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小屋の誘惑

子どもの頃のいっとき、我が家は父の仕事の関係で福岡市・鳥飼の手狭な官舎に暮らしていました。僕が中学に上がるきっかけで、ひとつしかなかった子ども部屋を妹に明け渡す代わりに、プレハブの勉強部屋……もとい、勉強小屋を作ってもらうことになったのでした。

親が国から一体全体どんな設置許可を取りつけたのか、子どもの僕には知る由もありませんでしたが、猫の額ほどの庭に見合うのは4畳だか5畳だかの建物が精一杯でしたから、お世辞にも広いとは言えませんでした。が、人生で一番多感な季節に得たその個室空間は、僕には良くも悪くも王国でした。

ビートルズを聴き、叔父から貰い受けたエレキギターをかき鳴らし、カセットテープレコーダーの多重録音にハマり、ラジオの深夜放送に耽溺しました。あの一時期、まがりなりにも小屋の支配者でいられたわけですから、うちが「狭い官舎」住まいだったことにただただ官舎です……あ、いや、感謝です。

そんな原体験もあってか、以来、世の中の小屋という小屋の存在がどうにも気になります。

建築家・守田昌利さんとは、出会うのが遅過ぎまして、先生の人生の最後の1、2年しか親しく交流できませんでしたが、守田建築士自らが設計した拙宅にパートナーのエコウさんも一緒に幾度となく食事にいらしていただきました。建築のことのみならず、世の中の仕組みを色々と教えていただきました。

なかでも、エコウさんの娘さん夫妻の自宅敷地の一角に、ル・コルビュジェをオマージュした小屋を半ば勝手に建ててしまわれたエピソードは、思い出すたびくすっと笑ってしまいます。

出来上がった当初は、

「こんなの作ってなんて頼んだ覚えはないのに!」

と激オコの娘さんだった、とエコウさん。ただ、いまや高校生のお嬢さんと、ほぼ毎日がリモートワークのご主人が代わりばんこに「ル・コルビュジェの小屋」に籠ることも珍しくないのだとか。

小屋は新しく自分で建てるというよりは、すでにそこにあるもの、誰かがすでに使い込んだものをひょんなことから貰い受ける、そして、慣れ親しむうちに段々と好きになる、というのがひとつの理想形に思えてなりません。

あの山口百恵さんと三浦友和さんの住まいとして一世を風靡したペアシティ・ルネッサンス高輪の設計も手がけた著名建築家が、人生の最後の最後に「ル・コルビュジェの小屋」を再現してみせた。で、それを有無を言わさず押しつけられた「娘さん一家」。残念ながら、僕の人生にはそんな親族や、親族のパートナーはまだ出現してはいませんので、ただただ羨ましい限りです。

さて、ちょうど一週間前に念願の白内障の手術をやったことで、僕はまた、近所の森の散歩を再開しています。

自宅から吉祥寺駅までのバス停にして6つか7つ分を行きも帰りも歩く、ただそれだけのことですが、途中、井の頭の森を通り抜けることができるのは、ここに住むことのなによりもの特権です。

わりとよく見えるようになってみれば、やはり気になるのは、密かにブローニュの森と呼ぶ、井の頭公園の一角にひっそりと佇むあの小屋のこと。「官舎のプレハブ小屋」にも「ル・コルビュジェの小屋」にも負けず劣らずミニマムなその建造物に、人が出入りする光景にただの一度も出会ったことがありません。

恐らくは、防災備蓄倉庫かなにかだと思われますが、それにしては立派に過ぎはしまいか? 井の頭恩賜公園は東京都の公園ですから、小屋の設置には都費が投じられたものと想像します。比較的新しい建物ながら、その存在感は旧家の土蔵のそれのよう。

「合鍵の一本、どっかに落ちていないかな」

と心の底から願います。いえいえ、決して悪巧みに使おうというのではありませぬ。お池とジブリ美術館とを結ぶこのショートカットの小径は、不思議に人の行き来が途切れませんから、人目を避けてさっと扉を開け、すっと中の人になったならば、次の瞬間、内側からきちんと鍵をかけることも忘れません。

昼とて暗い室内かとは思いますが、照明は——あっても、どうせ裸の蛍光灯の1本か2本でありましょうから——点灯無用です。陰翳礼讃。よほど暗いときも、スマホのバックライトだけでぎりぎりなんとかなる広さかと。

私物のカウチやコーヒーテーブルを持ち込みたいのはやまやまですが、「無断侵入」の痕跡を消し去って、以後、できるだけ長く、繰り返し借用したいものですから、叶わぬ夢ときっぱり諦めます。居場所確保のため、一時的にどける備蓄資機材は、あらかじめスマホで写真を撮り、帰りしなに現状復帰を忘れません。

浮き輪のようにインフレータブルの、持ち運び至便の1人掛けチェアかマットがあれば最高ですが、なければないで、地べたに直接座るのも、それはそれでまた一興かと。

井の頭の森の、ぽつんと一軒小屋の人となり、小一時間……は無理でも10分でも20でも「小屋の時間」に身をゆだねることができたなら、と強く願います。

どうせやることは、スマホでなんらかの文章を書くか、定時の緑内障の目薬を何種類か差すかの、いくつかに収斂することでしょう。

ただ、何度も通ううちに、やがて「小屋の鍵」をなんとか手に入れたのが僕だけではない事実に気づくやもしれません。

それは、白壁の四隅に書き残された、小屋好きの別の誰かさんからの外国語のメッセージであったり、ネットに上げたPDFの文章に飛ぶべく床のタイルの表面に蒸着したQRコードであったり……。

小屋の中で一人っきりのはずが、いまや小屋オタ・ネットワークの正会員の一人であることに思い至るのでした。

やばいやばい……「不法侵入」でいきなり警察官に踏み込まれるのもこの年齢には恥ずかしい話ですから、今日の空想小屋巡りはこれくらいといたしましょう。

こやすみなさい。




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