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「深い」小説って何ですか? 「おカネの教室」ができるまで番外編

新シリーズ開始の前に、ちょっと小説論(のようなもの)を書いてみたくなった。
こちらのシリーズ1総集編をご覧になってからの方が話が見えやすいです。

なぜか多い「映画化希望!」

書籍版、Kindle版を通じて、読者からたくさんの感想をいただいた。
リアルでお会いした方やAmazonレビュー、ブログのコメント等をあわせると、200人ぐらいの「声」に接したと思う。
大半を占めるのは以下の3パターンだ。

・経済やお金の仕組みがすっとわかる
・ストーリーが面白い
・子供に読ませたい

セールスポイントをまっすぐ受け止めてもらい、ありがたい限りである。
上記の3点とあわせて、かなりの数、映画・ドラマ等の映像化やマンガ化の要望を頂戴している。

片岡義男は20年ほど前、自選の18の短編に自らショートコメントをつけるというユニークな「小説作法」という本を出した。短編「パッシング・スルー」に添えたコメントにこうある。

自分が見た光景をいったん頭の中で映画フィルムに置き換え、そのフィルムを頭のなかで映写しつつ、スクリーンに映し出されるものを言葉で描写していく、という趣を強く感じる。少なくとも小説の場合、僕の書きかたは基本的にこうなのだ。

(ふと装丁を見たら日比野克彦とあって驚いているなう)

「おカネの教室」も同じような手法で書かれている。というより、シーンを思いうかべ、そこで繰り広げられる登場人物たちの言動を写し取っていく以外に、物語を書く方法はあるのだろうか。
いずれにせよ、こうした書き方が、映像化・マンガ化希望が多い一因だろう。読んでいると「絵が浮かぶ」のだと思う。
「できるまで」のシリーズ1総集編の繰り返しになるが、作者はこの作品を、「経済解説がストーリー上の重要な要素になっている青春小説」であって、「青春小説の要素を加味した経済解説書」ではないと思っている。
まだそこそこのヒットの段階で「映画化を」という声が上がるのは、この見解を裏付けてくれていると解釈している。

小説として「浅い」?

一方で、「おカネの教室」には、「小説としては浅い」という率直な意見もいただく。
出版社に売り込んだ際、ある編集者にはズバリと「単に小説としてみれば出版するレベルではない」と指摘された。
作者としては、「ごもっとも」と思う。
本作は「娘に読ませる私家版の軽い経済解説読み物」が小説に変質したものだ。成り立ちからしてリーダビリティが最優先で、そもそも小説志向というか、「小説性」とでもいえる要素は弱いのだろう。

そのうえで、「だが、しかし」とも思うのだ。

保坂和志は2003年刊の「書きあぐねている人のための小説入門」で、「『ネガティブなもの(事件、心理…など)を以て文学』という風潮が嫌だった」から、デビュー作「プレーンソング」を書く際、「悲しいことは起きない話にする」というルールを自らに課したと明かしている。

書いていく過程で、物事を叙述する文章というものがほとんど自動的に不幸の予感(または気配)を呼び寄せることに気づいた。 (中略) 小説にはそういうネガティブな“磁場”のようなものがあるらしいことが、書くにつれて強く強くわかってきた (中略) 感傷的な小説は非常に書きやすい。小説にはネガティブな磁場が充満しているから、何を書いても簡単にさまになってしまうのだ。

私はいわゆる「純文学」が苦手で、保坂の「小説の新たな地平を開く」といった方向性にはついていけないところもあるのだが、この本の「頭を小説モードにしない」という項の指摘には全面的に同意する。

原稿用紙やパソコンに向かったとたんに頭が小説モードに切り替わってしまうのだ。その結果、どこかで読んだような、きわめてステレオタイプな小説が出来上がってしまうわけだが、書いている本人はそうでないと小説ではないと思っている。つまり、小説の外見に守られることで、小説を書いているつもりになっている。 (中略) その小説は、小説ではなく、すでにあるものになってしまう。(太字は原文では傍点)

保坂は「『感傷的な小説』は罪悪である」という項で、さらに踏み込んでこう言い切る。

感傷的な文章やストーリーで書かれた小説は、ひらすら深刻なことばかりが書き連ねられている手記と同じようにベストセラーになることが多いけれど、それらがベストセラーになる理由は、「読者が成熟していないからだ」と、まず割り切ったほうがいい。

