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遊び

「ひろちゃん、あ~そ~ぼ!」

そんな声が聞こえて窓から顔を覗かせると、クラスメイトが三人、裏のベランダに集まって手を振っている。私が子どもの頃にはよくある光景でした。いつしかそれが「今日ゲームセンターに行こうぜ」になり、また時が経って「明日ディスコに行こうぜ」になり、更に時が経って「何月何日は呑み会ね」になっていきました。遊びに行くのに約束することが前提となったのは何歳くらいのことだったのでしょうか。どこかに子どもから大人へのイニシエーションがあったような気もしますが、正確にはわかりません。

いまは子どもたちでさえ、一緒に遊ぶのに約束が必要な時代になりました。なかには当日の約束では既に遅くて、何月何日何曜日の何時という約束まで一週間も前にとりつけている姿を見かけます。その話を横で聞いていた他の子が誘われてもいないのに約束の場に赴いたことで、誘ってもいないのに図々しく来たとトラブルの要因になりさえします。

私たちが子どもの頃にはなかったことのような気がするのは気のせいなのでしょうか。野球をするにしても缶蹴りをするにしても川遊びをするにしても、とにかく人数が集まった方が遊びが広がるわけで、とにかくあちこちの家をまわっては「○○くん、あ~そ~ぼ!」と何をして遊ぶかを決める以前にまずは人数を集めることに専念する時間があったような気がします。これも気のせいなのでしょうか。正直言ってわかりません。遠い過去の話ですから、ノスタルジーがかなり美化させているところもあるのかもしれません。

私は人間のバイタリティというのが、いかに突然の誘いや突然の思いつきに予定を崩して遊べるかということにあるような気がしてならないのです。宿題をやってからじゃないと遊ばないと決めている子と、突然の友達の誘いに母親の眼を盗んで家から抜け出て遊びに行く子と、どちらにバイタリティがあるかといえば後者なのではないか。どちらに生きる力があるかといえば後者なのではないか。どちらにコミュニケーション能力があるかといえば後者なのではないか。そう感じるのです。

若さを定義するならば、それは柔軟性があるということなのではないでしょうか。柔軟性というのは縦横無尽にカタチを変えられるということです。手帳に予定がびっしりと書き込まれていて、何時何分になにをし、何時何分にだれと会うと決められていれば、どんなに有意義な予定だったとしてもそれらは「こなす」に限りなく近づいていきます。いかに時間を忘れる時間を確保できるか、そういう時間をいかに確保しようとしているか、そこが人としてのバイタリティの有無の分かれ目だと感じるのです。

〈遊び〉とは目的的でない時間を意味します。「さあ、日常のあれこれを忘れてリフレッシュしよう」という目的をもって遊び始めると、なかなか日常を忘れて遊びに夢中になることができません。この時間が終わればあれもやらきゃこれもやらなきゃということが頭の片隅にこびりついてしまって離れてくれないからです。だからこそ人はやるべきことをすべて終わらせてから遊びに出ようとします。

しかし、やるべきことがすべてなくなるという事態が大人にあり得るのでしょうか。それは遊びが終わるまでに処理しておかなければならない用事を済ませておくということに過ぎず、結局月曜日には月曜日締切の仕事がちゃんとある。それだけのことなのです。

だとしたら、今日締切とか明日締切とかいう仕事がまったくない状態に我が身を保つということこそが、実は〈遊び〉に夢中になれる唯一の方法なのではないか。私はそう考えています。つまり、常に一週間後くらいに締切を迎える仕事にいつも取り組んでいる、そういう状態です。今日明日締切の仕事は既に一週間前に終わっているという状態を保つならば、急に入った誘いにも乗ることができるようになります。自分の時間に文字通り「遊び」が生まれるわけですね。

自分の時間に「遊び」があれば、実は急に起こったトラブルにさえ対応できるようになるわけです。トラブルにさえ余裕をもってどこか愉しめるようにさえなるのです。

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