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赤道を横切る:第19章 バタビア

10月25日、午前6時17分水先案内人乗船、午後6時50分バタビア着港。シンガポールより航程535カイリ、我々一行は上陸してスラバヤに向かうのでこの港湾もこれが見納めと早朝から甲板上に出て展望に忙しい。信号所に近くスックリと立った一本の椰子が南洋らしい印象を与える。やがてブリッジがおろされて、南洋倉庫の小笠原店長はじめ関係者が続々出迎えられたが、肝心の主催者側夜牛子眠をむさぼっているのか、一向姿を見せぬのでジリジリする、岡野氏を再三煩わして漸く南倉側と打ち合わせの一段となったが少なくとも30分くらいはそれがために空費し、団員から「上陸はまだかまだか」と仕切り督促される。

ジャワ旅行中一切の世話方は南洋倉庫がツーリスト兼業として引き受けてくれることになっている。されば遊覧バスより汽車旅館などスラバヤに至るまで手配を了し、我々一行の到着今や遅しと待ちかけていたのだ。ジャワには我輩の近親者で同姓健平と称する者が先程まで同社スラバヤ支店長を勤めていたが、ちょうど行き違いに日本に帰省中、来春になってバタビア詰めになるはずと聞いていた。したがって南倉各位も他人のような気持がせず、初対面から打ち解けて色々無理を言ったりした。税関の方も特別に依頼してあったので、手荷物は旅館別に甲板上に並べただけでパスすることになり、そのままトラックに積み込まれた。我々は写真機だけ携帯して上陸。税関構内を通過して用意のバスに分乗、まずタンジョンプリオークからサイトシーイングが始まる。

この地は旧バタビアから役9キロの地点にある。バタビアには道路運河の他汽車電車も通っている。1877年より1883年の間に築港された近代的港湾で、外港のほか2つの内港あり、面積140ヘクタール、税関倉庫、移民局、貯炭所、浮船渠などの設備もある。南倉の倉庫も鳳山丸横付けの前面にあった。
バタビアは旧名ジャガトラと称し、日本人としては「ジャガタラ芋」に「ジャガタラ文」に古くから知られている。旧バタビアに通ずる椰子林はジャガトラ街道と称しその昔花やかなりし王朝の廃跡である。この街道に近く石壁の上に「ジャガタラ首」と称する気味の悪いさらし首が槍先に突き刺されたまま残されている。これは今を去る200余年前の1722年オランダに反抗した「ピーター・エルベルフェルト」の梟首跡。彼はドイツ人を父としジャワ人を母とした混血であったが、オランダ人に反感を持ち同志と共に陰謀を企てたのを実行の直前その実妹がオランダ人青年と恋愛関係にあったため彼女の口から発覚し、彼は直ちに捕らえられ、自分の首を邸宅の壁に縫い付けられたのである。その壁面にはオランダ語と「スンダ」語とで「反逆者ピーター・エルベルフェルトの呪われたる記念を永久ならしむため、何人もこの邸に家を建つべからず、樹木を植うべからず」と刻みつけられている。人種混血については大いに考えさせられる問題だ。

それからほど近く旧バタビア市街に入らんとするほとりにピナン門がある。1671年の建立にかかり、一名凱旋門と称し往時は城砦の城門であった。門柱は花瓶と男女の彫像で飾られている。この二人の像は守護神であるとのこと、門を入りて間もなく左折すると樹木に囲まれた一地域に長さ15フィートの古い大砲が横たわっている。これぞ神聖砲と称せらるるもので、その根元に親指を人差指の間に入れた拳固が錆びつけられている。これによりその大砲を礼拝する者は石女(うまずめ)もその功徳により子を設ける事ができるという迷信で土人や支那人が盛んに参詣する。御賽銭の代わりとして小さい紙灯籠ようなものを捧げる。砲身はほとんどこの供物で覆われている。伝説によればバンタム州の北海岸に類似の大砲あり。このふたつの大砲合する時オランダの勢力滅亡する時なりと、また一説にバタビアの聖砲はジャワ固有の宗教を代表する男性で、今一ススナン(チェリボン市)にある類似砲はインド教の代表女性で、この二人は天下晴れての夫婦である。ところでバンタムにある大砲は回教を代表する妙齢の女性なのでバタビアの聖砲がこれと慇懃を通じてしまった。よってススナン砲は痛く嫉妬しているのだと、さればこれは聖砲(セークレット・ガン)ではなく性砲(セックス・ガン)だと言う者もある。

やがて車はチリオン河口の旧港付近に出る。旧港は漁船の出入頻繁で市営市場付近のパサル、イカンには日本の大形漁船も碇泊している。この付近に水族館があって熱帯魚を豊富に収容しているとの事、特に自由行動をとってこの水族館を見物した人の話に「鉄砲魚」と称するものがあって、自己防衛のためにする水鉄砲がとても面白かったと異口同音に伝えられた。

