哀しみのポルノスター

新宿区歌舞伎町の48階建てビルの21階から23階の3フロアーを貸し切ってその風俗店はあった。上の階には旧財閥系のアテネ銀行があり、下は越してきたばかりのアテネ化学が入っていた。
そのセックスサプライアミューズメントパーク「ダイヤハート」に鶯谷サチ子は棲んでいた。1日5人の相手をすする代わり特別に龍神会より専用のトイレとバス、寝室が店内に与えられていた。
鶯谷サチ子はポルノスターであった。
ものごころついた頃から色の道を実の母親から学んだ。算数も九九も出来ないが、色ごとに関することなら1万以上の言語を話すことができた(*)。
*少数言語研究団体であるSILインターナショナルの発表によると、 2022年2月時点での世界の言語数は7,1513である。
 
またその性技は仮にオリンピックがあれば金メダルを取るほどきわめていた。知識も豊富であり、「ダイヤハート」が位置する階、21、22,23に相当する四十八手(*)は、 21.つぶし駒掛け(つぶしこまかけ)、いわゆる後背位。22.本駒掛け(ほんこまかけ)、いわゆる後背位。男性側は座位。、23.〆込み錦(しめこみにしき)、いわゆる後背座位と空で言うことができた。
*四十八手には諸説あるものの浮世絵師・菱川師宣が描いた春画『恋のむつごと四十八手』とされる。48手の内容については選者によりその時代から名称、体位ともに固定されておらず、その後の時代に合わせても追加、統合などが行われている。(Wikipedia)
 
鶯谷サチ子は来年二十歳になる。そこで引退するつもりだった。もう10年以上このビルから出たことがなかった。この水槽にも似た店の中に生息しながら、ずっとその時を夢見ていた。
新宿の夜は明るく、夜になっても星が見えることなかった。鶯谷サチ子は21階の狭く開いた窓の隙間から、街から漏れる、男たちの喧嘩の声、ヒステリーな女の叫び声、泣き止まない赤ん坊の声、ヤクザたちに必死に言い訳をする債務者たちの声を聞いていた。
鶯谷サチ子は胡椒のきいた高級レストランの焼いたステーキの匂い、ニンニクを入れた家系ラーメンのスープの匂い、男女をとわない色事にかかわる恥ずかしい匂い、そしてそれらが入り混じった生ごみの腐った臭いを嗅いでいた。
鶯谷サチ子は店の中で、ほとんど裸で過ごしていた。客たちに天衣と呼ばれる薄いシーツにまとっていた。髪も数年前に煩わしく思い、すっかり剃ってしまっていた。そのためその姿はまるで弥勒菩薩であった。
弥勒菩薩とは56億7千万年後の未来に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる仏のことである。左手で天衣を抱え、右手で軽く輪を作り右頬に触れる思惟のポーズをとる鶯谷サチ子の姿を見たとき、人々は人類の終焉が早まったので仏が現れたのだと思った。そして、世界の滅亡に関して言えば、後に、そのとおりとなった。
鶯谷サチ子小さく膨らんだ胸にはその百戦錬磨の経験のたまものである漆黒の乳首が鎮座していた。
一方、陰毛は生まれてこのかた手入れしたことがなく、常に湿ったシダのようになっていた。そこを濡らさずに小用をすることは不可能のため、その湿りの半分は尿によるものであった。
 
東南アジア島嶼部とマレー半島に分布するラフレシア(Rafflesia)は多肉質の大形の花であり、死肉に似た色彩や質感のみならず、汲み取り便所の臭いに喩えられる腐臭を発し、送粉者である虫を誘引する(Wikipedia)。
つまり鶯谷サチ子の陰部はラフレシアそのものであった。
客である男たちの多くは性技と言うよりもその匂いにつられ、なけなしの金をはたきに鶯谷サチ子の元に通った。
客層には大会社の社長もいれば、国会議員、教員、都庁職員もいれば、土木・建設作業員、警備スタッフ、工場作業員、倉庫作業員、コンビニ店員、清掃スタッフ、トラック運転手、ゴミ収集スタッフ、飲食店スタッフ、介護士、保育士、コールセンタースタッフなどと底辺職業ランキングに入る職種の者もいた(*)。
*底辺職業ランキング一覧は、2021年5月までに公開された。その後、運営会社のSynergy Career(シナジーキャリア、大阪市)は、指摘を受け記事を2022年6月28日までに削除された。
 
