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【大乗仏教】三界唯心

「華厳経」は如来蔵思想の原点と言われていますが、同時に唯識思想の原点の一つではないかともいわれています。唯識思想は主観的契機(内界)のみならず、客観的契機(外界)をも識(心)から現れ出るという思想であり、外界は存在しないとします。

華厳経 夜摩天宮菩薩説偈品より
その時、如来林菩薩は仏の神通力を承り、普く十方を観察し、次のような偈頌を唱えた。

如来林菩薩:
「例えば、巧みな画家が諸々の彩色を分布することを考えてみましょう。その絵の中に描かれるものはその通りに(実物である絵のモデルや題材自体と異なり、実在として)存在しているものではないが、(絵は)様々な姿を現します。しかし、その実質(絵のモデルや題材自体)を尋ねると、四大元素(地・水・火・風)から構成されているということには何の区別もありません。四大元素が彩りされた彩色ではなく、また彩色がそのまま四大元素ではありません。また、四大元素の本質を離れて彩色があるわけでもありません。そのように、心は描かれた色・形ではないし、また描かれた色・形はそのまま心ではありません。心を離れて別に色・形があるわけでもなく、また色・形を離れて心があるわけでもありません。その心は永遠にとどまるものではなく、実に時間に限ることができないものです。凡夫が考えて思い量ることができないものです。一切の形を顕し出して、そしてお互いに知らない。ちょうど巧みな画家が描く主体としての心を知ることができないようなものです。その例えを適用すると、あらゆるものについてそのように言うことができるのです。心は巧みな画家のようなものであって、種々の五蘊(から成る衆生)を描き、いかなるものでも心に基づいて現れます。心のように仏も同じです。仏のように衆生もまた同じです。心と仏と衆生のこの三つは区別のないものです。つまり、仏は私達凡夫から遠く離れたものだと、人々は思いがちですが、そうではなく、仏は本来は衆生であり、それを更につきつめて考えると心に他ならないということです。だから、諸仏はことごとく『一切は心から現れ出る』ということを了解しています。もしも、このように理解したならば、その人は真の仏を見るでしょう。仏を見るということはこの道理を体得することなのです。だから、人が三世の一切の仏を知ろうと思ったら、次のように観ずべきです。『心は諸々の如来を造る』と。」

如来林菩薩は例えの表現として、下記の①~④を用いています。

①巧みな画家:絵画を描く者
②描かれた色と形:平面上に描かれた絵画のモデル、対象や題材等
③諸々の彩色:絵画上のモデルや題材を構成する彩色
④四大元素:実際の絵画のモデルや題材自体を構成する要素

これらの①~④は、次のものを例えたものと筆者は考えいます。

【如来林菩薩が例えたもの】
①心
②多様な衆生の精神・身体と、衆生が生存する器世間
③五蘊(色・受・想・行・識)
④過去世の業・潜在煩悩・残存印象

画家は、モデル・対象・題材等を基に、彩色を用いて、平面上にそれらを描きます。「①心」は、過去世の業・潜在煩悩・残存印象を基に、五蘊を用いて、多様な衆生の有り方とその衆生が生存する環境世界を造りあげます。つまり、④において煩悩が無く、功徳に満ちていれば、「①心」は仏(如来)を描きあげるということであると思われます。

このように解釈しますと、「①心」とは「如来蔵」「光り輝く心」を指していることになります。④は「阿頼耶識の種子」となり、①と④を合わせると「阿頼耶識」です。如来蔵思想では如来蔵を心とし、唯識思想では阿頼耶識を心とします(無形象唯識派は阿頼耶識の中心に光り輝く心を別途たてますが)。即ち、「華厳経」はより如来蔵思想に近い視点で、「心」という言葉を用いていることが分かります。

〇十二縁起と三界唯心
「華厳経」では、釈尊が説いた「十二縁起」も「心」一つに収斂されるとします。

華厳経 十地品より
「何ものでも、この三界(欲界・色界・無色界)のうちに存するものは、ただ心のみである。十二縁起はすべて如来が区別して説かれたのであるが、それらはすべて一つの心に依存しているのである。いかなる事物についてでも、欲情(欲望)を伴った心が起こるならば、その心は「識」である。その事物は「行」である。「行」のうちにあって人を迷わすもの、それは「無明」である。「名色」は「無明」の心とともに生ずる。」

無明(潜在煩悩の無明・迷妄・愚癡)と行(業・残存印象・その他潜在煩悩)が④に含まれ、①心と④を合わせて識となります。ここでの「識」は唯識思想の「阿頼耶識」に相当しており、ここから一切が展開していくとします。