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藤戸饅頭

内田百閒の本にはよく大手饅頭がでてきます。岡山名物の饅頭です。「阿呆列車」にも岡山駅で停車する度に幼馴染の友達がお土産に持って来てくれる饅頭として登場します。大変おいしい饅頭で、日本三大饅頭に数えられることもあると読みました。しかし、しかしですよ。実は岡山と隣の倉敷では大手饅頭派か藤戸饅頭派かという問題が生じるのです。この倉敷市藤戸町天城に本店がある藤戸饅頭も長い歴史があり、そして何より、大手饅頭に瓜二つなのです。

双方の饅頭屋の歴史を比較すると、藤戸饅頭の方が創業が古いことになっているけれど、まあ、そういう昔の話はどこまで正確な話か検証する術はありません。源平合戦の藤戸の戦いで佐々木盛綱に殺された村人を供養するのに藤戸寺に奉納されたのが起源とされていますが、江戸末期に藤戸寺の境内の小屋で商売をしていた饅頭屋が寺の小高い丘から降りて現在の本店の場所に店を開いたのが1860年頃らしいです。なので、創業でなく本店の古さでは大手饅頭の方が古いらしい。

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これは倉敷市役所のHPで見付けた写真ですが、藤戸寺のちょっと小高い場所から撮影したと思われる藤戸町天城の昔の街並みで、2代目のバスのお尻のところに見えるのが藤戸饅頭本店です。その先に見えるのが盛綱橋と呼ばれる橋で下を流れるのが倉敷川。おいらの子供の頃はこういう鉄橋だったのだけれど、大学生になって名古屋に住むようになり、あるとき帰郷するとこの橋が観光用に佐々木盛綱の像が置かれたダサい橋になっていて興醒めしたものです。

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この橋の先においらが小学6年生まで住んでいた白壁の長屋がありました。この辺りは江戸時代に陣屋町で、それなりに昔から栄えたところだったらしく、おいらの子供の頃にも「天城商店街」だった面影はまだ残り、通りの奥の角には写真屋の洋館が建ち、きちんと補助金出して保存すれば美観地区のように美しい街並みを残せた地域なはずですが、倉敷の中心から車で10分から15分の場所なので、観光用保存地区にならなかったため、今ではおいらの子供の頃に残っていた白壁に家もほとんど普通の日本の土建屋さんが作る家に建て替わっています。我が家も正にそうやって古い家を出て別の場所に家を建てたわけですが、だからこそああいう古い街並みは補助金がなければ維持するのは大変なのはよく分かります。

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当時(さほど遠くない場所の)新築の家に引っ越した小学6年生だったおいらにとって一番うれしかったのはトイレが水洗になったこと。古い長屋は汲み取り式だったのです。何しろ江戸時代からの町だったからね。あの家はお風呂も五右衛門風呂で、毎日夕方におじいさんが薪を燃やしてお風呂を沸かしていました。家の表は一応玄関があるので戸が閉まるのですが、実は裏庭から繋がる近所の一角は家の後ろ側から自由に出入りできるような感じで敷地の境界にちゃんとした柵とか垣根がありませんでした。その裏口から近所の長屋に住む(他人の)おばあさんが我が家のお風呂に入りに来る習慣でした。のんきな昔ながらの長屋の近所付き合いだったのですね。

さて、そういう古い歴史がある藤戸饅頭と大手饅頭ですが、どちらが先とかは関係なく、地元愛というだけでなく、とにかくおいしいので機会があれば一時帰国時などに食べまくるのです。個人的には今でも世の中に存在するあんこで一番おいしいと思うのは藤戸饅頭なのです。一時帰国すると倉敷駅か茶屋町駅に着いた時点で駅の売店で饅頭を購入し、1日10個くらいは食べるのです。

映画『ALWAYS三丁目の夕日』では淳之介がお母さんに会いに路面電車で出かけるシーンがありますが、そのお母さんがいる饅頭屋にロケで藤戸饅頭の本店が使われています。映画の中では東京の街中の饅頭屋として出てきますが「藤戸饅頭」という名前そのままです。倉敷の美観地区は朝ドラの『マッサン』でロケに使われていましたね。

