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終末期に透析をしたのか、しなかったのか。真の問題はそこにはないのではないだろうか。



こんにちは森田です。

いま、こちらの問題が話題ですね。


この記事、要約しますと、

5年間人工透析を受けていた40代女性が、透析継続のための処置のために総合病院を受診した際、外科医から「(死に直結すると言う説明とともに)人工透析を中止する」と言う選択肢も提示された。女性が「透析は、もういや。」と中止を選んだため、外科医は夫(51)を呼んで看護師同席で念押しし、女性が意思確認書に署名、治療は中止された。その後、女性から「こんなに苦しいのであれば、また透析をしようかな」と言う発言もみられたとのことだが、外科医は「正気な時の(治療中止という女性の)固い意思に重きを置き」苦痛を和らげる治療を実施(他の記事によると夫はこのとき急病による手術・入院中で、現場にいなかった)。女性は16日午後5時過ぎに死亡した。外科医は「十分な意思確認がないまま透析治療が導入され、無益で偏った延命措置で患者が苦しんでいる。治療を受けない権利を認めるべきだ」と主張している。(上記毎日新聞記事、および https://mainichi.jp/articles/20190307/k00/00m/040/004000c より抜粋引用)


皆さんは、この記事を読んでどう思われるでしょうか。

僕はこう思いました。


終末期に透析をしたのか、しなかったのか…

ガイドラインに沿っていたのか、いなかったのか…

同意書にサインがあったのか、なかったのか…

本当の問題はそこではなく、

患者本人・家族・医療従事者との間に

『信頼関係に基づく対話』があったのか、なかったのか?

そこにこそあるではないか。


と。


事実僕もこれまでの医師人生で、

最終的に「透析をしない(中止する)」

という選択をされた患者さんも何人か見てきました。

(ちなみに、こちらの報道では患者さんは最期「息が苦しい」などと訴えられたとのことでしたが、僕の経験した方々の「透析のない終末期」はみな苦しみのない穏やかな最期でした。まぁ、年齢もこちらの方ほど若い方はいなかったので比較にならないかもしれませんが)


また、胃ろうから栄養を摂りながら入院されてた方で、胃ろう栄養を中止、少しずつ口から食べながらお亡くなりになった方もいました。

こちらの記事に詳細を書いております↓↓


臨床の現場では、こうした「命を救うという医学的正解」とは別の、「患者さんの人生にとっての自己選択」に直面することがあります。

さらに、一度決めたその患者さん自身の選択も、その過程において「揺れる」ことが多いです。


上記のぼくの記事にも書いておりますが、そんな時僕が大事にしているのは、


患者さん・ご家族との信頼関係を基礎として

その思い・決定を尊重しながら、

揺れる想いにもしっかり寄り添って最期まで対話し支援すること。


です。


大事なのは、

「人口透析をしたか」、「ガイドラインに沿っていたか」や「同意書をとったか」などの『結果』ではなく、

そこに向かうなかでの「信頼関係」や「対話による支援」という『過程』にこそあるのではないかと思います。


最近は世間でもリビング・ウィル(事前指示書)が広まってきましたし、また医療界でもACP(アドバンス・ケア・プランニング)やSDM(シェアド・デシジョン・メイキング)など、終末期の意思決定支援についていろいろな議論がなされています。

特にACPについては、先般の診療報酬改定によって報酬算定要件に盛り込まれたことにより、「形式的に同意書をとって終わり、そのためのACP」のようなことも行われがち…と聞いています。


かつてのインフォームド・コンセント(IC)も、「患者さんが自己決定するために行う十分な説明とその結果としての同意」という本来の趣旨から徐々に、「同意書をとるための説明」という側面が強くなっていった経緯があります。


今回の件で、亡くなられた40代の女性およびご家族と医療者との間に、どのような信頼関係があったのか、どのような対話があったのか、現時点では双方の主張が一部報道されているだけで、本当のところはわかりません。

ですので、一方的にどちらがどう、と決めつけることは僕には出来ません。


ですが、皆さんにぜひ考えてほしいのは、

結果ではなく「過程」を重視することの意味。です。


結果として「透析をしない」と言う選択肢をとったことも、もしかしたら問題なのかもしれませんが、実はそれにもまして、


「透析をしないという選択肢すら提示できない(=信頼関係を基礎とした対話による支援がない)」


という医療も同じように問題なのです。


(写真はイメージです)


医療従事者の方々。思い当たるフシはありませんか?



…このあたりのこと、つまりサイエンス(理系)とは別のアート(文系)的な医療については、これまでの医学教育で大きく欠落してきた部分なのではないかと思います。

まさに、その問題が今回の件で明らかになったのかもしれないな〜、と個人的には感じました。

でも今回のことは氷山の一角。

人生の終末期において、本来の意味のACP=信頼関係を基礎とした対話による支援を受けられて、その上での自己決定が出来る、そうした恵まれた方は現状ではそんなに多くないでしょう。
医療者から見れば、そこには本当に多くの物理的・心理的な仕事が生じるわけで、ただでさえ医師不足・人手不足と言われる医療現場の中でそれを求めるのは酷なことなのかもしれません。

そういう意味でも、今後の医療界がどこまで本当の意味でのACPの精神を受け入れられるのか。
医療界全体が、どこまで本気で「患者の思いに寄り添う覚悟があるのか」

いや、国民全体がどこまで本気で「医療の本質を変えようとしているのか」

いま、そこが問われているのではないかと思いました。



でも・・この僕の考え方、今の世の中ではちょっと突飛かもしれませんね(^_^;)

皆さんはどう思われるでしょうか。



ぼくの本

財政破綻・病院閉鎖・高齢化率日本一...様々な苦難に遭遇した夕張市民の軌跡の物語、夕張市立診療所の院長時代のエピソード、様々な奇跡的データ、などを一冊の本にしております。まさにこれがACP・地域包括ケアシステムのあるべき姿だと思います。
日本の明るい未来を考える上で多くの皆さんに知っておいてほしいことを凝縮しておりますので、是非お読みいただけますと幸いです。




著者:森田洋之のプロフィール↓↓

https://note.mu/hiroyukimorita/n/n2a799122a9d3



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夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。元夕張市立診療所院長として財政破綻・病院閉鎖の前後の夕張を研究。医局所属経験無し。医療は貧富の差なく誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」である!が信念なので基本的に情報は無償提供します。(サポートは大歓迎!^^)