これは、読者を侮った言説、というより、保坂流の「売れたほうがいいけど、売れるために小説を書くわけじゃない」という矜持の表明だろう。

(保坂の小説論は面白い。が、正直、ついていけないところも…)

「小説として浅い」というご指摘には、その「浅さ」は認めつつ、保坂が指摘する「ネガティブなものを良しとする価値観」「小説モードの文体に沿っていないことへの違和感」が混じっていると疑っている。

面白いは正義

私にとって小説とは「読んでいる間、その世界や文章に浸り、引き込まれてページをめくってしまう読み物」でしかない。
芸術としての文学の可能性とか、人間存在の根源を問う「深さ」とか、正直、どうでもよい。
書かれているのが焼きそばの作り方だろうが、リトルピープルであろうが、臓器移植を待つクローン人間だろうが、どうでもよい。
「面白いなー」と読み進めて、最後までページをめくって「面白かった!」と思えれば、それは良い小説だ
ときにそれは、「面白い」ではなく、「すごい」とか、ただの唸り声かもしれない。「とにかく先を読まずにいられない何か」があれば、それで良い。

夢中で浸るためには、興が覚めてしまう「穴」は許されない。
たとえば最近読んだある話題作(「滅多にない極上の小説」という触れ込み)では、海外のバーで旅慣れた主人公がバーテンダーに「〆」のポーズで会計を頼むというシーンで一気に萎えた。居酒屋じゃないんだから。結局通読したのは、貧乏性のなせる業だ。
私は村上春樹の作品の大半を読んでいるが、それは、最後まで面白く読めること、「穴」が絶対にないことを信頼しているからだ(ほぼ再読しないのでハルキストではない、ですよね?)

誰だったか思いだせないのだが、ある作家(中島敦?)は小説を読んで論評する席でも「面白いなぁ」としか感想を漏らさなかった、という逸話をどこかで読んだことがある。
そう、面白ければ、何でもよいのだ。たかが小説なんだから
だから、「おカネの教室」について、「浅い」と言われても、「So what?」としか思わない。「つまらない」と言われれば、返す言葉もございませんが。

「おカネの教室」の書籍化に際して私が出版社につけた注文は、「ビジネス書風にリライトはせず、できるだけ『変な本のまま』出すこと」だった。
企画段階で、ある出版社からは「ストーリー風はやめて作中の講義内容を解説するビジネス書スタイルに全面リライトする」という提案をいただいた。「50万部行けます!」ということだったが、丁重にお断りした。
「おカネの教室」の講義内容は、経済書あるいはビジネス書としてみれば、大して新味はない。ロジックや細部の「詰め」には甘いところもある。せいぜい「現役記者が娘に書いた」ぐらいがセールスポイントの、ありふれた経済入門書になったことだろう。
一方、これを「変な本」、言い換えれば、「変な小説」としてみれば、かなりユニークなものになっている。知る限り、類書はない。

高橋源一郎は「一億三千万人のための小説教室」で小説をこう定義している(あるいは定義することを拒否している)。

小説には、形がない。確固としたものがない。それに向かう中心、それが小説であるという、明確ななにかはないのだ、とわたしは思うのです。
(中略)
だから、小説は、詩に似たり、評論に似たり、エッセイに似たり、テレビドラマに似たり、する。なにを、どう書いても、小説であることが許される。
それが小説なのです。

(高橋の小説はなぜか全く受け付けないのだが、これは良い本です)

稚拙なデビュー作を名著と同列に扱うつもりは全くないが、ローラン・ピネの「HHhH」やリチャード・パワーズの「舞踏会に向かう三人の農夫」にしたって、評論なのか小説なのか判然としない、相当、変な小説だろう。パワーズは「絶対誰も読まないだろうという確信のもとに」このデビュー作を書いたという。

最後にこれまでAmazonでいただいた50件近いレビューから、一番のお気に入りを引用して締めくくりたい。

お金の話なのに
ストーリーに引き込まれて気づいたら読了。読後感は最高レベル。何だろうこれは。

評点は「1つマイナス」で4つ星なのだが、「何だろうこれは」の一言は、「変な本」への最大の賛辞と受け取っている。

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ご愛読いただき、ありがとうございます。
好評発売中の「おカネの教室」本編もよろしくお願いします。
今回は、筆者のモヤモヤの解消を優先してしまいました(笑)

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