さて、時代はコロナとなり、次に大好きな藤戸饅頭が食べられるのはいつになるか分かりません。どうも気軽に一時帰国できる日はまだまだ先だなあと移動規制の中ミラノで生活しながら「そうだ、作ってしまおう」と思いついたので、何度かミラノで藤戸饅頭復元チャレンジしています。なかなか理想の味にはならないのですが、元の「藤戸饅頭」を知らなければこれでいいのではないかと家族に励まされながら精進しています。でも、別物なので「米蘭饅頭」と呼ぶことにしています。これで登録商標的にも問題ないはずだ。

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倉敷という街は地方都市にしてみればとても特殊なところで、何しろ倉敷の白壁の蔵屋敷の街並みを残して観光財産にしようなんてことを日本で一番最初に考えた人がいて、倉敷市では実際に街並み保存地区を制定する日本初の条例をつくり、美観地区を残したのです。しかもそこには日本最初の本格的西洋美術館があり、エルグレコ、モネ、ゴーギャン、ピカソ、セガンティー二などが観賞できるのです。東京の国立西洋美術館よりもずっと先に開館しています。すごい土地なのです。

倉敷がこうなったのは大原孫三郎という個人が全ての発端なんですが、この人の話は長くなるので興味がある人は城山三郎さんの「わしの眼は十年先が見える: 大原孫三郎の生涯 」新潮文庫を読んでみてください。とにかくスケールが破格な人です。

一時帰国が出来なくて恋焦がれることになる対象は饅頭だけではなく、実際は更に食べたくてしょうがない倉敷の味として「ふるいちのぶっかけうどん」があります。これも、高校生の頃から愛し続けているソウルフードなので夏休みに家族で一時帰国した場合も倉敷では「パパの大好きなぶっかけうどんを食べる」のが当たり前だったのだけれど、子供が大きくなってくると「ええ、また?」とだんだんに付き合ってくれなくなりました。

最近は一人で倉敷に帰郷することも多かったので、そういう時は心置きなく「ふるいちのぶっかけうどん」を食べに行くし、一度に「ぶっとろ」と「きざみぶっかけ」を2杯食べることもあります。

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そういうわけで、我が家ではうどんと言えば「ふるいち風」のぶっかけうどんがデフォルトです。ミラノでうどんを作るときもパパが作ればぶっかけになります。ここでも声を大にして書いておきますが、讃岐うどんのぶっかけは讃岐うどんブーム後に出来たメニューで、讃岐の人は元々きつねとか釜揚げとかを食べるのがうどんだったので、ぶっかけは倉敷のふるいちからの逆輸入メニューです。

おいらが倉敷で高校生だった頃にふるいちのぶっかけチェーン化が進んだのだけれど、当時(1980年代)でも倉敷以外ではぶっかけうどんを出す店はなかったはず。岡山市に行くだけでもうなかったからね。

子供の時に親と一緒に初詣に行った金毘羅山のうどん屋さんで食べたうどん、多分きつねうどんだと思うけれど、それがやたらとおいしくて、やっぱり讃岐うどんはおいしいなあと思った記憶があるのですが、ともかく昔は香川でもうどんはきつね、たぬき、釜揚げとかのスタンダードな品ぞろえが普通だったのです。

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今から30年くらい前になると思うけれど、大学生の頃に「dancyu」でうどん特集というのが出ていたので「これはひょっとして倉敷のふるいちぶっかけうどんも出ているのではないのか」と思い購入したら、大阪と東京のうどん屋対決みたいな内容で、当時は讃岐うどんブーム前だったこともあり、讃岐うどんすら出てこないので拍子抜けしたことがあります。当時のおいらは、讃岐うどんがおいしいのはもちろん、ぶっかけうどんの美味しさも知っていたので、東京や大阪で食べるうどんはどれもかなり評価が低かったため(すまぬ)、そういうので特集組むのは間違いだと思ったし、せめて讃岐へ行くくらいはしなきゃね。その多分10年後くらいに日本で讃岐うどんブームがおこりみんなホントのうどんの美味しさに目覚めるわけです。

さて、もう20年ほど「ふるいちのぶっかけうどんミラノ支店熱望委員会」の会長を務めていますが、未だにふるいちから「ミラノ出店」の報告がありません。もしかしたら永遠にないかもしれません。なので、これからもせっせとふるいちっぽいうどんを作ったり、藤戸饅頭っぽい饅頭を作って生き延びて行こうと思っています。

倉敷いいとこ一度はおいで。

Peace & Love

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