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スペインの話

もう20年近く前の話だけれど、ミラノで知り合った友人のオランダ人とスペイン人のカップルが結婚することになり、結婚式は新婦の母国スペインで、でも、両親の住むマドリードでなくコルドバでするという話になり、招待されました。おいらは一人でミラノの友人達と一緒にスペインへ行ったので妻は一時帰国で日本へ帰っていた夏の話ですね。6月末あたりかな。

コルドバはアンダルシア州にある古代ローマ時代からの歴史を持つ都市。特徴的なのは10世紀ごろのイスラム統治時代があったことによりイスラムのモスク(メスキータ)があったりしてちょっとエキゾチックなところ。その後キリスト教徒によるレコンキスタでイスラム勢力はイベリア半島から追い出されているのだけれど、このモスクは壊さないで一部(強引に)キリスト教の教会に増築して現在まで残っています。

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さて、ミラノからはイタリア人の友人達と飛行機でマドリードまで飛んで、そこからレンタカーでひたすら赤い大地の中を走り続けて現地入りしました。当時はまだヨーロッパ内も格安航空便がなかった時代なはずで、覚えてはいないけれど多分イベリア航空便で飛んでいるはず。これを書いている今現在はコロナで移動規制があるからどこにもいけないけれど、近年ヨーロッパ内ならどこでも前もって予約さえすればミラノから片道5000円程度でどこへでも行けるようになってました。早く気軽に移動できる日が戻ってくればいいけれど。しかし、ホントに戻って来るのだろうか。

到着した夜はライヴハウスのようなお店のフロアーで友人達とロックンロールを踊った記憶があります。50'sとか60'sの音楽だったはずです。ミラノからの友人グループやオランダからの友人グループなどが一緒になって仲良ししてたはず。そしてみんな同じホテルに泊まりました。このグループで翌日は少しコルドバ観光をしてメスキータの見学などをして過ごしました。その翌日が結婚式です。なので、その夜も新郎新婦の独身最後の夜のパーティーで川のほとりにあるオープンスペースのあるディスコテカ(クラブ)へ行き、友人達や親戚の人達みんなで踊りあかしました。マカレナでとにかく盛り上がったのです。こうやって踊りあかしたと書くと、若い友達だけが踊っていたと思うでしょうが、こういう時にヨーロッパでは新郎新婦の両親や親戚など結構な歳の人もみんな一緒に踊るのです。マカレナも。

さて、いよいよ結婚式当日。案内された教会で神父さんの話を聞きながら式が進んでいきます。そして、神父さんの話が一段落したところでいきなりジャララーンと勢いのいいフラメンコ楽団による歌と演奏の讃美歌が始まるではないですか。おいらはいきなり後ろから生演奏が始まりびっくりしてしまいました。その昔テレビのドッキリで見た早朝バズーカを打たれた三流タレントになったような気分で振り向くと、式に来ている人たちが座っている席でなく、中二階のようになっている場所で演奏しています。どおりで入った時には目に付かなかったのです。明け方、枕元で突然ジプシーキングスがジョビジョバをサビのところから生演奏したところを想像してみてください。そういう驚き。そういえばフラメンコってアンダルシアなんですよね。

この神父さんの話の合間合間で超カッコいいフラメンコの讃美歌(なのだと理解しました)を満喫し、無事式も終わりました。式が終わると、神父さんの部屋へ通され、婚姻届けの書類に新郎新婦の友人代表としてサインをしました。この夫婦は今でも仲良くしているので、おいらのサインの効果は絶大だったようです。さて、ここから披露宴会場のレストランに向かいます。

場所を移し、テーブルが出てカテリングが用意されている広い庭でイタリアから来ている友人達と「フラメンコにはびっくりしたなあ、めっちゃカッコいいじゃん」と話をしながらリラックスしていると、ワイングラスに入ったガスパチョが運ばれてきます。しばらくするとやっぱりワイングラスに入ったアーモンドベースの別のガスパチョのようなものも運ばれてきたりして、オリーヴのフライなどをつまみながら、こんな感じでフランクな立食なのかなあと思い始めていると「さあ、食事の準備が出来たからあっちの建物の中へ」都案内されました。

