【小説】コウレイシャカイ 第十話(創作大賞2023・イラストストーリー部門応募作品)
銀の甲冑に身を包んだ騎士が和の鎧を纏った武士と鍔迫り合いを演じ、その脇から金の兜を被った戦士に斬られて霧散する。位相間現象同士の激しい戦闘から少し外れた場所、開戦地から数十メートル離れた道路の真ん中で銃を構える葛野は、引き金を引けずにそっと腕を下ろした。
あの金髪の研究者が掲げた『誰も死なせない』という理想はもう崩れた。元来葛野は、例え罪の無い被験者を殺してでも降霊者を止めるべきだという立場だ。あえて対立する必要も無いと判断したために従っていたが、もはや状況は変わった。降霊者の方から積極的に人を殺している。だから、葛野が引き金を引けない理由は、フレイヤにあてられたということではない。
(······追いつけねえ)
目の前で立ち回るジャンヌの動き。それは決して被験者の身体能力から生み出されるものではないだろう。長槍を持ちながら何度も宙返りをして相手との距離を取り、接近してきた相手の攻撃は全て見切っていたように回避する。そして攻めに転じるときは一瞬。視認できないスピードで槍を突き出して、それが不発となるとその先端を地面に突き刺す。槍を軸として体を跳ね上げ空中で体を捻り、回転を活かした蹴りを叩き込む。着地と同時に槍を引き抜いて再び突き出し、相手の攻撃が来たらそれらをまたすべてかわす。
そんなジャンヌと対峙する男もまた、並外れた身体能力を発揮していた。イスラームの英雄サラディン。彼は他の降霊者のように超常的な力がある訳ではない。彼が生前積み重ねてきた功績は、卓越した戦闘能力によるものだ。それが降霊者となったことでブラッシュアップされ、ジャンヌと互角に渡り合うほどの速度と膂力の源となっている。
引き金を引けば、弾が命中するまでは一瞬だ。だがその一瞬の間に両者の位置が入れ替わる。舌打ちして二人の降霊者に背を向けると、目の前で家康が騎士達を相手に立ち回っていた。葛野はそこに割って入ると甲冑の隙間を目掛けて銃弾を撃ち込み、一人ずつ騎士を消滅させていく。
「すまん葛野、助かった!」
「まだだ。ジャンヌを止めねえ限りキリがねえぞ!」
言う間に壮絶な衝突音がして、何かがこちらへ突っ込んでくる。二人は反応する暇もなく吹っ飛ばされ、歩道橋の付け根にぶつかった。
「無事か?」
そう尋ねるのはサラディンだった。視線を動かすとジャンヌが手をついて着地しているのが見えた。どうやらジャンヌに蹴り飛ばされたサラディンに巻き込まれたらしい。立ち上がる三人を見てジャンヌは少し首を傾け、
「なかなか頑張りますね。神様もあなた達を褒めてますよ?でも早く終わらせましょう」
直後に手持ちの長槍を投げつけた。矢のように猛進するそれを葛野とサラディンは右へ、家康は左へ転がってかわすが、すぐさま新たな槍を現出したジャンヌが間髪入れずに次撃を放つ。
「こっちじゃ!」
歩道橋を上った家康が呼び、サラディンが葛野を抱えて家康の元へ跳び移った。ジャンヌが階段を駆け上がろうとすると家康の武士達が彼女の行く手を埋め尽くし、その隙に三人は状況を整理する。
「ジャンヌを止めないことには解決しないが、どうすればいい?」
「決まってんだろ、あいつの被験者を殺す。退霊装置が手元に無いんだ、それしかない」
「······何じゃと?お前、それだとフレイヤが!」
「つべこべ言ってる場合かよ。あんたは知らねえだろうが、十年前に地獄を見たのはアメリカ人や中国人だけじゃねえ。日本人だって当然戦場に駆り出されたんだ。それも入ったばかりの、人を殺すっていう腹すら括れてねえ若い自衛隊員ばかりが集団で送り込まれて、各国の科学技術が結集した訳のわからねえ最新兵器の餌食になった。その中には、敵を殺していれば味方だけは助かったのに敵を殺せず味方を死なせたガキもいた。そんときから俺は決めてんだよ。人を殺すような科学は止める。そして、死なせて後悔するくらいだったら、人殺しになってでも誰かを助ける。治安部隊に入ってもそれは変わらねえ!」