鶯谷サチ子の名前はマスコミにも取り上げられ、その知名度と収入を夢見て、ポルノスターを目指しダイヤハートへ入店する若い娘たちも後を絶たなかった。
鶯谷サチ子は毎週アダルトサイトに出演し、1日5人の厳選された客の相手をした。
また鶯谷サチ子はアラブから来た王族の相手を務めたこともあった。そのさいは迎賓館からリムジンがダイヤハートに乗りつけたのであった。国王、6人の王子、その21人の皇太子、また24人の皇太子の息子たち、鶯谷サチ子は王位継承権順に31人の相手をし、実は6人の皇女たちの相手もした。その対価として6匹のラクダと、皇女たちに贈られるという黄金の貞操帯、そしてリビア、エジプト、スーダンの境にある小さな油田の採掘権が大使館から贈られた。
鶯谷サチ子に限らず、ダイヤハートに務める女たちの給与は階下のアテナ化学の給与をはるかに超えており、実際のところ、ダイヤハートへの応募倍率はアテナ化学のそれよりも高かった。
 
マネーとは元々各国の政府が価値を保護・保証しながら、租税や歳入や歳出を算定したり外国と交渉したりする紙に過ぎない。現代においては、紙ですらなく、電子媒体上の数字でしかない。
当然であるがそれは生きている間しか使えず、それ自体で生命や健康が得られるものではなかった。
それでも人はマネーにすべての価値を見出し、そのために争ったり、悔しがったり、騙したり、裏切ったり、殺したりしてきた。それは生物的には価値のないものなのに、生命の源たる愛さえも買うことができた。
かくしてこの飽食と飢餓が隣り合わせに存在する新宿において鶯谷サチ子の元には膨大なマネーが集まったのである。
遠くない未来、貨幣経済は破綻し、世界は崩壊するのであるが、ダイヤハートはその瞬間まできらびやかな竜宮城であったし、その水底に棲む鶯谷サチ子はポルノ界のスーパースターであった。
 
鶯谷サチ子は店を出ることはなかったが、龍神組の方針で取材を受けることは多かった。
青年漫画誌である週刊ヤングマガジン、週刊ヤングジャンプ、週刊漫画TIMES、週刊漫画ゴラク、モーニング、ビッグコミックスピリッツ、ビッグコミックスピリッツの表紙を月替わりで務めた。
週刊プレイボーイ、SPA!、週刊文春、週刊新潮、週刊ポストにも年間数億円稼ぐソープ嬢として取り上げられた。
またネットに食われて分の悪いテレビ番組雑誌である週刊TVガイド週刊ザテレビジョン、TVLIFE、TV stationにもテコ入れのため表紙に使われた。
女性雑誌であるFUDGE -ファッジ-、smart(スマート)、MonoMax(モノマックス)、UOMO (ウオモ)でも表紙をかざり更に特集が組まれた。
テレビでは徹子の部屋にゲストにも呼ばれ、WEBで対応した。実現しなかったが大河ドラマにも女優としてデビューする計画もあった。
そして時代はネットである。Netflixでは鶯谷サチ子の生活を描いたドラマが進行し、Amazon Primeではそのアニメ化も予定されていた。
ダイヤハートに務めるソープ嬢5人からなる音楽ユニットもできたが鶯谷サチ子が出ることはなかったため代役が立てられ、結局のところ、その試みは不発に終わった。
つまりこの国のその瞬間において鶯谷サチ子は経済的にも文化的にも、その中心にいた。鶯谷サチ子を中心にすべてはまわっていたのである。
 
