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黄鶴:札幌グランドホテルの中華「こうかく」はこう書く

昨夜から札幌へ。最後に来たのは夏の終わり……とはいえ、たった2ケ月足らず前のことだが、一昨日あたり市内でも初雪がちらちら舞ったのだとか。本のページをめくるように季節はぺろりと移ろったのだった。

20年以上札幌に住んだ身として、「夏は東京、冬は北海道」が理想の暮らしと心得る。あれ、打ち間違い? いえいえ、冬こそ北海道なのである。

念頭にあるのは住まいのこと。いまでこそ、東京でも「外断熱」などと住宅の気密性云々を言うようになっているが、北海道では道外に何十年も先んじて冬も室内ポカポカ。札幌にいるときは、暮れに東京に帰るたび風邪を引いていた。

反対に、ここ北海道の夏のエアコンの普及率は——職場と住まいとを問わず——まだまだ低い。地球温暖化の影響もあるのか、ひとたび暑くなると札幌は意外と逃げ場がない。そんなときは、どこもここも冷やしに冷やした東京が妬ましい。

「北へ行くのか。あっちの寒さは半端ないぞ。ま、遠くちゃなんの手助けもしてやれんけど」

四半世紀前、札幌の大学に教職を得たとき、義父にはそう突き放された。娘のみならず、孫たちとも離れてしまう恨み節もあったかとは思うが、「北」という言葉遣いに認知症の片鱗を嗅ぎとるべきだったかもしれない。

そもそも、当の本人からして、海軍兵学校の学生として終戦を迎え、そのまま北海道大学法学部に進学している。

「北大には犬ゾリで通った」

の口癖は傍証に乏しいが、「内地」に準じた家づくりがデフォルトだった時代のこと、その厳しい寒さはまさに「北」のそれだったに違いない。

北大卒業後、紆余曲折あって東京・千駄ヶ谷で小さな繊維関係の商社を興したのが1963年。2009年に亡くなるまで、半世紀近く経営の一線で頑張り続けたが、生きている間には、ついぞ身内からの援護射撃は得られなかった。長女の夫、すなわち僕は「北」へ逃げるわ、次女は結婚そのものから逃げるわ……晩年は、さぞや心細いことだったろう。ただ、最後の数年は緩やかなボケが、義父をすべてから解放してくれたに違いない。

「そっちのホームセンターで雪国仕様のゴム長買って送ってくれよ。内地仕様はインナーが薄くて冷たくてな」

はいはい、と義父の電話に安請け合いしたものの、しばらく放置してしまったばかりに、また電話でさんざん怒られた。すでに施設に入っていたが、「ゴム長」は義父の must buy リストの相当上位にあったのだろう。

まだ元気だった頃は、一年に何度も札幌に飛んできた義父。息子たちも一緒に、夫婦で色々と旨いものをご馳走になったことが懐かしく思い起こされる。なかでも、定宿としていた札幌グランドホテル2階の中華料理店「黄鶴(こうかく)」には頻繁に連れて行ってもらった。

食べることには金に糸目をつけない人だった。なので、ここぞとばかりフカヒレや北京ダックを立て続けにオーダーさせてもらった。

あるとき、いつもの黄鶴でさんざん食べた挙句に、伝票が僕の前に置かれたことがある。少なからず動揺した僕を尻目に、

「どっからどう見ればこの人が支払うと思えるの? 失礼にもほどがある!」

すかさず伝票を奪い取った義父が、お店の年配の女性に声を荒げて抗議した。申し訳ありません、と平身低頭の女性に対して、すみません、すみませんと平謝りしたのは僕ら夫婦の方。後から振り返れば、これとて認知症のなせるわざだったのだ。

大きな存在と立派な財布を失くした僕ら夫婦は、いまではフカヒレも北京ダックもメニューにはないものとしている(その実、ちゃんと載っている)が、ランチに夕食にと黄鶴には割と良く行く。行くたびに、妻はまだ幼さの残る子どもたちの話を、僕は結局は大所高所から札幌生活を応援してくれた義父の話をよくする。

何年か前、勤務先の大学を「早期定年退職」してまで義父の会社の経営をいったんは引き継いだものの、結局は2年足らずで退いた。確かに、緑内障に由来する眩しさ、見えにくさは業務の小さくない支障であったが、一向に見えないのは己の経営手腕と覚悟であったかと思う。

「ノーザンテラスダイナー」は、札幌グランドホテルの1階にあって、2階の黄鶴と並んで大好きな場所だ。若い頃、突然の寒波襲来で足止めを喰らったコペンハーゲンの、SASのホテルのラウンジを彷彿とさせる、ミニマムでモノトーンのデザインがとても気に入っている。が、インテリアよりなによりここのイチゴパフェはコロナ以来のこの3年半、ほぼ毎月一度は食べてきた、と言って過言ではない。

目の悪い僕が、トッピングの丸ごとイチゴを落としてしまうのも3回に2回なのだが、コロコロとテーブルを転がる小粒のイチゴの軌跡を生クリームが見事に刻むのを毎回感心して眺めるのだった。もちろん、「3秒ルール」に則って、転がったイチゴをパクリやるのはコロナの感染状況とはまったく関係なし。

黄鶴でさんざんご馳走になったんですもの、ノーザンテラスのイチゴパフェくらいは、お父さん、僕におごらせてくださいよ! ——そんなやさしさと言葉掛けを義父が元気なうちに出し惜しみしない僕であれば良かったのに。

結局は使われることはなかった(はずの)あの北国仕様のゴム長は、どこにいったのだろう。あれがあれば、市内でも比較的降雪の多いこの辺りではきっと重宝しただろうにな。根雪になるのにもう、いくらも時間はかからない。


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