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地方出身者的英語学習法

留学で初めてアメリカ・ニューヨークに住んだのは20代も終わり。英語と真剣に向き合うにはむしろ遅すぎるくらいの年齢だった。なのに、留学してすぐにアメリカ人の誰や彼やから、

「英語、上手いね」

と褒められることが不思議なほど多かった。「上手いね」と言われるうちは、よそ者認定されたも同然と考え、自分の英語はまだまだだと自身を強く戒めた。あ、いや、褒められること自体は、悪い気はしなかったのだが。

で、結論を先に書けば、東京生まれ・東京育ちの方々には申し訳ないが、こと外国語の習得に関しては、明らかに地方出身者に分がある、というのが僕の持論である。

ちなみに、ここでいう「地方出身者」とは、首都圏以外の生まれ、育ちであり、かつその後、「上京」という過程を一度は経ている人々のことを漠然と総称して指している、とおおらかに理解していただけると有り難い。

さて、まさしく地方出身者の僕にとって英語は、東京弁に次ぐ「第2外国語」であったという事実がここでは重要となる。すなわち、大学進学で博多から上京してきたばかりの、あの「第1外国語」としての東京弁と遭遇した際に蓄えたテクやコツをそのまま流用することで、少なくとも英会話力は1ヶ月かそこらで飛躍的に伸びた(もっとも、語彙力をはじめとした、本当の意味での英語力となると話はまた別で、実はその修行はいまも続いているのだが……)。

語学の向き、不向きは生まれつきの才能に依存する、という思想は意外と根強い。例えば、いわゆる英語耳のあるなしには個体差がある、との考え方などがそれだ。

僕はその考えには与しない。一見、向き・不向きによる違いと思えることも、実態は、新しい言語を獲得する必要性、もっといえば切実さの度合いに拠っていることがほとんどだと思う。実際、地方出身者なら誰もが東京弁を手っ取り早くマスターすることは、上京して最初にやるべき通過儀礼のようなもの。たいがいの地方出身者は大なり小なり東京弁を使いこなすのに四苦八苦した一時期を持っている。

ただ、それまで身にまとっていた方言をいったん脱ぎ捨てて、標準語を自家薬籠中の物とするかどうかの覚悟のほどは、これは(個体差ではなくて)考え方の個人差がある。

同じ博多の高校を卒業し、一緒に上京した友人の一人に、「俺はぜったい博多弁で通すっちゃん」と言って憚らないのがいた。確かに、彼や彼の東京の友人たちと一緒にトランプに興じていたときのこと、突然、

[あんたどべやけんくり」

と言っては周囲を煙に巻いた彼。その実、「お前が(直前のゲームで)びりっけつだったんだから(カードを)切れよ」という意味とは誰にも分からず、笑いさえ起きなかった(例外的に、一人笑っていたのは他ならぬこの僕である)。

そんな彼も上京後1年ほど経ったある日を境に突如、東京弁に切り替えているではないか。何があった? なんのことはない、彼女ができたわけだ。これこそが、彼にとっての東京弁を喋るべき切実な事情であった。気がつけば、上京から1年、東京弁を「聴く耳」が彼にもついに生えたことになる。

同じように英語も、英語ネイティブの恋人ができた、というのがまさにその恰好のケースかと思うが、他にも、留学する、あるいは、英語が「公用語」の会社に入るなど、英語を使う切実さを感じる場面が今後ますます多くの人に降りかかってくるに違いない。でも、大丈夫。そんなときは地方出身者のあなたには「聴く耳」がすてに養われているのだから。

聴く耳、すなわち英語耳はすでにある。ならば、次は思いの丈をいかに言葉に変換して、口から吐き出すか、つまりは、いわば英語脳問題である。

ここでも、地方出身者のあなたには東京に住み出したあの頃を思い出して欲しい。お気に入りの東京弁フレーズがいくつもあったはずだ。その選りすぐりのフレーズを使いたいばかりに、あなたは人と会い、会話をそっちの方面に半ば強引に誘導したりはしなかったか。 

僕の場合、例えば、満員電車や雑踏の中で、期せずして肘やカバンの角が他人に当たったようなときに、東京人——とりわけ男性——が反射的に口にする、

「失礼」

がなんとも粋に思えたものだった。これはなんとか「自家薬籠中の物」にしよう、と強く思った。

かといって、当たり屋よろしく、こちらから誰彼かまわずぶつかっては「失礼」「失礼」……と連呼するわけにもいかず……。が、そのうち「失礼」は意識せずとも口をついて出るようになったことを思うと、当たり屋まがいの行為の十や二十はやってのけたのかもしれない。

ただ、「失礼」が脊髄反射的に口から出るようになってみれば、次には「失礼」を客観的に再評価する心の余裕が出てきたのである。すると、いかにも東京風ではあるけれど、「失礼」はかなり失礼な言い方ではないか、と疑問に思えてきたのだ。博多弁の「すんませーん」に対応する東京弁は、ある種乾いた「失礼」ではなくて、例えば、自分的には「ごめんなさい」ではないか? Smile-Up(旧ジャニーズ事務所)経営陣になぞらえるならば、社長の東山さんは「失礼」とクールに言ってのけられそうだけど、副社長の井ノ原さんは、やっぱり「ごめんなさい」派ではないのか……等々。この、言葉一つひとつの強さ、重さを吟味する感覚は、やはり東京弁を「母国語」の方言と相対化することのできる地方出身者ならではの特権かと思う。

2009年からの二度目のニューヨーク暮らし。朝食は、近所のルパン・コティディアンで摂るのが常だった。

ルパンといえば、コミュナルテーブル(communal table)である。どこからどう入れたのかと訝るほど大きな共用の大テーブルがお店の中央にどんとあって、例えば、近所の資産家老婦人と、節約世界旅行中のカップルが一つテーブルで仲良く朝食を並んで、または向き合っていただく。

Could you pass me the salt, please?
(そこのお塩、とっていただけませんか、できることなら?)

とお金持ちの老婦人。これだこれだ、僕の大好きな could you で始めて、最後にダメ押しの please で締めるパターン。20年前の1回目のニューヨーク生活で身につけて以来、それこそ「自家薬籠中の物」として重宝してきた大得意の黄金構文である。

だが、しかし……と思う。彼女の言いっぷりときたら、丁寧と見せかけて、実は、若干上から目線というか……丁寧余って失礼ささえ漂っているのではないか。いやいや、言われた方の、若い旅行者カップルの男性の方はいっさい気にするでもなく塩の瓶を渡した挙句に‎‎、口角を上げてにこりと‎笑顔まで添えているではないか。この辺りの大人な駆け引きまでは深読みできないが、しかし、仮に僕が塩の瓶をお願いするのなら、

Can you pass me the salt?

程度のプレーンな英語表現の方がより若々しく、結果、謙虚な感じを演出できるのではないか、と思った。東京弁の「失礼」が謝っているようでいて、結果、問答無用とばかりにそれ以上の議論の余地を遮断しているのと同じで、could youからのplease締めだと、懇願すると見せかけて、「塩を取ってあーげない」というまさかの選択をきっぱり遮断しているように、当時の僕の英語耳と英語脳が感じとったのだった。

日本語も英語も一筋縄ではいかないが、どんなにアウェイな会話の輪にあっても、拙い語彙力をなんとか駆使して人々をくすっと笑かしたいと思う。一種の職業病なのかもしれない。あ、こんな駄文の結びにしてはちょっと恰好つけ過ぎ? 失礼。







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