白いんげん豆とカルチョ―フィの煮物やラム肉とニンニクのグリルなどアンダルシアの料理を満喫し、結婚式のお昼ご飯が終わったのは夕方近くになっていたと思います。さすがにその日の夕食のことは覚えていないけれど、翌日の朝にはホテルで朝食を済ませミラノへ帰途につきました。またコルドバからレンタカーでマドリードを目指します。街を出ると、またスペインの赤い大地の風景が広がります。この自然の風景はイタリアとははっきりした違いがあるのであの赤い大地の印象がとても強く残っているのですね。さて、その帰り道「あっ」とおいらが声を上げたのでみんなが驚きます「どうした、ヒロシ?」「ホテルにカメラ忘れてきた。」当時使っていたフィルムのオートフォーカスカメラを朝食の時に椅子の背もたれに引っ掛けてそのまま忘れてきたことを車内で思い出したけれど、もうずいぶん走っていたのであきらめることにしました。

こうしてミラノに帰ってきて「楽しかったなあ」と当時の仕事先のジョージソーデン事務所で友人達と話をしていると、コルドバのホテルから電話がありました。カメラの忘れ物があったので、宅急便で送っておきましたという連絡。こうして忘れたカメラも戻って来たの出すが、着払いの送料が結構かかったような記憶もあります。まあ、せっかく帰って来たのでフィルムを現像に出したら何も映っていませんでした。多分誰かがどこかでカメラ開けたみたい。

さて、月日は流れ、ヴァレンシアへ出張に行く機会がありました。仕事先で用意してくれたホテルがやたら広く、何でもF1誘致したのでVIPな客が多くなることを見込んで作った超豪華五つ星ホテルだったのだけれど、F1はほんの1週間の話だから、1年通して豪華ホテルとして運営すると採算が合わなくなったらしく、おいらが滞在したときには四つ星ホテルとして営業するようになっていたとかで、多分割安でいい部屋が使える施設になっていたのだと思います。それで、到着日にホテルに案内してくれた時に「じゃあ、ヒロシ、あとで迎えに来るから海沿いのレストランで一緒に夕食にしよう。魚がおいしいお店があるんだ。それと、このホテルはプールも広いしSPAも設備が整ってなかなかいいんだ、時間があれば試してみるといい。」「へえ、でも今夜は一緒に食事でしょ。明日は朝から仕事じゃないの?」「ああ、明日の朝は8時半に迎えに来るよ。」「じゃあ、SPAの時間はないよね。」「ホントだ。残念でした。」

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夕食へはビーチ沿いにある通りをふらふら散歩しながら行ったのですが、ヴァレンシアの砂浜はやたらと広いので「見渡す限り砂浜が続いてるね。まだまだ向こうまで砂浜なの?」と聞くと「ああ、ここからバルセロナまでずっとこういう風。」と言われました。ホントかどうか知らないけれど、とにかく砂浜の奥行きも広い。みんなビーチでのんびりしたくなる気持ちもよく分かります。そうこうしてるとお目当てのお店に辿り着いたようで、お店の中に入ります。入ってすぐに目についたのがベニーテス監督の写真。そうだ、あの監督はヴァレンシアでの成績がよかったのでインテルにも来たんだね。インテルではクラブW杯のタイトルを取った後成績不振で1シーズン持たなかったけど。

ここのお店で食べた小さなイカのフライは絶品でした。あと、別の日に連れて行ってもらったお店で食べたパエリアにはフォアグラが入っていて、あれも後にも先にもあそこでしか食べたことがない味でした。スペイン料理は、イタリアやフランスと違い、テーブルで数人で食べに行く時に、ちょっと日本風なんだけれど、大きなパエリア鍋で2、3人分運ばれるのをシェアして食べるんですよね。サラダやいかのフライもやっぱりシェアすることがあるので、基本自分の注文したものだけ食べるイタリアとはそういうところも違って面白いです。BARなどのランチならシェアしないで自分の頼んだセットメニューを食べるけど。さて、このヴァレンシアの仕事先の会社の社長がかつてコルドバで結婚式を挙げた友人なのです。ここの夫婦はミラノでで知り合い結婚し、その後アムステルダムにしばらくいたけれど、スペイン人妻にはオランダの気候が酷すぎたらしく、その後パリに住み、そこで得た人脈などを活かしてスペインで起業していたのです。

