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『ダンジョン飯』から学ぶ人生哲学

はじめに

 『ダンジョン飯』という漫画が大好きです。今はアニメ放送もしています。ついこの間、第11話が放送されました。2クール放送らしいので、まだ半分以上内容を残しています。評判もよく、続きを期待しています。
 そんな『ダンジョン飯』を観ていて気づいたのですが、これはけっこう人生で大切なことがたっぷりと詰まっているな、と。僕の生き方そのものと共鳴するところも多いからか、ついメモを書くと、学びになりそうなところがいくつもピックアップできました。
 今回はその中でも大切な3つの人生哲学ともいうべきものを、ご紹介できればと思います。

①他人と違うことをしよう

 物語のきっかけとなるのは、主人公ライオスの妹であるファリンが、ダンジョンでレッドドラゴンに食われてしまったことです。ファリンは、食われる直前に、ライオスたちを地上にワープさせます。それから、ライオスたちのファリンを救うための戦いが始まるのです。
 お金のないライオスたちは、ダンジョンで魔物を狩り、その魔物を食すという手段に打って出ます(これがタイトルの『ダンジョン飯』の由来です)
 仲間のエルフであるマルシルの拒否反応からもわかるように、いくらファンタジーの世界とはいえ、魔物を食べるというのは、明らかに非常識なようです。
 しかし、ライオスは魔物食についての本を持っています。大変珍しいものであったとしても、過去に例がまったくないわけではないのでしょう。ですが、もちろん多くの人にとっては常識ではありません。そんなの「あり得ない」わけです。
 あえてライオスはそれをやってのけます。魔物食に興味があったという好き嫌いの嗜好も関係はしていますけど、他人と同じことをやっていても、妹のもとへは(ドラゴンの消化前に)たどり着けないという意思があってのことです。
 これから学べるのは、人は何かを成し遂げようとするなら、他人と同じことをしていても仕方がないということ。もちろん、基本的なことを学ぶのは大切です。ライオスにしてもマルシルにしても、いっぱしの冒険者として、ごく普通に名を挙げています。その上で、基礎的な知識と経験があるからこそ、「同じことをしていても、ファリン(妹)のもとへはたどり着けない」という結論に至ったのでしょう。
 この、基礎力ありきの、発想の転換。応用力。それこそが『ダンジョン飯』で、ライオスが主人公たるゆえんにもなっていると思います。

②好きなことが役に立つ

 ダンジョンに潜ったライオスたちの前に、センシというドワーフが現れます。彼は魔物食のエキスパートで、ライオスたちが魔物食に興味を抱いているのを見て、自ら力を貸そうと申し出ます。
 このセンシが、『ダンジョン飯』においてはキーパーソンの一人です。彼がいなかったら「魔物食を食べながらダンジョンを潜る」というこの漫画のコンセプトそのものが成り立たなくなります。
 彼が魔物食を愛しているからこそ、美味しく調理し、腹をしっかりと満たし、栄養もたっぷりと摂取できるわけです。
 センシは戦いにおいても、その知識をいかんなく発揮します。アニメ第4話では、ゴーレムの身体を利用して畑代わりにし、野菜を栽培していますし、死霊たちが襲いかかってきた場面では、聖水をソルベ(シャーベット)にし、瓶に詰めてぶん回して攻撃します。
 どれもこれも、センシが魔物食を好きだからこそ、思いついた知恵です。
 またライオスも同じような一面を見せます。魔物食だけではなく、魔物が好きなライオス。彼は動く鎧の正体を暴きます。また食べようとしたお化けキノコに包丁を入れると、横からは切りづらいことから、縦斬りが有効だとも気づきます。
 こうして、実は彼らの「好き」という感情が、冒険のいたるところで役に立つのです。それはもちろん、仲間のマルシルやチルチャックも例外ではありません。好きの方向性は、「魔法」や「罠」とそれぞれ違いますけど、好きだからこそ、興味関心を持ち、ゆえに知識と経験が蓄えられ、それが意外なところで役に立つ。
 これは現実世界でも同様のことが言えるのではないでしょうか。好きなことには夢中になって、いつの間にか、自分でもびっくりするような知識が蓄えられているものです。
 逆に好きでも嫌いでもない、ただ「義務」のためにたくわえる知識と経験は、凡庸なものしか身につかないでしょう。『ダンジョン飯』でいえば、ごく普通の中流冒険者みたいなものです。
 センシやライオスのように、魔物食や魔物を愛している人は、作中でも少数派です。奇異な目、特異な目で見られます。だけど、そんなものどこ吹く風で、自分の好きなものに真っ直ぐに突き進む。その姿勢には、学ぶべきところあります。

③計画は青写真でしかない

 『ダンジョン飯』を見ていて思うのは、やはり計画は青写真に過ぎないということです。本物の写真とは違う。あくまで見取り図、方針に過ぎません。それはライオスたちもわかっているようです。彼らはまったく無計画にダンジョンに潜るわけではありません。
 一応、「こうしよう」という方針は話し合い、共有します。マップだって持っています。相談だってします。ですけど、あくまで計画は計画。それが頓挫したとしても、臨機応変に対応できるのが、経験値のある冒険者というものです。
 ライオスたちも、様々な失敗をします。水棲馬(ケルピー)には裏切られますし、ウンディーネは怒らせますし、ミミックの部屋には閉じ込められてしまいます。しかしこうした様々な失敗も、経験値を活かして、乗りこえていく。どう見ても最初の計画には織り込み済みだったとは思えません。
 そもそも、ファリンをレッドドラゴンに食われた時点で、計画からは大幅に外れているわけです。
 そういう意味でも、とかく人生というものは、計画通りにいかないものだなぁと、ありきたりながら大切な結論に至ったわけです。

おわりに

 ざっくりと、学べるような要素を抽出してみました。
 考えてみれば漫画やアニメというものは、要するに「体験」です。そして「体験」というものは、ごく些細なものから大きなものまで、何かしら学べるものがあります。
 僕たちは漫画やアニメを、疑似「体験」として、お金を払って、我が身に得ている、と考えることもできるのです。
 そう思うと、やはり〈物語〉という媒体は、たった数百円から数千円で貴重な「体験」を得ることができるのですから、すばらしい文化だよなぁと、あらためて考えさせられました。
 もちろん、読書しているとき、視聴しているときには、そんな小難しいことはいっさい考える必要はありません。ただ「楽しかった」「面白かった」という感情が湧き起これば、きっと〈物語〉の作者さんはそれで満足なんだろうと思います。
 次回のアニメ12話を楽しみにしながら、この辺で筆を置かせていただきます。

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