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表現の不自由展の背景にある感情問題を考えてみる

先の投稿の直後にダダダっと書いてみたものの、夜に書いたラブレターのように感じられて投稿を少し思いとどまったのだけど、アップしてみることにしました。↓は8月前半の頃の様子をベースにしてるので一部古い内容あればご容赦ください。

「表現の不自由展・その後」の中止をめぐる問題について、いろいろ論考やNewspicks上のコメントを見るにつけ、とにかく難しい問題との認識を強くするに至っている。表現の自由と公共性という、時に相反しかねない概念をどう解釈するかで考えは変わってくる。政治的なスタンスで見える世界もとにかく違う。さらにややこしくさせているのが感情的な部分をめぐる問題だ。

今、日本国民にとって韓国に関する感情は言われている通り、過去最悪レベルに達しているものと思われる。背景にはテレビやネットメディアによる扇動行為が少なからず影響している。よく見られるのが「さすがの温厚な日本国民も堪忍袋の緒が切れた」というものや「度重なるねつ造、被害者意識丸出しの姿に辟易」といったもの。過激なものだと「ただちに断交すべき!」というものすらある。

諸手を挙げて賛成するとはいかないが、これらの主張に対して理解、共感はしている。少なくとも、メディアで報道される反日デモ、政治家の発言などを見る限り、強い憤りをおぼえるのは普通に生活している日本国民にとって当たり前とすらいえる感情のはずだ。しかし、少し冷静になってみると、そっら報道の数々が切り取られたものであることがわかる。

外務省のウェブサイトでは夏休みの海外渡航が増える時期ということもあり、韓国に渡航する際の危険性について掲載されるようになった。しかし、日本人だからといっていきなり攻撃に遭うようなことはほとんど聞いたこともないし、数として多く起きているわけではない。同様に、韓国側でおそらく報道されてきただろう、日本国内でのヘイトデモ。こうしたデモは日本で頻繁に起きているわけではないし、日本国内でいきなり韓国人に危害を加えたという話もあまり聞かない。要するに映像・写真映えする過激な部分だけをメディアは報道しているのに過ぎないのだが、受け取り側はそれをすべてと判断してしまう。もちろん、発信側のメディアにも大きな責任があるが、受け取り側も、少し冷静な見方をすればもう少し感情的になることを抑えることができるのではないだろうか。もちろんそれは日本だけでなく韓国側にも必要な見方だ。

日韓問わず、少し冷静に見方ができる人は一連の騒動に対し、一歩引いた目線で見ている。扇動された報道は注目を浴びやすいという、極めて当たり前なメディアの特性を理解できているからだ。さらに言ってしまえば、そういったメディアの煽りにコントロールされるほど無知でない、という自覚もあるのだろう。こういった人たちに対して愛国心を楯に批判をするような人もいるけど、そもそも愛国心ってなんなんだろうか。メディアが報道していることをまんま受け入れ、その煽りに乗ってしまうのが愛国心?自国以外が自国を批判していることに対し憎悪の念を持つのが愛国心?

愛国心については稿を改めて考えてみたいと思う。


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