龍神会は鶯谷サチ子の世話係としてスーという源氏名の女をあてていた。
不特定多数の男の相手をする商売女たちがもっとも恐れ、蔑む事態、つまるところスーは妊娠していた。
龍神会ヤクザたちの目を逃れ、その腹部のふくらみはもはや手の付けられないところまで来ていた。
鶯谷サチ子がスーを手元に置いたのは憐みからであるが、親から捨てられた鶯谷サチ子としてはスーの子供へのただならぬ愛情に興味がわいたからでもあった。
またスーも鶯谷サチ子に興味をもった。
水槽の底の世界で暮らすミリオネアのスーパースターは実は読み書きすら十分に出来ないのを知り、ひそかにひらがなの書き取りと算数の九九を教えてやったりした。
鶯谷サチ子はいつもシーツのような天衣をまとい、その下には何も身に着けていなかった。食事はフルーツだけで、それも指で食べていた。仕事の合間にはアニメを見たり、マンガを読んだりしていた。
その合間、合間にスーは鶯谷サチ子に勉強を教えたのだけど、この風俗界のスーパースターが何も知らないのに驚いた。
学校に行ったことがなく、アニメでしか世界を見ていなかったので、万有引力も知らなければ、地動説すら理解できているか怪しかった。
万有引力の法則はアイザックニュートンによって17世紀に発見され、地動説はコペルニクスによって16世紀に提唱されたが、21世紀に生きる鶯谷サチ子はそんなことも知らなかった。
空から雨が降る不思議さに心がひかれることがあったが、誰も何も教えてくれないので、死ぬまで知ることがなかった。それでもスーの中学校レベルの説明で、百科事典を読み始めた小学生並みには理解した。
世界は118種の元素(自然界には94種類)からなり、20世紀にはドミトリ・メンデレーエフによって周期律表が提案されたのだが、それについてはまったく知ることがなかった。
 
鶯谷サチ子は大金持ちであったが、誰も信用せず、金塊を棒状に加工し、肛門に入れて隠していた。財産が増えるたびに、その量は多くなるのだが、用をたすたびに一度それを全部出さなくてならないのが手間であった。そのころ金価格は1gで1万円程度であったが、汚れた延べ棒を良く洗ったあと、さらに人肌に温めてお腹の中に戻す仕事を鶯谷サチ子はスーにだけさせていた。何度か誘拐され、腹を裂いて、盗まれそうになったが、いつも間一髪で助かり、逆に賊が硫酸によってその目にあった。
スーは洗面器にした鶯谷サチ子の排泄物から金塊を回収するとミョウバンで良く洗った。そして鶯谷サチ子が排泄を終わり、お腹の中が空っぽになった後に、金塊を小麦粉と片栗粉でつくった潤滑剤にからめると四つん這いになった鶯谷サチ子のお尻の穴に押し込んだ。
スー自身、多くの借金をかかえ、身重で将来に不安を持っていたが、この哀れな幼い売春婦から金塊をかすめ取り自分の肛門にしまおうとは思わなかった。スーが金塊を押し込むたびに鶯谷サチ子は「ああ」と小さく喘いた。
ようやく全部押し入れると鶯谷サチ子はいつものシーツにくるまると眠った。
眠りに落ちるまぎわ、鶯谷サチ子はスーのひざまくらで髪をなでられながら眠るのだけど、短い会話をする。いつも話をするのであるが、話の内容もいつも同じであった。
鶯谷サチ子はスーの本名を聞き、スーは答える。
「飯田橋数子というんです。数子(かずこ)と書いて、(すうこ)と読みます。数学者になりたかった父親がつけた名前なんです。父親は結局、数学者どころか学校の先生にもなれず、塾の講師も続かず、勤めていた家電メーカーも倒産し、妻にも逃げられ、妻というのは私の母なのですが、父は失意と屈辱の果てに癌で死んだんです。ちっとも見習うところのない父でしたが、この名前は気に入っているんです。・・・父のことを、ずっと馬鹿と思っていたのに、こんな体でこんなところにいる・・・私の方がバカですよね。」
そこまで話したところで、スーは鶯谷サチ子が眠りに落ちたのに気がついた。膝を抜き、鶯谷サチ子に枕をあて、シーツを肩まで引き上げた。
そして灯りを落とし、次のシフト迄、鶯谷サチ子を寝かせたのだった。
鶯谷サチ子の眠りは浅く、小さな物音でも小鳥のように目を覚ました。
夢はいつも悪夢だった。幼いころに受けた虐待の記憶が染みついた汚れのように蘇ってくる。龍神組に頼んで義父をばらばらに刻んだ後に濃硫酸に溶かし、アルカリで中和した後にその溶液をトイレに流したのであるが、その日から鶯谷サチ子は便器に座ることが出来なくなった。排水管の中で復活した義父が現れるのを恐れたからである。それ以来、鶯谷サチ子は洗面器で用をたすようになった。
 