「だが、少しは世話になった者に報いようとは思わんのか!」
『言い争っている場合ではないんじゃないかい?』
葛野と家康が互いに視線をぶつけ合い、サラディンが両者を止めようとしたとき。通信機から二人を諌めたのは、本部に残るエディソンだった。
『葛野、君のスマホにフレイヤさんが作ってくれた退霊用の映像と音源を送った。何とかしてそれを十秒以上見せるか聞かせるかしてくれ。そうすればジャンヌを退霊させることが可能なはずだ』
「でかしたぞエディソン、フレイヤ!」
歓声を上げた家康が自分を見やり、葛野は小さく舌打ちする。
「あいつを止められるなら何でもいい。何も拘らねえよ」
それを聞いた家康は満足げに頷き、
「音だけでいいのじゃろう?ならばすぐにでも達成できるのではないか?」
するとサラディンが首を横に振り、
「彼女は私の攻撃が予めわかっているような動きをしていた。それにあの身体能力だ、下手をすればその端末を破壊されるかもしれない。まずは彼女の動きを止めよう」
「······あんたは他の特殊能力に割いてない分フィジカルが上がってるって認識でいいんだよな?だったらジャンヌは何なんだ?あんたの動きを読むのが特殊能力だとしたら、あの動きは説明できねえ」
「上位存在」
葛野の疑問に、家康は短く答えた。葛野はその言葉に実感が湧かなかったが、サラディンはすぐにはっと顔を上げる。
「そういえば先ほどからジャンヌは『神様』がどうこうと言っていた。まさか彼女は神の意志を受けることができるというのか!?」
「······そういうことかよ。ジャンヌ=ダルクの神託、高校中退の俺でも知ってるぞ。要は神から何すりゃいいか教えてもらってるってことだろ?もしかしたらフィジカルにバフがあるかもな。でも宗教にケチをつけたい訳じゃないが、神の意志なんてあり得るのか?神とか悪魔とかっていうように俺達が解釈してる上位存在ってやつらが精神位相にいるとは、降霊研究のレポートをチラッと読んだときに書いてあったが······上位存在は肉体を介さなくてもこの位相に影響できんのかよ?」
「できる。それができるからこそ、上位存在なのだ」
「おい家康、どうしてそこまで断言できる?」
「決まっておろう」
家康はいつになく真剣な面持ちで告げる。
「わしも神だからじゃ」
何を言ってるんだ、とは言えなかった。彼が神として日光に祀られていることはついさっき聞かされたばかりだし、そこに突っかかっている場合ではない。
「上位存在はただの人間が及ぼすよりもはるかに大きい影響を与えられる。わしが開いた幕府が260年続いたのだって、日光に祀られたわしが存続を願ったからじゃ。わしだってただの人間のままだったら、せいぜい誰かの体に異変を起こすぐらいしかできんかっただろう。それほどに上位存在として認識されるものの力は大きい」
「では、君なら上位存在としてジャンヌの神託を妨害できるのではないか?もしかすると彼女の足止めさえできるかもしれない」
「おそらくな。だがそれはしない」
「なぜだ?」
「上位存在が人の身に降りると、その力の大きさ故にその者の意識を簡単に乗っ取ってしまうじゃろう。今のわしはただの人間としてのわしじゃ。神としてのわしに切り替えれば、この体の持ち主がどうなるかわからん」
「······とりあえず、力尽くでジャンヌの動きを止めるしかないらしい」
再び半月刀を構えるサラディンの視線の先で、ジャンヌが武士達を全て斬り伏せて階段を上りきった。直後、ジャンヌが剣を投射して、家康がこれを叩き落とす。同時にサラディンは一跳びで詰め寄って斬りかかり、ジャンヌは新たに現出した剣でこれを防いだ。尚もサラディンは攻撃の手を緩めず、家康の加勢を受けてジャンヌの行動範囲を狭めていく。
(今しかねえ!)
