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やさしさの正体

「○○さんってやさしいね」というフレーズ、またはそれに似たフレーズを言われたことはないにしても、聞いたことのある人は多いと思う。

そして、「やさしい」と言われている人(もちろん自分自身も含めて)が「やさしい」という言葉をかけられていう現実には誰しもが納得することが出来るはずだ。

僕自身も他人からこの「やさしい」というフレーズを言われたことはある。そのときは、人の話をちゃんと聞いている、人とは争わないからと言われたので、自分で言うのもなんだがある程度納得したのである。

しかし、先日大学の直属の後輩から耳を疑うような言葉を耳にした。
「先輩のやさしさの順位は先輩の中だと一番下か下から二番目ですよね」

ほう・・・。

まさかである。
自分の中ではトップとはならないまでも、上から2、3番くらいかなと勝手に思っていたためそのギャップに驚いてしまった。

僕のやさしさあふれるエピソードとして、実験の手伝いがある。
僕の研究室で2つの実験が同時に進行していたときのことである。

もちろんどちらの実験も僕とは関係のないことなのだが、僕の研究室のルールとして実験は研究生全員で手伝うというものがあるので、僕もできる限り手伝おうと思った。

ある週、1つの実験(実験Aとしよう)に月曜日と水曜日を手伝う予定となっていたが、どうしてもということで金曜日も手伝うことをお願いされた。

自分のことが出来なくなるので2日連続で手伝うことは、暗黙の了解で避けらるべき事態なのである。そのため、この週は事実上MAXまで手伝いを入れられたこととなってしまった。

しかしその時、もう一つの実験(実験Bとしよう)の人から衝撃的な言葉を言われた。

「火曜日と木曜日手伝ってくれない?」

こいつは僕の予定を知っていて言っているのか。

もちろん、最初は断った。
そんなことをすれば今週全てを他人のために過ごさなければいけないからだ。

それに状況を聞けば実験Bは他の人が手伝ったとしても何も問題はない。

しかし実験Bの人は、他の人には頼みづらい、快諾してくれないという僕が最も弱い同情説得法を使ってきたのである。

こう言われると、自分でも嫌だなぁとは思いつつも男気スイッチを押してしまう。
「仕方ない、でも借りだからな。」ということで相手と自分を納得させて手伝うことにした。

予定を改めて書き出すとこうなる。
月曜日ーーー実験A
火曜日ーーー実験B
水曜日ーーー実験A
木曜日ーーー実験B
金曜日ーーー実験A

恐ろしいことに、この週は実験Aと実験Bのサンドイッチどころかダブルバーガーが作られていたのだ。
暗黙の了解とは何だったのか。

その日、家に帰ってYoutubeを開き、あなたへのおすすめをクリックした際にベジータに言われた「貴様の甘さには反吐が出そうだぜ」は今でも忘れない。

ーーーそんなこんなで、実験Bは最終日をむかえようとしていた。

そしてその時、また同じ手口を使われ、最終日までの残り3日間をまさかの連続手伝いを強要されたのである。

もはや、ダブルバーガーのパンすらない。肉厚ハンバーグの三段盛りを作られてしまったのだ。
そして、僕はこの重い気持ちを堪え何とか消化した。

うすうす気が付いていたのだが、実験Bに関しては人の5倍は手伝っていた。

例えは長くなってしまったが、僕の中で重い手伝いを消化できたのは一重にやさしさであると思う。
僕の「やさしさ」の定義は「他人が困っているときにどれだけ自分の時間を使えるか」だと思っているからだ。

話は戻るがこんなエピソードを持っている僕に、やさしさ評価で最低レベルを付けたこの後輩の評価が僕の中で下がり切ってしまっていることは言うまでもない。

しかし、ここで改めて「やさしさ」について考えてみた。
「やさしさ」とは何だろうか?

<広辞苑より>
優しい・・・穏やかである。素直である。おとなしい。温順である。

ほう・・・!
まさに、僕のことである。過去に「やさしい」と言われたときの理由「人の話をちゃんと聞く=素直、人と争わない=穏やか・おとなしい」という部分がまさにぴったりなのである。

広辞苑を見たときはやはり自分はやさしさの権化であると確信したほどだ。

では、なぜ後輩からの評価はこんなにも低いのだろうか。
そこで、僕の人間的欠点を考えてみた。

まず、飲み会を断ることだ。
これは自他共に認める人間関係を気づく上でのかなりのハンディキャップとなっている。

これは認めざるを得ない。
しかし、飲み会に行くことはやさしさにつながるのだろうか。

それがつながるのである。
飲み会に参加していないと気が付かないかもしれないが、今までの数少ない経験を遡っていく内にある一つの真理に気が付いてしまった。

「先輩は後輩に奢っている」という事実だ。
奢られた後輩は先輩に恩を感じ、その先輩の評価を知らず知らずの内に気が付かないくらい少しずつ上げていくのだ。

そのため、その先輩が少しでもいいことをすると過剰に反応し、やさしさ評価がぐんぐんと上昇してしまうのだ。

もちろん、飲み会を断り続けている僕にこんな評価の上げ方はないので、相対的に下がってしまうことは言うまでもない。

しかし、考えてみてほしい。奢ってくれる人とはどんな人か。

本当にやさしい人?それとも、後輩思いの先輩?
いや違う。答えは金払いのいい金持ちだ。

奢るなんてことは必要以上の金を持っているから出来ることなのだ。
どんなに他人思いの人でもその日暮らしをしているなら他人に奢るなどという行動ができるわけがない。

妬みを持って言い換えれば、金で評価を買っているのだ。
僕はこのシステムをやさしさ評価ドーピングと呼んでいる。

次の人間的欠点は、これがやさしさ評価を最も下げている原因だと思うが、人に興味がないことだ。

正直これは子供の頃からの性格だから直らないとほとんどあきらめている僕の欠点だ。
ただこれは、人と関わるのが嫌いという訳ではない。関わらなくても問題ないなら関わろうとは思わないだけなのだ。

必要以上に関わらず、必要未満なら関わらない。
なので、一言でいうとドライなのだ。ちなみに、先ほど飲み会に行かないという行動もこの性格が顔を出している部分でもある。

では、ドライな人はやさしいとは思われないのか。

どうやら、世間の答えはイエスのようだ。

仕事や部活などどこかに所属する場合、様々な付き合いがある。しかし、ドライの関係の場合、この付き合いを断る回数が増えてしまう。

僕の場合は、プライベートな時間を削る付き合いは基本断るようにしている。即答で断ることも多々ある。
このため「冷たい」と思われるのだ。

そして「冷たい」≠「やさしい」という関係性が他人の頭の中で勝手に構築され「やさしさのない人間」という烙印を押されてしまうのだ。

つまり、これら2つのことから「やさしさ」とは「付き合いのよさ」「金払いのよさ」の二つの指標で表すことが出来るのだ。
少なくとも今回僕はこの二つで評価されたのである。

ーーー今、僕には2つの選択肢が迫られている。

1つ目は「付き合いのよさ」と「金払いのよさ」の評価を上げ、「やさしい」と思われ疲弊していく。

2つ目は今まで通り「やさしさのない人間」という烙印を抱えて生きていく。

しかし、このことに気が付いて1つ目を選んだしまうともはや「やさしさ」ではなく「あざとさ」になるのではないだろうか。

そんな人間にはなりたくないと思い、やはり「やさしさのない人間」を選ぼうと思う。

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