こうした苦しみから逃れるため他の女たちがするように鶯谷サチ子は一時クスリに手を出したが、スーの執拗な説得でクスリを止めてしまった。一緒にタバコも20歳になるまでダメだと言われ止めてしまい、結局20歳まで生きることはなかったので、生涯吸わなかった。
自分でも不思議であったが鶯谷サチ子はスーの言うことをよく聞いた。避妊に失敗し誰のか分からない子を身ごもった、間抜けな商売女に、同情ではなく、不思議な尊敬すら感じていた。
 
その頃の世界は長く侵略を繰り返していたかつての大国の独裁体制が倒れ、多くの小さな民主国家に分かれ、地域に平和をもたらしていた。また河川を通じて海洋にプラスチックゴミを投棄し、海洋プラスチックごみ問題を引き起こしていた国々は国際援助でゴミの回収と焼却処分システムを構築することでプラごみの流出に一定の歯止めをかけた。さらに頭を悩ませていた地球温暖化は原子力発電の世界中の進展により、温室効果ガスの発生を抑制し、その年、産業革命以降、初めて気温の上昇にストップをかけることができた。
日本に目を向けると、やみくもに進められていた移民政策に見直しがなされ、そうした費用を抑えることで年金給付年齢を引き下げることに成功し、その結果として若者の婚姻率は上向き、ひいては出生率があがり、減り続けていた人口を向上させることに成功していた。
つまり世界も日本も上手く行っていたのである。
ダイヤハートも連日大賑わい、鶯谷サチ子たちも勇気を取りもどそうと訪れる男たちの相手にへとへとになるまで働かされていた。ただそうした労働は通常のOLたちの数十倍の給金が支払われており、悪質なヒモやクスリ漬けにしようとする悪党たちもいたが、程度を越えれば、業界の秩序によって適正に処分されたのだった。
世界も、日本も、新宿の一角のこの風俗店も平和であった。幸福というものが、失われないと分からないように、誰も幸福を感じてはいなかった。その後、混乱の後に人類絶滅という危機に瀕してはじめてその頃が幸福であったと知るのであった。
 
誰も人類がこんなにも簡単に滅亡するとは思わなかった。
最初のきっかけは小さな独裁国家が起こしたささやかな実験であった。攻撃用の核開発を進めていたその小国は国連の制裁措置に追い詰められ、鉛にプルトニウム核崩壊由来の中性子を打ち込むことでゴールドを鋳造した。
*鉛(元素記号 Pb)は4種の同位体が存在するのが知られている。即ち、204,206,207,208である。ここで中性子を打ち込むことで核崩壊をうながし、原子量 197.0の金属を作ることが試みられた。即ち、金(元素記号 Au)、英語 Gold である。
 
その合成ゴールドと呼ばれた粗悪なゴールドは20万tにもおよび、ゴールドの価値を押し下げたが、ガイガーカウンターで簡単に見分けがついた。さらに装飾品として合成ゴールドを身に着けた人々におびただしい健康被害をもたらした。その結果、国際的非難の末、その小国は消滅してしまった。
この騒動はすぐ片付くように思われたが、その直後にハードカレンシーと呼ばれる通貨の暴落が起きた。
USドル、ユーロ、円、UKポンド、スイス・フラン、カナダ・ドル、スウェーデン・クローナが軒並み価値を下げた。ドルに対してとか、相対的ではなく、すべての貨幣のその価値が下落したのであった。
そして世界はほぼ同時にデフォルトした。
数千パーセントにおよぶ凄まじいインフレが起きた。そしてマネーではあらゆる購買活動が出来なくなった。人々がマネーにその価値を認めなくなったからである。
 
