ベストチョイスが世界を狭くする

例えばスーパーで生きのいい魚が売っていたので買ったとする。生きの悪い魚を見つけて買う人はいないだろうから、値段と相談とは言いながら、普通は生きのいい魚を買うことになる。
例えばサバ。生きのいいサバを買ったなら、私のベストチョイスは、締めサバである。他の選択肢はない。
例えばカツオ。新鮮なカツオの切り身を買ったなら、ベストチョイスは刺身しかない。マリネも候補だが、とりあえずはまず刺身である。

きれいな豚の肩ロースが売っていれば、値段と相談して買うだろう。私のベストチョイスは塩コショウに小麦粉を振りかけてのソテーである。それ以外考えられない。味がのってないことが分かれば、調味料に漬け込んでからソテーにする。

美味しいパン屋で食事パンを買ったなら、トーストしてバターを塗って食べる。それ一択である。

と言うように、ベストチョイスを選択すると、それはベストなのだから、合理的なのだが、調理法が決定されてしまい、いつも同じ食べ方になってしまう。悲しいことに飽きるのである。
ベストを選択したがゆえに、変化の乏しい食卓になってしまう。合理的に生きることが、人生をつまらなくするのである。
一体これはどうしたことだろう。

料理については、このように自覚しやすいが、たとえば書店である。書籍売り場で立ち止まる棚はいつも同じである。書店で使える時間は限られているので、目的の棚を幾つか回ると、既に書店を出なければならない時間になっている。というよりは、でなければならない時間を逆算して、見たい本棚の滞在時間を決めている。これではいつまで経ってもそれ以外の本棚を覗くことはないのである。つまり新しい分野の発見が無い。隣の棚に金鉱脈が埋もれているかもしれないのに、である。書店での時間の使い方のベストチョイスをしている限り、狭い情報世界に閉じこもることになる。

二泊三日の旅行に行ったなら、この限られた時間の中で、何に時間を使うか。ベストチョイスはもちろん人によって違うだろう。美味しい食べ物屋をめぐることかもしれないし、景色の良いところに行くことかもしれない。ただ人が同じならどこに行ってもほぼいつもと同じ行動をとるだろう。限られた時間の中でベストチョイスをすれば、自ずと行動が決まってしまう。

普段付き合う友達の選び方も同様だろう。限られた時間の中で、お喋りという快を追求するとき、会いたい人は自ずと限られてくる。

抽象化すれば、限られた資源の中で合理的に行動すれば、パターンが決まって、その外側を経験しずらくなる、と言うことだろう。いつまでも既知の世界に住み続けることになる。これが10年も続けば、型の決まった日常世界しか知らない生きた化石のような人になるのではないか。

しかしサバの調理法を変えることさえ、ハードルが高いのである。古くなればみそ煮も候補になろうが、新しいサバをどうしてもみそ煮にする気になれないのである。

一体この執着さは何だろう。


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