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3.11:2度の大地震の経験

ものを書いている者として、11年前のこの日に何事もなかったかのように過ごすことはできないと思っています。が一方で、復興についてほとんで何も支援できていないので、心苦しさもあります。震災から11年間、ずっと福島の原発や復興について取材を続けているジャーナリストに僅かばかりの応援をさせてもらっているだけです。

1回目の経験:宮城県沖地震(1978年)@仙台

学生時代に仙台にいた私は、1978年(昭和53年)の宮城県沖地震の経験者です。その時の震度は震度5だったとのことです。その時には、津波はありませんでしたが、ガスがひと月ほど来ませんでした。部屋の中には、たくさん本をカラーボックスに積んでいたので、それらが散乱した状態でした。

地震が来た時は、テニス部の練習中で、東北大学片平キャンパスのテニスコートの上でした。(このコート、今はそれがあった敷地に大きな研究棟が建って、なくなってしまいました。)震度5の威力はものすごいもので、コートにいたわれわれは、ゴーッという音が聞こえたかと思う間も無く、足元に大きな揺れが来て、立ってられず、四つん這いになりました。よく地震が来たら机の下に隠れろをかいうけれど、この時は、一歩も動けませんでした。災害というのは、予期せぬことが起こるものなのでしょう。

轟音と共に揺れが去った後は、周りの景色に変化はなく(建物の倒壊などはなし)、呑気にそのまま練習を続けたのです。

異変に気づいたのは、もう暗くなって練習が終わってからです。部室に帰ると、電気は点かない、水は出ない。もしかして大変なことが…遅すぎますけど。暗闇の中でなんとか着替えを済ませ自転車で東一番町(仙台の代表的商店街)にたどり着くまでの道々では信号機が点灯していない。商店街にいよいよ入っていくと、店々の店頭に置かれたラジオが臨時ニュースを流していました。2011年の大震災に比べれば規模は小さかったとはいうものの、1ヶ月ほどは不自由しましたし、死者も16人。街とそこここで、倒れかけた建物も見ましたし、目立ったのはブロック塀の倒壊でした(この後、建築基準法が改正されたと聞きました)倒壊した石碑とかブロック塀の下敷きになって亡くなった方もいたとか…

仙台市HPから

下宿に帰ると、おばさんが「生協行って、ありったけの食べ物全部買っておいで」と行って何万円かを渡された記憶があります。大量のパンやカップラーメンなどを抱えて帰ると、幸い電気と水道は復旧していました。でもガスが1ヵ月間来ず。仙台ガス局のガスタンクが傾いたためと後で聞きました。

2回目の経験:東日本大震災(2011年)@東京

11年前には東京にいました。神谷町の喫茶店である人と会う約束待ちをしていました。大きな揺れが来た瞬間に、大勢の人が外に飛び出したので、思わず「でちゃだめだ!」と叫んでしまいました。宮城県沖地震の時、仙台の目貫通りの銀行の2階のガラスが全部壊れて階下に落ちたことを記憶していたからです。看板が落ちてくるかもしれない。ある程度の強度がある建物にいるのなら、動かない方が安全だと思います(果たしてこの判断は正しいのでしょうか?)

しかし、この時は、津波も原発事故もありませんでした。津波の恐ろしさをまざまざと感じたのは、震災から1年経った頃宮城県の閖上(ゆりあげ)漁港を訪ねた時です。街が破壊され消滅していました。ここにいたら、ひとたまりもなかった。もう書けません。雑感になってしまいました。


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