2021年、その兆候はすでにあった。
フランスの経済学者トマ・ピケティ氏らが運営する「世界不平等研究所」(本部・パリ)が発表した。世界の上位1%の超富裕層の資産は2021年、世界全体の個人資産の37.8%を占め、下位50%の資産は全体の2%にとどまった。
報告書によると、特に最上位の2750人だけで3.5%に当たる13兆ドル(約1500兆円)超を占めた。上位10%では全体の75.6%を占めた。1990年代半ば以降に世界全体で増えた資産の38%を上位1%が占めていた。
また世界の富豪のトップ42名の資産額の合計が、最も貧しい37億人の資産額の合計に匹敵していた(英国のOxfamのデータ)。
 
このマネーという途轍もなく不平等なゲームに人々は絶望し、マネーのために働くのを止めてしまった。すべての売買はストップし、人々は国の金利を支払うために、知らない誰かのために奴隷のように働くのを止めたのだった。
その結果、農業,林業,漁業と言った一次産業、工業、建設業、鉱業と呼ばれる2次産業、さらに商業,金融業,運輸業,情報通信業,サービス業などの3次産業もストップした。
慌てた先進国は途上国への借款を無償とし、さらに多額の資金援助を申し出た。次に資本家も持ち過ぎたマネーを放出し、今まで搾取していた途上国に寄付し、その国の公共事業、公益機関、福祉、医療、教育の無償化を進めようとした。
しかし途上国はそのマネーを受け取らなかった。マネーを受け取った国もあったが、既に価値を失っていたので結果は同じであった。
こうしてすべての国で生産活動は休止し、世界は破綻したのである。
 
鶯谷サチ子が生涯をかけて貯めた金塊も何の価値も持たなくなった。
スーは哀れな少女兵の資産がすべて無価値になったのを知ると金塊を鶯谷サチ子の肛門に入れるのを止めて、それを洗面器に入れ、共用スペースの片隅に置いたのであるが、誰もそれを盗もうとはしなかった。鶯谷サチ子の肛門からひり出したそれを、誰かは本物の糞と思い、トイレに流してしまった。
誰も、ゴールドにもマネーにも価値を見出さなくなっていた。
店の金庫は開けっ放しで、札束は道に散らばっていた。
 
世界同時デフォルトは世界中で倒産、破産、失業、暴動、飢餓、革命、紛争を引き起こし、それでもしばらくは人類は戦いに挑んだ。意外なことに国家間の紛争はなかった。代わりに国連加盟国193か国(2023年)のすべてで内戦が起こった。人類は殺戮の果て人口を半分に減らし、今まで築き上げた文明が通用しないその巨大な敵に立ち向かうのをついに止めてしまった。
そして人類はすべてを捨て、種としての静かな死を迎えつつあった。
 
そうしたころ、スーの張り出したお腹はついに臨月を迎えていた。
そして鶯谷サチ子は死を迎えようとしていた。
スーは水差しを用いて、鶯谷サチ子に水を飲ませた。
今日1日でペットボトル20本分の水をゆっくりとのみ、泌尿器科医に処方された感染症の予防薬、またはかかってしまった病の治療薬、抗生物質を鶯谷サチ子は口に含んだ。
 
「とにかく水を飲み、そして排尿しなさい。あなたのその部分に溜まった雑菌に洗い流すのよ」とスーは言った。治療を遅らせる、または病気の進行を速めるということで鎮痛剤は処方されなかった。
「痛みは恐怖でないのよ」、そうスーは言った。「罪をあがなっているのよ。」
鶯谷サチ子は他の多くの売春婦の末路と同じように深刻な性病にかかっていた。
性病、正しくは性行為感染症のことである。膣性交、肛門性交、口腔性交を含む性行為によって感染する感染症である。ほとんどの性感染症は感染初期に症状を示さない。そのため他の人へ感染させやすい。症状と徴候として膣やペニスの分泌物、性器やその周辺に生じる潰瘍、下腹部痛などが含まれる。
 
2008年には5億人の人々が梅毒、淋病、クラミジア、トリコモナスのいずれかに感染したと推定された。さらに少なくとも5.3億人が性器ヘルペスに、2.9億人の女性がヒトパピローマウイルスに感染している。HIVを除いても性感染症は2013年の一年間で14万2千人の死を引き起こした。アメリカ合衆国では2010年に1900万人が新たに性感染症に感染している。
*参考 Wikipedia
 