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さてさて、ホントかどうかヴァレンシアから北上というか南仏プロヴァンス方面へ砂浜を伝っていくと辿り着くバルセロナ。ここはガウディの街として有名ですが、近年はメッシのバルセロナとしても有名ですね。おいらが初めてバルセロナに行ったのは確か1994年ごろでまだ1992年バルセロナオリンピックのお土産が売っていました。最初に行った時は妻と二人でバルセロナ入りしたけれど、現地で名古屋のスペイン料理屋さんで一緒に働いたカルメンが一時帰国しているので待ち合わせをして少し案内してもらうことになっていました。カルメンの娘のアンナちゃんも一緒でした。元々カルメンのお母さんに世界で一番おいしいパエリアを焼いてもらう話だったのだけれど、お母さんの体調がすぐ得ないということで、バルセロナで一番おいしいというお店へ連れて行ってもらいパエリアを食べました。エビのカクテルソースを食べたのも覚えています。

その前日だったのか、後日か、バルセロナの丘に登ってオリンピック会場になっていた磯崎新設計の体育館を見たあと、丘を降りたところで入ったレストランのイカ墨パエリアやフィデウアがおいしかったのもよく覚えています。ホント安くておいしかった。そして、この時の滞在中に見たサグラダファミリアは、まだ中央のカテドラル部分は全く影も形もなく、作業している石工さん達のカチンカチンと石を組む音が聞こえる伽藍洞だったので「ああ、完成までにまだ何百年もかかるといわれているけど、300年で出来るのかしら」と思って出てきました。それからフィゲラスという隣町に電車で移動し、ダリ美術館を見学したり、さらに足を延ばしてダリのアトリエも見学してきました。ダリというのはウォーホールなどと同じく、自分自身の存在をマーケティングするタイプの作家の走りだから、作品以外の彼の言動やおカネへの執着でアーティストとしての評価以外に女性関係含め人間的評価もあれこれ言われる人なので、予備知識を入れ過ぎるとどう評価していいか分からなくなるかもしれませんが、アトリエの様子などを見ると、なんだかんだ言って創造することが好きで好きでしょうがなかった人なのはわかります。まあ、「おカネの話さえしなければ最高に面白い人」だったのだろうと思っています。

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さて、このバルセロナには子供が大きくなってから、確か長女の高校卒業祝いの家族旅行でも再訪しています。子供たちにとっては初めてのバルセロナなので、ピカソ美術館やガウディの建物、グエル公園などまた一通り観光し、サグラダファミリアにも行きました。ところが、サグラダファミリアは2000年頃に募金などでまとまった資金が入り、それまでの石組みから鉄筋コンクリートへ建築方法の作戦変更をし、3Dによる構造解析など最新の技術の投入でガウディの没後100周年の2026年完成を目指して急ピッチで建設が進んでいる最中。おいらの初めての訪問時には伽藍洞だった中央部には既にカテドラルが完成していました。でも、古い作り方の部分と新しく鉄筋コンクリートで作っている部分の質感が全く違うので、なんというか、手放しですごいすごいとは喜べない感じも残ります。まあ、コロナで少し完成は遅くなるという話だけれど、おいらが生きている間に完成した姿も見れそうです。

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それから子供達も一緒にフィゲラスのダリ美術館やダリのアトリエも再訪しました。この時の旅の話をすると、子供たちは初めて食べたスペインのハモンイベリコがおいしかったことをよく覚えています。生ハムに関していえば、イタリアも世界で一番生ハムがおいしい国の1つで、我が家の子供たちは生まれてからもずっとおいしいハム類を存分に食べているのですが、それでもスペインのハモンはまた違ったおいしさが際立ったようです。中央市場でも紙の包みに手でカットしたハモンを入れてくれるところがあり、これをアムステルダムのポテトフライのように散歩しながらつまんで食べるのです。このスタイルもイタリアにはないので子供達にも印象深かったみたいですね。

さて、イタリアに住むようになり、イタリア語が理解できるようになると、スペインへ行ってもスペイン語の会話が半分くらい理解できるようになります。無理をすれば会話もできます。英語を使うよりも意思疎通にはイタリア語で通した方がいいのではないかと思えることもあるくらい。これはラテン語から派生した言葉だからある程度は当たり前ですが、同じラテン語圏でもフランスではこうはいかないのです。何しろ発音の壁が高いので、フランスを通り越したイタリア語とスペイン語の方が似ているという現象が起きます。

さて、スペインの思い出話をダラダラと書きましたが、ちょっと立ち寄っただけでまだちゃんと街中を散歩したり食事をしたりしてのんびりしたことがないのがマドリード。その内行ってみたいとは思うけれど、いつになることやら。そもそも、次にスペインへ行くのもいつになることやら。

Peace & Love


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