葛野は剣戟戦を展開する三人に走り寄り、退霊音源を再生する。効果はすぐに現れた。二人がかりでも互角だったジャンヌの動きが鈍くなり、その顔に苦悶の色が浮かび始める。四秒、五秒、六秒、七秒。
(頼むぞサラディン、家康、もう少しだ!)
葛野が決して口には出さない声援を送り、二人が同時に刀を突き出してジャンヌを後退させたときだった。
「わかりました、神様の仰る通りに」
ジャンヌが呟き、その両手に小ぶりなレイピアのような武器を現出する。
それから、両耳にその先端を躊躇無く突き刺した。
「何、やってんだ······!」
葛野は思わず洩らすが、もうジャンヌには聞こえないだろう。両耳からボタボタと血を流しながら恍惚の表情を浮かべ、レイピアを刀に持ち替えている。
「嫌な音が聞こえなくなった。やっぱり神様はいつも正しい。神様が殺せって言ってるんだから、やっぱりあなた達は死ぬべきなんです。早く殺させてください」
何も聞こえないからだろうか、加減の無い大声でひとしきり語ったジャンヌの攻撃はさらに勢いを増し、サラディンと家康はじわじわと押され気味になる。
「葛野、今度は映像を使え!」
「駄目だ家康、きっと今度は目を潰す!それではただ被験者が哀れなだけだ!」
「クソッ!エディソン、バイフィールドの資料はそっちにねえか!?」
『いや、すぐに使えそうなものは無い······強いて挙げるなら薬品型退霊か』
「······何だそれは?」
『名前のままだ。薬を用いて被験者の体のコンディションを変え、降霊状態を維持できなくさせる』
「何だよそれ、先に言ってくれ!おい聞いたか家康!」
「ああ聞こえた!サラディン、三十秒だけ一人で頼む!」
「んなことさせるかよ!刀貸せ!」
言い残した家康は戦線を離れ、すれ違いざまに葛野に刀を託した。どこまでやれるかわからないが、一秒でも長く時間を稼ぐ。その決意で葛野は突き進み、ジャンヌと刀を打ち合い始めた。一発一発が重く速い。二人に攻撃が分散しているにも関わらず、防御に徹するのがやっとだ。
(いや、それでいい。どうせおれの攻撃は届かねえ。だったらサラディンが攻めるチャンスを作れ!家康のための時間を稼げ!)
薬膳や調薬を少々かじっていたという家康の言葉は謙遜だ。彼は自ら薬草を探し求めるほど熱心に取り組み、それが長寿につながったということはこの時代において多くの人が知るところとなっている。降霊者となった今、資料さえ貰えれば薬品を作り出すことも可能だ。あとは退霊薬を体内に入れさせるために、ジャンヌの動きを止めるのみ。
葛野は左右への小刻みな移動を繰り返しながら決して攻めることなく防御を続け、できるだけジャンヌの注意を引こうとする。だが鋭い一撃が葛野の刀をへし折り、無防備になった彼をジャンヌの一振りが襲う。葛野は決死の思いで折れた刀を放り捨て、白刃取りの要領でこれを受け止めた。体重をかけて押し込まれる刃を葛野は全力で止め、この押し合いに時間を使えないと判断したのかジャンヌは剣を手放して槍を現出した。
「よけろ!」
サラディンが叫ぶと同時に突き出された槍を葛野は咄嗟に前へ転がってかわし、ジャンヌの背後を取る。振り向こうとするがサラディンの斬撃が阻み、鍔迫り合いをしている間に葛野がジャンヌを羽交い締めにした。
「やめなさい!」
今度はジャンヌが叫ぶと騎士達が一斉に出現して歩道橋を埋め尽くし、盾を並べてサラディンを後方へと押しやる。
(これじゃ家康が近づけねえ!)
