年半くらいかけて100本くらいに達した。これらは書く習慣としての証である。この習慣はとてもよい習慣と思う。

4年前までわたしは決して書く人ではなかった。この書くことはひとつのあせりから生まれた。ある読書会を10年続けると決めていた。それは赤坂のスタバから参加しはじめた英紙エコノミストを読むというもの。そこから渋谷に移りしばらくしてから新橋になった。いろいろな人が参加して議論した。2021年に10年を迎えた。もうイベントにはいかないけど雑誌はも読み続けている。

8年くらい経った後なにが読書会の成果なのか。自問した。少しばかりあせった。読んだものを理解できるようになった。完全ではないが前よりもはるかに理解できる。読んだものを参加者と議論する。論点を出し合ってディベートする。議論にもはるかに強くなった。10年前よりははるかにディベートができる。

読んだものを理解できるようになること。議論に強くなること。それだけだったのかと振り返った。そうではないだろうと気づいた。そこからひょっとしたら読んでいるものに近いものを書くようにする。それも目標の一つではないか。そんな仮説をたてた。実際あの読書会をはじめたひとはかなり文章が上手なひとである。このnoteでTaejunと検索すればどのような文章を書いているかわかる。

文章がうまくなるためにすること。それはうまい人の文章を真似ること。実に簡単なことで習慣化すればいい。

自分で4年近く続けてみて書くコツも習得したつもりである。書くための本も参考にしてみた。その中でも清水幾太郎著「論文の書き方」はとても参考になった。その本に書かれてあるコツを使い実践をした。

できるかぎり週1本はタイピングをして投稿すると決めている。

この文章では文章を書くためというよりは書く以外のちょっとした日常の工夫を書いておきます。それはひょっとしたら文章を書くという習慣に良い影響あるいは悪い影響を及ぼすのではないかという気づきです。あくまで私個人の経験値であり証明はできるものではありません。

ひとつは、日常で身体を動かすこと。次に芸術作品にふれること。それからインプットとして読む本のことです。書くのはアプトプットです。

まず身体を動かすこと。もともと動かすことが好きでいろいろなスポーツをしてきました。ただしどうもボールを使ったスポーツは書く人にとって向かないのではないかと危惧している。例えばバレーボール、テニス、ゴルフといったボールスポーツ。これらはゲーム性が高くいわゆるはまりやすいスポーツといえます。ついついやりすぎてケガが多いということもあります。できるかぎり40歳くらいでやめたほうがよい。書くリズムとどうも違う気がしている。

リズムが合いやすいのはどちらかというとボールを使わない運動。歩く、走る、サイクリング、そして水泳といった気軽にできるスポーツです。あえてフィールドを必要とせずしかもゆっくりとした動作からはじめて地道にコツコツと動きを重ねていく。そこが書く動作に似ている。ゲームをしてなにか勝負をする動きでない。

その動きをさらに長く続けるためのストレッチがある。ストレッチによって筋肉を動きやすくする。疲労を残さないための動作も行う。筋肉は速筋よりも遅筋のほうが適している。関節の可動域を広げるために可動域トレーニングをとりいれる。関節部分が動きやすくなり柔軟性が高まる。動作は瞬発力は出ないがゆっくりとした動きを延々を続けることができる。長く遠くにいけるようになる。このリズムのとりかたは書く習慣に近い。

次にアイデアが浮かばないことがよくある。文章構成が頭の中でうかばない。そのときには芸術作品に触れるのがいいのではないか。絵画であれば空間のとり方が参考になる。絵師はどのような空間をとらえようとしていたのか。ひとつの絵の中に複数の空間が存在することもある。空間というのは書き出しの状況設定に似ている。ある局面を表現したものとしてとらえる。その局面が画版の中でどう変わるのかを文章で表したらどうするか。それだけでもよい。

気に入った音楽を何度か聞くのもいい。聞く前と聞いた後の心境の変化をとらえてみる。4~5分の曲であったらその音楽を聴いているときに気持ちにどのような抑揚ができたのか。線を書いてグラフにしてみるのはどうか。わたしがよくやったのがドラマ半沢直樹のテーマ曲だった。あれで抑揚をグラフにしてみた。グラフはもちろん手書きでよい。そうすることで時間の経過を可視化できるときがある。曲がストーリーになっている気もする。

文章も4~5分で読者が読めるようなものであれば心境がどのように変化するのがいいか。文章構成をあらかじめ決めて文章を書く。そうすると書くというのは材料を枠に入れる作業になっていった。俳句でもそれに近いことをするのではないか。

一方で映画を見るというのはあまりよくないのではないか。出来上がりすぎておりほとんど視聴者が想像をする余地がない。そうなってしまうと文章のように読者に想像をしてもらいたいところがなくなってしまう。映画の見過ぎには注意したい。

SNSというのはどちらかというとマイナスに作用するのではないだろうか。facebook、Twitter、LinkedIn、LINEといったもの。これらはほとんどがエンターテインメントであろう。娯楽施設で目にするような過剰な刺激物であふれている。無害なものを探すのに苦労する。

世俗的な欲望や願望をそそるものばかりで中毒性が高い。メールであってもついメールボックスを開いてしまう。それだけでも考えているときの集中が切れる。メールを見る前の思考にもどるには25分かかるという研究がある。25分失えばもどってはこない。

メールは一日一度開けばよいのではないか。

最後に本をたくさん読まないと文章を書くことができない。どんなことがあっても本は読まないといけない。最低一日1時間は読む。一日でもさぼってしまうとリズムがくずれてくる。毎日1時間は目を通してみる。理解しようがしまいが字を追って読むことすら大事なときがある。疲れていてもやる。

そしてどんな本を読むのかという選択が迫られることになる。これは書きたいように書かれている本をたくさん読む。それしかない。日頃から本屋や図書館に行って手にとってみる。そこで目次をながめてみる。どんな構成で書かれているか。その構成のとり方が参考になるのならば買って読む。または借りて読む。そういうことをしたいものだ。

問題解決の本はほとんどが問題提起と解決策になっている。経営の本は状況設定と解決策。論文は1.まとめ、2.イントロ、3.統計分析、4.結論という構成であろう。小説であれば物語に命を吹き込むきっかけに続き本編が複雑化していく。最後に決着がつき新たな問い続編が気になる。新聞の記事はほとんどが事件や事故を伝えるもの。事実を把握するための事柄を読めばよい。

どんな構成で文章が書かれているのだろう。そういう形式面をながめて読み物を選び読むようにする。問題は内容面だろう。どんなに精密に読んでも完全には理解できない。

注意しなければいけないのは自分にとってどうでもいいような本を読んでしまうことだ。あれだけ多くの本が巷にはあふれている。念入りな調査を経て書かれた本で関心のあるのがよい。通常は4年くらいの年月を経て膨大な資料や調査をもとに書かれた本の方がよい。インターネットで無料で読めてしまう本というのはどこかうさんくさい。無料ということは編集の手がはいっていないことが多くプロモーションの要素が隠されている。

さてこれからも書く習慣と続けていく。適度な運動をしてストレッチをする。関節を動かし柔軟性を高める。意識して絵画をながめ静かに音楽を聴くようにする。空間(局面)と時間(流れ)を意識するために。そして自分が書きたいような本や雑誌を読んでいこう。わたしは読書会を続けて10年そして書くようになって4年。随分と変わった。落ち着いた気持ちになることが増え頭の中を整理できるようになった。

読書会を続けたことを書くことを続けていることはとてもプラスになっている。書くためにすること、しないほうがいいこともわかってきた。