ただし一行は素通りだ。運河を挟み城砦のあったほとり「カリブツサル」街となって会社、銀行、商館など軒を並べている。つまりバタビアの下町で商業の中心地、本邦銀行会社はじめ南倉事務所もここに集まっているが何れも失敬して坦々たる大道路を南に新市街に入る。道路に沿って掘割りが続く。この掘割りはむろん水上交通路であるほか、土人の水浴と洗衣場も兼ねているから至極便利である。

それより3キロ新市街すなわちウェルトフレーデンはふたつの公園を中心として行政機能、クラブ、ホテルなどの公共的建物が集まっている。その一つはウォーターロー・ブレーンと呼ばれウォーターロー記念碑を囲む芝生の公園で諸官庁、カトリック大寺院などが立ち並び、今ひとつはコーングス・プレイン公園でその周囲には総督官邸、法科大学、知事官邸、各国領事館、市役所、中央停車場、博物館などがある。一行のバスはその博物館前に停車、ギリシャ風の建物を仰ぎつつ館内に入る。入口には1871年来訪のシャム王記念像あり、その左右にはボルネオのバンジャルマシンから分捕ったという大砲が据え付けられている。

館内はジャワ古代の遺物、美術品、武器、衣服、装飾品、楽器などを集め、南洋諸島各種族の風俗を模した模型もあり、世界各国の古銭(日本の慶長小判もあった)古陶磁器なども陳列されている。黄金細工の古代武具と一寸二三分のダイヤ入り宝冠なぞはまさに重涎ものである。さらに13世紀以後ヒンズー文明の遺跡たる石仏のごとき「リンガ」や「ヨニ」のグロ味タップリな台北の石仏蒐集狂たる岡親分などに見せたら腰を据えて動かぬであろう。
我々は特に総領事邸に赴いたが不在のため面会せず小笠原南倉子の宅を訪れて敬意を表し、ホテル・ネーデルランド(B班)に立ち寄り、午前11時半A班に指定されたモーレンフリート西街ホテル・インデスに到着、このホテルはジャワ一流と銘打つだけに本館のみで130室を有し幾多の別館が放射線に建てられ、ベランダ付きで応接室のほか寝室あり、勿論一室ごとにバス、便所付きである。装飾も小ザッパリとして気が利いている。ただし室料邦貨換算28円、主催者側をヒヤリとさせるに十分である。

ジョンゴス(ボーイのこと)にスーツケースを運ばせると、去りもやらず自分で鼻の先を押さえる。ハハア、チップねだりだなと10セント奮発に及ぶと敬礼して引下がる。可愛い奴だ。

午後1時から食事開始、ホテル・ネーデルランドでは食卓に日蘭両国の国旗を交叉したりして歓迎の意を表していたが、ホテル・インデスではその種の用意はなかった。たださ、その食堂が広々していて優に数百人を収用できるのと、市街寄りのベランダから広場にかけて椅子テーブルを持ち出し、自由に休憩できる仕掛けに感心しながら有名なライス・テーブルを経験する。かねて噂には聞いていたがなるほど珍妙なものである。白いユニフォームにジャワ更紗の鉢巻帽を冠ったジョンゴスが、料理を盛った皿を両手に支えて一列縦隊に並ぶ。その数約20人ばかり、卓上には二つばかりの皿だけしかない。第一は米飯、次は牛肉その次魚類、鶏肉、海老、唐辛子、干物、らっきょう、酢漬、さては煎餅型の得体の知れないものなど次から次へ差し出すので、少しずつでも盛り入れてはみるが最早一杯となってどうにもならぬ。何でも21、2人までは勘定したようである。

これを混ぜ合わしては総合味を鑑賞するわけだが、辛いだけであまり感心せぬ。ただジョンゴスに行列が奴隷酷使の表現とも見て取れてちょっと王侯にでもなったような気持にさせる。

食事は30分あまりで終わり、為替係(森さん悲鳴をあげて池田華銀子交代)から小遣銭だけ両替してもらい午後2時ボイテンゾルグに向かう。

写真は、一行が宿泊した当時のホテル・インデスの外観。
ジャワのバタビアとは、現在のインドネシアのジャカルタ。シンガポールはイギリス領だったが、バタビアはオランダ領。また違った異国情緒があったたはずだ。
文中に登場する「近親者で同姓健平」とは、三巻健平のこと。当時、南洋倉庫株式会社に勤務していた。三巻俊夫とは従兄弟の関係になる。三巻健平は南洋とくにジャワに情熱を持ち、熱心に研究していたそうだ。数年後に太平洋戦争が勃発し、日本がジャワ・スマトラ方面を占領した際、現地情勢への造詣の深さをかわれて、民政長官に抜擢された。しかし、あまりに心血を注いだせいだろうか、執務中に急死してしまう。死因は脳出血だったと父から聞いた。まだ五十歳前の若さだったそうだ。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

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