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通知表の味わい

師走です。

教師も一年で一番忙しい時期に迎えています。二学期の集大成、三学期へのつなぎ、年度のまとめを意識した、ゴールを見据えての取り組みが始まりました。職員会議では卒業式や年度末反省、次年度計画への動きが始まっているはずです。

この時期は通知表の時期でもあります。なかでも、私たち教師が思い悩むのは通知表所見です。すらすら書ける子がいる一方で、なかなか書くことが決まらない、書くことがないなんて子がいるものです。

私の母はいま、介護施設に入っています。六畳ほどの一部屋を与えられ、そこで静かな毎日を送っています。そんな狭い一室にいるのですから、私物をそれほど持ち込めるわけではありません。しかし、そこには、生活必需品や自分のアルバムと一緒に、私と妹のかつての通知表が持ち込まれています。日常的に見るわけでもないのだし、そんなものを持ち込む必要はないと私も妹も言うのですが、母は「これは必要なのだ」と譲らないのです。自分が育てた子ども二人、その通知表を八十近くなっても自分の手元に置いておこうとするのです。

私が高校を卒業したのは1985年のことです。中学校は82年、小学校は79年です。実に四十年近くも前の記録だというのに、母はそれらを自分の手元から離さないのです。

さて、私たち教師は、通知表をそういうものとして扱っているでしょうか。私はずいぶんと評価というものを大切にしてきたつもりで教員生活を送ってきましたが、今回、自分の母親を見て、正直、「通知表とはこれほどのものであったか」と驚きを隠せませんでした。

二学期の通知表は各家庭において、本人や保護者だけでなく、正月に集まった祖父母や親戚と一緒に見るものです。見るだけでなく、子どもの成長とともに「味わう」ものでさえあります。通知表所見に批判的なことを書くことは言うに及ばず、書くことがないからと抽象的な言葉で誤魔化すとか、時間がないからと紙幅に空欄をつくるなどということも許されないのではないか。よく言われることが、これまで以上に実感された次第です。

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