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【大乗仏教】中観派 空性

龍樹(ナーガルジュナ)の空性の定義は依存性(相依性)であり、何かに依存せずに生起したものは存在しないと説きます。そして、この空性を会得する者には全てのものが会得されるとします。逆に、龍樹にとっての本体・自性とは自立・恒常・単一なものであり、このようなものは存在しないと主張しています。

龍樹が説く相互依存関係の例として、これまで「原因と結果」をメインに紹介してきましたので、それ以外についても触れていきたいと思います。相互依存的に成り立つはずの関係を、本体の理論で考えると矛盾することを龍樹は主張していきます。

例①:主体(行為主体)と作用(行為・運動)
【去る主体と去る作用】
ともかく、既に過ぎ去られたものは過ぎ去られない。未だ過ぎ去られないものも過ぎ去られない。過ぎ去られたものと、未だ過ぎ去られないものとを除いて、過ぎ去られつつあるものが過ぎ去られつつあるものが過ぎ去られるわけでもない。~
過ぎ去られつつあるものにどうして過ぎ去る運動が有りえようか。過ぎ去ることのない、過ぎ去られつつあるものなどは、考えられはしないのに。過ぎ去られつつあるものに過ぎ行く運動があると考える人には、過ぎ去る運動なしに過ぎ去られるものがあるという不合理が付き纏う。なぜなら、過ぎ去られつつあるものが過ぎ去られるのだから。過ぎ去られつつあるものに過ぎ去ることがあるならば、二つの過ぎ去る運動があることになる。過ぎ去られつつあるものをそうならしめている過ぎ去る運動と、そこに行われている過ぎ去る運動とである。

これは「行くものは行かない。行かないものも行かない」という言葉が有名ですね。行く主体と行く運動が同一であれば両者が一体となり、別異であれば行く主体なしに行く運動があり、行く運動なしに行く主体があるという不合理に陥ると、龍樹は同一性と別異性のディレンマに持ち込みます。
有部の本体(自性)の定義は「法体は1基体1(種)作用」でしたが、龍樹の定義ではこのようなものは本体(自性)に含まれません。あくまで、基体と作用が重複した現象世界のものなので、同一性と別異性のディレンマで龍樹は反論します。

例②:認識と認識対象
もし、君にとってあれこれの対象が認識に基づいて確立されるとするならば、君にとってそれらの認識はいかにして確立されるかを語れ。あれこれの認識の対象は認識に基づいて確立されると君が考えているならば、今度はその認識は何に基づいて確立されるのか。まず、もし、認識はもう一つの認識を待たないで確立されると言うならば、ものは認識に基づいて確立されるという君の主張は破綻を来す。しかし、また、もし認識が他の認識によって成立するならば、その過程は無限に遡ることになる。また、認識の対象は認識によって確立され、その認識は他の認識によって確立されると君が考えるならば、こうしてその過程は無限に遡及することになってしまう。無限遡及に陥る時にはどのような誤りになるかと言うと、その場合、最初のものが確認されない。中間のものも、最後のものも成立しない。

認識対象(客体)が認識主体に基づいて確立されるにしても、認識主体そのものは何によって確立されるのか?と龍樹は主張しています。その認識主体aが認識主体bによって確立される場合、無限遡及に陥るのではないかと主張しています。龍樹は認識主体と認識客体(対象)の相互依存関係を説いているものと思われます。

例④:定義と定義対象
空間の定義より前には如何なる空間も存在しない。もし、定義よりも前にあるとすれば、それは定義されていないものとなってしまおう。けれど、定義されていないものなどはどこにも存在しない。定義されていないものが存在しないときに、定義はどこにおいて行われるのか。定義されていないものにおいて、定義は行われない。定義されているものにおいても行われない。定義されているものと定義されていないものと異なったものにおいても行われない。定義の行われない所には定義の対象はありえない。定義の対象のないところには定義もありえない。だから、定義の対象も存在しない。定義と定義の対象とを離れた如何なる事物もまたない。

例⑤:過去と現在・未来
もしも現在と未来とが過去に依存しているのであれば、現在と未来とは過去の時の内に存するであろう。もしも、現在と未来とが過去の内に存しないならば、現在と未来とはどうして過去に依存して存するであろうか。さらに、過去に依存しなければ、現在と未来の成立するっことはありえない。それ故に、現在の時と未来の時とは存在しない。

単に依存し合っているというよりも、空性なるものは相反する複数の側面を有していることが分かります。量子論において、粒子である電子が粒子性と相反する波動性をも有していることが解明されました。それまで、我々は粒子としての電子しか観測できないため、電子の粒子としての一面しか見てこれなかったのです。このように、言葉・概念の形而上学にとらわれている者達は、物事をある一面からしか見れていないと龍樹は指摘していると思われます。