オタクは死んだのか、自己紹介的に考えてみる
自分はアニメを見ない方だろう。
ネットで見るにしてもなかなか腰が重い。映画は安くて2、3時間で見られるからいいのだけど。
幼少期からオタクカルチャーと接したり、離れたりしてたと思う。
自分とオタクカルチャー、オタキングとの出会い
自分の父親は、ナウシカをはじめジブリが好きで、エヴァンゲリオンが好きで、ナディアを見せてくれた人だった。アニメ好き漫画好きだった。
小さい頃にポニョやナディアを見ていたのを思い出す。ウルトラマンや仮面ライダー、戦隊モノも大好きだった。昔の昭和の仮面ライダーを借りて見るくらい大好きだった。
しかし、成長するにつれてそれらへの興味は薄れに薄れて、アニメは友達と話すために見るくらいになってしまった。
しかし、それが変わった出来事がある。
岡田斗司夫さんの発見だ。
ジブリの解説で人気だが、自分は岡田さんに出会うまで、ちゃんとしたアニメや映画の分析を知らなかった。
表面的にしか読めない作品の本質的な意義を捉えられるのを知ってびっくりした。
この発見から、芸術作品は表面的な面白さだけでなく、社会への意義が大切だと感じる。
苦しい日本は一億総オタク社会なのか? オタクというスティグマ
前述してきたことを読むと、僕は凄いアニメ、特撮オタクのようだけど、そうではないです。
成長するにつれてアニメは見なくなりました。
何でだろう。それは【アニメ好きな人】を嫌悪していたからだろう。本当はよくない感情ですが、ごめんなさい。
弁明させてもらうと、ドラゴンボールやワンピースが好きな人は嫌悪していないです。自分もドラゴンボール好きだし。
強いて言えば、萌えアニメやVチューバー、音ゲーなどや、それに付随する声優界隈などに熱狂している人を疑問視していただけです。
そういう人こそが、【オタク】とされている現代に物凄く疑問があるのです。本当のオタクはそうじゃないんじゃないかと。真のオタクは、理論や教養があり、文化の担い手であることを自覚していました。
今のオタクとされる人は、単なる消費者にすぎない
失礼な言い方になりますが、男という社会的性別によって価値づけされて、弱者とされた者が、そういったアイドルやアニメやVチューバーといった資本主義に飲み込まれていく図式にしか見えなくて滑稽と思っています。そういうずる賢いやり方にしか見えなくて許せない気持ちがあるのです。
素晴らしい作品なのですが、自分も五等分の花嫁を途中まで見たりして、疑似恋愛のようなことが出来ていいなあと思いつつも、その世界に引きずりこまれそうになって、なんだか虚しくなりました。
今振り返ると、優等生的な、あまりに無害なアニメだと思ってしまいます。面白いのは間違いないですが。
Vチューバーに課金する人もそういう思考なのだろうか。現実逃避の場、代償の場なのでしょう。
自分も孤独だからそういう快楽的なカルチャーに走って心を慰めるべきなんだろうが、それは自制心が許さないのです。
漫画やアニメは本来、子供たちのものです。
宮崎駿のような天才が本気で真剣に子供たちに向けて作るからこそ、大人も楽しめるんです。
大人向けばかりの現代において、そこが忘れられている気がします。
最近のアイドルやアニメキャラなどは、都合の良い制作陣のおじさん達の作り出した操り人形でしかないのではないかと思ってしまいます。
しかし、そういうカルチャーを消費するのは、確かに楽しいし、娯楽としては素晴らしいのですが。
そういう娯楽にも、裏には社会的意義があってほしいと思うのです。
真のオタク、文化のあるべき姿を勝手に考える
オタク・イズ・デッドという岡田斗司夫さんの講演がある。本も出ています。
オタクは本来、子供向けのものを大人になっても楽しもうとする存在として虐げられてきた部分もある。その延長にあるのが、宮崎勤事件の時のメディアの印象操作でしょう。
そういう偏見のなかで生きるために、昔のオタクには連帯性があり、世間に弁明するために必要な理論武装がありました。
要するに寛容で賢い人が多かったのです。
しかし、今ではアニメなどは快楽の娯楽の道具として消費されてしまっている。娯楽は娯楽で楽しくていいんだけど、もっと大切なこともあります。
文化が本来持つべきな社会的意義が忘れ去れつつある。日本は元々そういう国なのかもしれないけれど、日本ほどの文化大国だからこそ真剣に考えたいです。
つらつらと長文失礼しました。
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