歯噛みする葛野はさらに力を込め、暴れるジャンヌを必死に押さえようとする。瞬間、脇腹に灼熱の痛みが走り、後ろ手で握ったナイフで切られたのだとすぐに理解した。そしてすぐにさらに深く鋭い痛みが脇腹を駆け抜ける。今度は確実に刺された。内臓まで達しただろうか。だが例え達していても葛野には関係無い。人を殺してでも誰かを守ると決めた。ならば自分が死んでも誰かを守らねば筋が通らない。
「うおおおおおおおおぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
叫んで、挫けそうな意識を奮い立たせる。ジャンヌがもう一度腕を動かしているのがわかった。次の刺突を喰らえば死ぬ。拘束を解けば死の一撃を回避できる。だが葛野にはみすみす放す気など無かった。ここで自分が死を避ければ、誰かが死ぬかもしれない。そんな可能性は、絶対にここで潰す。
「葛野ぉぉぉぉぉぉッ!」
サラディンが敵を斬り捨てながら叫ぶが、その半月刀は葛野の元へは届かない。
そして、最後の一撃が放たれた。
葛野の動きが止まった。
彼が押さえつけているジャンヌの動きが止まったからだ。
騎士達の動きが止まった。
彼らを動かしているジャンヌの思考が止まったからだ。
戦況は決定された。
家康が上位存在としてジャンヌの神託に妨害をかけ、彼女の心身を制圧したからだ。
「やはりその身体能力も神の力によるものだったか」
呟いた家康は堂々と騎士達の真ん中へ進み入り、右腕を振るって停止した彼らを斬る。斬って、斬って、斬って、斬って。葛野の元へ辿り着く。
「家康、お前······」
葛野は目の前の男の気迫に腹の痛みも忘れて呼びかけるが家康は黙ってジャンヌの顎を掴み取り、顔を上に向けさせて強引に口を開け、左手に持った小さな盃に入った薬を流し込む。
効果は明らかだった。ジャンヌは体を痙攣させたかと思うと全身を脱力させ、手負いの葛野は思わず彼女から腕を離す。膝立ちになったジャンヌの眼は焦点が合っておらず、口の中で何事かを呟いていた。
「······み、さま」
ようやく聞き取れるようになったかと思うとヒステリックなほど大音量で、
「神様神様神様神様!わたしをまたお見捨てになるのですか!わたしはあなたのために生きてきました!これからもあなたのために生きます!人々が永遠にあなたのために生きられるよう戦います!だからお見捨てにならないでください!わたしをお導きください!神様!神様!神様ぁぁぁぁぁぁぁ!」
喉が千切れるようなジャンヌの叫び声はやがて掠れ、窄まり、白い光となって消え失せた。それと同時に騎士達も消滅し、それまで動けなかったサラディンが駆け寄ってくる。
ジャンヌが抱えていたものを垣間見た葛野は、しばし何も言えなかった。
「葛野、今すぐ手当を!」
「ああ、すまねえ。ちょっと痛む程度だ」
強がりを言ってみせるが、葛野が気になっているのは自分の怪我の具合よりも家康の方だった。左手の盃を見つめ、立ち尽くしている。
「家康······あんたなりの覚悟だ、あんたなりに納得いくまで戦え。どんな形であっても」
葛野には家康が何を考えているのか見当がついた。だから、彼の選択を信じてみようと思った。
「······そうだな。とりあえず富寿満殿やフレイヤ達と合流しよう。もちろん、サラディン殿も一緒に」
視線を投げかけられたサラディンは少し逡巡した後で葛野を見やり、
「けが人を放ってはおけない。葛野や他のけが人を安全なところまで運ぶ手伝いはしよう」
その言葉に葛野は小さく苦笑して、
「自分で動く。とりあえず早く行こうぜ、仲間達が心配だ」
「······ジャンヌさんが負けちゃったみたい。どうする?」
赤い髪の宮沢が尋ねると黒いショートヘアの始皇帝が舌打ちして、
「どうもしない。あいつは研究所にいた頃から他者に縋っていて好かなかった。まあいい囮にはなってくれたがな。スレイマンも失いはしたが、ひとまずの目的は果たした。さっさと撤収するぞ。オレの兵も一旦消す」