人類の歴史は性病との戦いであった。実際戦争で死ぬよりも多くの人が亡くなっている。
2019年には全世界で69万人がエイズ に関連する疾病により死亡した。
*2019 年世界のエイズの状況(国連エイズレポート)
 
2017年、英国の有力シンクタンク、国際戦略研究所(IISS)は9日、世界全体での武力紛争に関する調査報告を発表した。紛争による2016年の死者数は15万7千人で、前年と比べて1万人減少した。
*日本経済新聞 2017年5月
即ちエイズ死者は紛争死者数は越えている。
 
人類の死は常に行き過ぎた争いと快楽によってもたらされる。
鶯谷サチ子は世界中の男を相手にし、万国の交流に務めたのだけど、結果として世界中から菌とウイルスを集めることとなった。
 
鶯谷サチ子に確認された菌としては以下のとおり、梅毒 、クラミジア感染症 - クラミジア・トラコマチス、淋病、マイコプラズマ・ジェニタリウム、マイコプラズマ・ホミニス、ウレアプラズマ感染症、軟性下疳、、鼠径部肉芽腫、、真菌カンジダ症。
次はウイルス、ヘルペス、ウイルス性肝炎、後天性免疫不全症候群(AIDS)(ヒト免疫不全ウイルス)、ヒトパピローマウイルス。
さらに寄生虫、ケジラミ、 疥癬(ヒゼンダニ)、原虫トリコモナス症に感染してた。
鶯谷サチ子は仕事に一生懸命であったし、いつも人の名前を必死に覚えようとしていた。英語も毎日NHKラジオで基礎英語を聞いていた。それでも何も出来なかったのは脳の半分を寄生虫に破壊されていたからである。
鶯谷サチ子は若く、美しかった。透き通るような肌をしており、栗色の瞳はガラス細工のような脆さと、夏まつりのような儚さに憂えていた。
 
しかし鶯谷サチ子のその部分は年老いた商売女たちのようにドブ臭いを放つ沼になっていた。スーは鶯谷サチ子の茂み奥を見た。ナウシカの腐海を内在した怪物がそこにいた。。
貨幣に価値が失われたさいに多くの男たちは生きる意欲をなくし、実際のところその多くが自殺したのであるが、残った連中も性的に不能となって、詰まるところセックスサプライアミューズメント「ダイヤハート」のお客は全くいなくなった。店は閑古鳥が鳴き、寂しくなった女たちは互いの相手をすることで慰めあったりした。
そうした中、病状が進むにつれて鶯谷サチ子の待遇は悪くなった。今までさんざん世話になった連中も蜘蛛の子をちらすように離れていった。病原菌を拡散しないように露骨に部屋へ閉じ込めたりもした。
スーは鶯谷サチ子のためにわずかなスペースを確保し、治ることのない病の、つまるところは治療ではなくて、見送りに努めた。
 
抗生物質は微生物に作用してその発育などを抑制する作用を持つ物質のことである。
クラミジアでは主にマクロライド系が用いられる。
マイコプラズは、薬剤耐性があり、アジスロマイシンやクラリスロマイシン系などが強い殺菌効果を持つが、それでも2000年前後にはほぼ100%であった有効率は低下してきた。ウレアプラズマでは、アジスロマイシン等が推奨される。トリコモナスではメトロニダゾールによる治療が一般的である。
梅毒ではペニシリンが第一選択である。

