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【台湾の面白い建物】鳳山海軍無線電信所

台湾では、日本統治時代の建物がたくさん整備されていて、実用的な建物になったり、記念館的に使われています。しかし、この場所は特別です。廃墟のまま、鳳山の郊外に置かれている。それもかつて使われた本物の軍事施設がです。
この施設を見学したことは、とても衝撃的な体験でした。後から知り合いの日本人にも紹介して、何度か連れて行っています。彼らも皆驚いていました。

南方作戦の最前線基地

台湾の南部は、現在は工業都市としての高雄市、農業県としての屏東県というイメージが強いと思います。しかし、今でも高雄左營には海軍基地、屏東市郊外には空軍基地があり、その起源は日本統治時代の軍事施設です。そのほかにも、屏東ランタンフェスティバルの行われた大鵬灣は、飛行艇の発着基地であり、屏東市に大規模に整備されている勝利新村は軍の宿舎を再建しています。台湾の南部は日本統治時代から、軍事基地の集積する拠点であった一面もあります。

このように様々な軍事施設が南方に存在しているのには、日本統治時代の軍事戦略と深い関わりがあると考えられます。日本軍は台湾を植民地として治め、ここをステップポードとして、東南アジアに勢力を伸ばす様、戦略を考えています。第二次世界大戦で、日本軍はフィリピン、香港、シンガポールをあっという間に攻略しますが、その戦闘の最前線が台湾の南部と考えられます。

その様に考えると、この鳳山にある無線基地というのは、戦前の日本軍にとってはとても重要な意味を持っていた施設であったのでしょう。戦争になった暁には、東南アジア全域に戦闘の指示を出す、総司令部的な役割を担っていたのでしょう。
戦前はこの施設は日本の三大無線所の一つであったそうです。

国民党時代は軍の更生施設として利用

第二次世界大戦が終わり日本軍が撤退すると、これらの軍事施設は全て国民党に接収されました。多くの施設はそのまま国民党の軍事施設として利用されます。海軍基地、飛行場などはそうです。今でも軍の管制地域で、一般人は入ることができません。
しかし、この無線施設は、恐らく日本軍が無線設備を全て撤去して帰ってしまったため、施設としては無用の長物となってしまったのでしょう。そのため国民党がこの施設を摂取しても、無線基地としては使えなくなっていたのだと思われます。
そして、国民党の時代はこの場所を使って、軍の訓練センター(明德訓練班)として使われています。これは、台湾の各地で軍旗違反をした軍人を収容し、彼らに懲罰を施し軍人としての再教育を行うための施設なのだと思われます。

というのは、見学をした施設の中に、壁面に自傷行為防止用のマットが張りつめてあった部屋を見たからです。その様な部屋を僕は設計したことがあります。刑務所の設計をした際に、その中に精神的に追い詰められ、自らを傷つける収容者のために、その様な行為をしても部屋の中の各部が身体を傷つけない様に、角を落とし、硬い部分は無くし、壁の表面はクッションで保護するという、その様な内装を施した部屋を数室用意します。彼らが頭を壁や机にぶつけても安全な様に配慮するわけです。
その様な部屋があることから、この訓練センターには、その様な自傷行為に陥る収容者が後を絶たなかったことが想像できます。

僕は設計はしても、その様な部屋を実際に見たことはなかったので、廃墟の中にこの様な部屋を見たときに、身体に戦慄が走りました。この場所でその様な境遇に陥った、国民党の軍人達がたくさんいたのだ、彼らが正にこの場所でその様な時間を過ごしたのだと思うと、いたたまれない想いになり、とてもその部屋を正視できませんでした。

眷村の一部として解放される

その様な施設として使われたこれらの建物は、2007年に、眷村の軍用施設の開放運動に伴い、一般の見学ができる様になりました。しかし、その様な歴史的経過を経た建物であるからか、ないしは整備のための費用が高額になるからか、観光施設としてはとても中途半端なままになっています。施設内でも一般的な建物は、眷村の集会施設として使われていたりしていますが、それはごく一部です。ほとんどの建物は、訓練センター時代のまま、或いは日本軍が撤去廃棄したままという形で残っています。

日本の戦前の軍事施設を体感できる場所

この様な特異な施設として使われており、廃墟のまま見学ができるため、日本でも見たことのない、日本軍の軍事施設のうち最も重要な一部であった建物を、戦後の状態そのままで見ることができるという、稀有な場所になっています。その様な感慨を持てる場所は2ヶ所あります。

無線基地跡
日本軍が撤収した際、無線機器のうち取り外せるものは全て取り外し、コンクリートの建屋、分厚い建具、設備架台などがそのまま残っています。

この建物の堅牢さ、壁や建具の厚さにまず驚かされます。一般のコンクリートの建物は壁厚が15cmから18cm程度ですが、この建物のそれは50cmはあろうかというものです。鉄板による建具はこれも厚さ10cm以上あります。軍事施設はこの様な堅牢なものを作るのだという、建築設計者としての驚きがまずあります。