宮沢がパソコンからデータを移したUSBメモリを引き抜き、二人はその場を離れる。死に怯える者か既に死んだ者しかいない市役所の正面玄関から平然と外に出ると始皇帝は位相間現象の馬を現出してこれに跨がり、宮沢は黒い翼を現した。
「············待て」
声がして振り返ると、額から血を流しながらも撃鉄の無い特殊な銃を向ける女性が二人の降霊者を睨んでいた。
「富寿満さん、頑張るね。さすが隊長。でもその銃だっていつでも壊せるんだよ?」
宮沢がおどけた口調で煽り、始皇帝が刀を抜く。だが富寿満は少しも怯むこと無く、むしろ一歩踏み出してきた。それを見て始皇帝が兵甲を現出すると宮沢は手で制し、
「やめよう」
「なぜだ?敵の大将だぞ?」
「もう緊急連絡システムの作動権はワタシ達がもってるんだから、いつでも実行に移せる。それにこの人は死を怖がっていない。そんな人を殺しても意味が無いよ」
「······殺せるときに殺すのが得策だとは思うが、いいだろう。撤収だ」
そう言って始皇帝は馬に乗り、宮沢は上空へと飛び去った。
残された富寿満は銃のグリップを握り締め、誰に言うともなく苦々しく言い捨てる。
「このままだとこの街の全員が降霊者に······下手をすれば一億総降霊社会なんてことになる。そんなことはさせないがな」
学校から病院まではフレイヤが運転する空色の軽自動車に乗り、磯棟は病室まで駆け足で向かう。出発前にグラサンパーマやチープツーブロに『これでも友だちだし心配なのよな』『おい磯棟サン、おれらも連れて行きなさいや』などと言われたが、引け目を感じつつも追い返した。鹿嶋が戦闘で腹にけがを負って搬送されたのだから、彼らを連れて行ってはしゃいだ鹿嶋の傷が開くなどということは避けたい。
鹿嶋は個室のベッドで寝かされているらしく、どれほど深刻なのだろうかと不安だった。だが急いで中に入ろうとするとフレイヤが足を止め、磯棟も思わず立ち止まる。
「フレイヤさん、入らないんですか?」
「············私はいい。きっと鹿嶋くんは私に会っても嬉しくないし、私には会う資格なんて無いから。だから実理ちゃんが行ってあげて」
「······わかりました」
磯棟はフレイヤが何を知って何に苦しんでいるのか知らない。だから、自分の都合のいいように解釈するしか無かった。
「鹿嶋くん」
病室に入ると鹿嶋は起き上がっており、こちらを見て優しく微笑んだ。
「わざわざ来てくれたのか、ありがとな」
「······鹿嶋くん、大丈夫なの?」
「うん、見ての通り生きてる。医者にはなんでそんなにピンピンしてるのかわからないって言われたけど」
「そっか、良かった······」
磯棟はベッドの脇に腰掛けながら言葉を洩らした。思ったよりも涙声になっていたことも、今は何も気にならない。今はそんなことを気にしている場合ではない。
そして、今しかない。
「ここ最近でさ、鹿嶋くんがすごく危ない目にあってるでしょ?」
「磯棟もでしょ」
「まあそれはそうだけど······」
磯棟は言い淀んだ後で俯いた顔を上げ、鹿嶋と眼を合わせる。鹿嶋の顔は流石に疲れていても、その瞳はどこまでもまっすぐ自分と重なっている。その実感があったからこそ、磯棟はもう迷わなかった。
「鹿嶋くんがいてくれるのは当たり前じゃないってわかった。それでも、だから、あたしは鹿嶋くんと一緒にいたい。これから大変なことが待ってるだろうし、その後にきっといいこともあるはずだし、忘れられないこともあるだろうし······そういうことを、鹿嶋くんと一緒に頑張っていきたい」
鹿嶋は黙って聞いていた。
ただ、黙って聞いていた。
「好きです。あたしは君と一緒にいたい」
〈つづく〉
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