スーは鶯谷サチ子に毎日10種の抗生物質を服用させていた。6つは経口摂取できるが2つは塗布型であった。さらに1つは目薬のであり、もう1つは耳から入れた。さらに綿棒で鼻孔に塗り、唇、口内、舌の裏まで、体中の粘膜に服用した。
スーは最後に100g入りの軟膏を鶯谷サチ子に塗った。まずは漆黒の乳首に塗った。半分を性器、大陰唇、小陰唇、アリの門渡り、尿道と陰核は念入りに、そしてドブのような膣内に塗りたくり、残り半分を肛門から体内に押し入れた。
鶯谷サチ子は今日1日我慢してきたが、どうにも尿意が我慢できなくなって、洗面器をまたぐと傍らのタオルを噛み、墨のような小便を垂れた。砕かれたガラスが尿道を通る痛みに血の涙が流れた。
黒い尿はその強い酸性によって白い煙を放つとプラスチック製の洗面器を侵し、あぶくのような焼け跡を残し、翌朝ベッドメイクたちを苦しめる強烈な臭いを放った。
鶯谷サチ子は息も絶え絶えであり、最期のときが近づいていた。
スーは鶯谷サチ子の尿を拭き取ってやると膝の上に寝かして、乳を吸わせた。まるで赤子をかけるように、鶯谷サチ子を抱いた。鶯谷サチ子はうつろな目でスーを見ていたが、
「子供の名前は何と付けるの?」と聞いた。
スーは答える。
「エコーで女の子と分かったの。だから量子と名付けたの。量子(りょうこ)と書いて(りょうし)と読むのよ。それは大学で量子力学を専攻し、結局は何の役にも立たなかった私の矜持なのよ。」
 
鶯谷サチ子は笑った。透明だった皮膚は酷い疱瘡にやられていた。頬はこけ、目にクマが出来きた。もう誰も鶯谷サチ子を美しいとは思わなかったし、鶯谷サチ子とも思わなかった。記憶という防腐性の高い媒体に鶯谷サチ子は存在したが、その他にはどこにもいなかった。
鶯谷サチ子は「ちくしょう」と叫び、死ぬのが怖いと言って震えた。優しくスーが抱き寄せるのだが、その手を払い、「てて(父)なし児を生む売春婦」スーに悪態をつくのだった。
それでもスーは鶯谷サチ子の看病を続けたのであった。
鶯谷サチ子はついに20歳になる前に死ぬのであるが、そのさいは、泣き叫び、小便と糞を漏らし、力弱くスーの乳首を噛んだ。
そして死ぬ間際、自分も何年も前に妊娠し、そのさいには龍神組からもらったクスリで始末したと告白した。
そして「私は地獄に落ちるのね」と言った。
スーは答える。
「いいえ。あなたは私のお腹に帰るのよ。」
酷い苦痛の中にあったが、そう、最期の最後、鶯谷サチ子は笑った。
 
鶯谷サチ子が死んだあと、スーは遺言を実行した。
鶯谷サチ子の股を開くとその陰毛をそり落とした。そこには義父と実母による龍神組への売買契約が刺青で彫られていた。
スーは硫酸を使ってその刺青を消した。
 
世界は死人だらけであったため、鶯谷サチ子の遺体もかなり後回しにされたが、やがて棺桶の代わりにずた袋に入れられ、パッカー車を改造した霊柩車でごみ焼却炉を改造した焼き場へと運ばれた。
どのくらいぶりだろう、スーは鶯谷サチ子を見送るために外へ出た。
誰もいなかった。龍神組のヤクザも一人も残っていなかった。
ヤクザは元々金に生きる人種なのでスーはそれは当然と思った。親を売り、友人を売り、女を売り、子供も売る連中だ。そこまでして手に入れた金に価値がなくなっては、生きる意欲もそがれるというものだ。ヤクザは皆クスリに溺れ、ごみのように死んでいた。腐ってハエがたかっており、彼らにふさわしい最期であった。
中にはスーのお腹の子の父親かもしれないと思う相手もいたが、死ぬ間際まで子供のことを考えることはなかった。
 
人類は博愛の精神を持ちながら、娯楽では殺戮を妄想し、純潔を尊びながら交尾を繰り返し、一時は80億まで数を増やした。純潔と快楽、博愛と殺戮、常に矛盾に身を置き、それでも誕生(*)から700万年生息し、恐竜と同じく、絶滅した。
*最初の人類はサヘラントロプスと呼ばれる
 
車も霊柩車以外はなく、人も誰も出ていなかった。そこにすでに街はなかった。人間は文明も誇りも、すべてを失ったのだ。
すっかり張り出したお腹にスーの服はやや小さかったが、それでも服を着て外を歩く勇気を与えてくれた。
(これからどこへ行こうか?)
スーは復活した鶯谷サチ子に話しかけると誰もいない灰色に通りを歩いて行った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?