そして何よりも、このスペースに佇むと、今から80年ほども昔には、ここで実際の戦闘指揮が行われていたのであろうという実感が湧きます。このスペースには多くの机があり、その上には無線機器が並んでいたであろうこと、一段上になっている指揮官席には、この施設を司る人物が、ひいては日本の東南アジア海域の戦闘を全て指示する指令を出す人物がいたのだ、という感慨です。第二次世界大戦の日本海軍の南方の戦闘の指揮がこの場所で行われていたという臨場感です。
映画のセットではない、実際に戦争に使われたスペースがそのまま残っている。僕は霊感の強い方ではありませんが、この場所に佇むとかつての日本の軍人の霊がここに残っている様な気持ちになりました。

巨大倉庫

もう一つは、天井高さ10mは超えようかかという巨大な倉庫です。これも鉄筋コンクリートの構造が内部で剥き出しになっています。内観の形状はヴォールト天井になっており、上部からの荷重に耐えやすくなっています。
そして、外部は土で覆われており、ちょっとした丘になっています。これは上空から見られた時のカモフラージュと、爆弾を投下された時の保護となる様に計画されているのでしょう。形としては屋上緑化となっていますが、意図するところはその様な生やさしいものではありません。戦争のために合理的に計画されているわけです。

80年前の残骸が無造作にそのままおかれている

日本という国は、軍事について語ることがタブーになっており、広い国土の中で第二次世界大戦時の軍事施設跡に一般人が直接触れる様な場所があまりありません。僕の記憶の中では、沖縄で見た戦時の洞窟跡がかろうじてそれに近いものですが、展示の意図としては、この場所で一般人が悲惨な目に遭いましたということで、あくまでも民間人が戦争の被害者になっていたことを、その空間を感じるというものです。

それと比べると、この無線通信基地跡は、戦闘の指示を出して戦争を指揮する場所です。軍事活動の中心施設です。その様な建物の残骸が、80年もの間そのまま無造作に放置されている。それを自由に見ることができる。それがとても衝撃的です。

品質の高いコンクリート工事

もう一つ、建築技術者として感心することがあります。それは、これらの施設のコンクリートの部分が、日本の品質基準でキチンと施工されていることです。コンクリートの部分の出来上がりの形がとても綺麗で、コンクリートの表面に亀裂やジャンカが少ないこと。僕の仕事は、台湾の営造会社のコンクリートの品質を確認することで、台湾人によるコンクリート工事のレベルをよく知っています。打ち継ぎの管理、密実なコンクリートを打設することなどに対し、なかなか日本と同じ様な技術レベルを要求することが難しい。
その点この建物群は、日本の建築技術者が、日本と同じ技術水準を台湾の地で求めて、それを実現しているということが、コンクリートが剥き出しになっているためよく分かります。この事にも感動しました。

エントランス

この場所の配置図です。理由はよくわかりませんが円形の形に一部長方形がかさなったかたちになっています
エントランスに入ると「永遠忠誠」と書いてある影壁があります。赤い仕上げも中華民国っぽいです。
この施設は眷村文化協會が管理しているので、台湾の他の場所の眷村と保存する意義は同じはずです。しかし、まるで修復されておらず、廃墟のまま展示されていることと、無線基地であることが他の眷村と異なっています。

教室棟

この教室らしき建物は、綺麗に修復されています。
この佇まいは平和ですね。

倉庫棟

倉庫棟の外観。鉄筋コンクリート造で表面は赤煉瓦、それを土で覆っています。
とても威圧感のあるファサードです。
コンクリートが剥き出しとなった内側の空間。
ヴォールト天井が特徴的です。
この高い天井のスペースに何が置かれていたのでしょう。入り口の高さは3mくらいしかないので、どういう使われ方をしていたのか、気になります。
反対側のファサード。土で覆われている様子がよく分かります。

事務所棟

事務所棟の様子。
これは独房であったと説明がありました。
事務所棟の様子

無線基地棟

ここは、日本軍が離れる際に、内部の電気機械設備を撤去したため、施設としての用をなさなくなり、そのまま放置されていると考えられます。
右が一段高くなっているため、指揮官が陣取っていた場所だったと思われます。
指揮台から、室内を見渡したところ。このスペースに机が配置され、無線機器がいっぱいに揃えられていたのでしょう。
コンクリートの壁は50cmほどもあり、鉄窓の厚さも10cmはあります。
指揮台の方を見返した様子。誰も人がおらず、野良犬1匹が徘徊しているため、余計に廃墟という感じがしました。
巨大な鉄扉。80年もの間このままでは、
修理もままならないでしょう。
ここは指揮台の裏側にあったスペースで、設備機械室だったと思われます。配管のための様々な設えが残っていました。
倉庫と思われる空間。
鉄扉の様子と取手の形状。物々しい建具です。

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