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【大乗仏教】中観派 アートマンに関する同一性と別異性のディレンマ

龍樹はアートマン(自我・真の自己)とカルマ(業・諸行)について以下のように説いています。

中論 第十八章 アートマンの考察 より
龍樹:
もし、自我(アートマン)が身心の諸要素(五蘊)と同一であるならば、それは生滅するものとなろう。身心の諸要素(五蘊)と別ならば、それらの要素の特徴のないものとなろう。自我の無いときに、どうして自己の所有があるであろうか。自我と自己の所有の消滅によって、人は自我意識もなく、所有意識もない者となる。自我意識、所有意識を離れた人もまた存在しない。自我意識や所有意識を離れた人がいると見る者は事実を見ない。内と外とに『われ』もなく『わがもの』も無ければ、執着は滅し、この消滅によって再生も尽きる。業(行為)と煩悩の止滅によって解脱がある。業(行為)と煩悩は思惟(分別思考)より生じる。それらは言葉の虚構(形而上学的論説)による。言葉の虚構は空性によって滅せられる。諸々のブッダは『自我が有る』と仮説し、『無我(アナートマン)である』とも説き、また『自我なるものは無く、無我なるものも無い』とも説いた。心の対象が止滅するときには、言葉の対象は止息する。というのは、ものの本性は涅槃のように生じたものでも、滅したものでもない。他のものを通して知られず、静寂で、言葉の虚構によって論じられることなく、思惟を離れて、種々性を越える。これが事実の形である。」

空七十論より
龍樹:
「業(カルマ)は実体が存在しないと示されているのであるから、それ故にそれは生起せず、したがって消滅しない。業はかの我執から生起し、それを生起せしめる執着そのものも思惟から生起する。もし、業が実体としてあるならば、それから生じた身体は恒常となるであろう。苦の果報を招くものとならないであろう。それ故に業も我となるであろう。~
業は煩悩を因とするものであり、諸行は煩悩と業を本質とし、また身体は業を因としている。この三者はともにそれ自体としては空である。業が無ければ、業の作者はなく、その両者がなければ、業の果報はない。それ(業の果)が無いから、業の果を受ける者はなく、それ故に寂離である。真実を見ることによって業は空であるとよく認識するならば、業は生じないし、業がないならば、業から生じる果も生じない。~
もし実体として業があるならば、涅槃も業の作者もない。もし、業が実体としてないならば、業が生起せしめる善や不善の結果は存在しない。」

龍樹は主観的な本体・自性であるアートマンを認めません。そして、身心の源になる業(カルマ)もまた、客観的な固有の本体性・自性を持つものでなく、空性と説いています。つまり、身心の諸要素である五蘊とその源になる業は空なので、生起・消滅する特徴を有することになります。

○アートマンに関する同一性と別異性のディレンマを用いて
次回から、主に龍樹の「アートマン(自我)と五蘊(心身)に関する同一性と別異性のディレンマ」を例にして、中期中観派を見ていきたいと思います。ということで、今回は先にその龍樹のディレンマ自体に触れていきます。

もし、自我(アートマン)が身心の諸要素(五蘊)と同一であるならば、それは生滅(生起・消滅)するものとなろう。身心の諸要素(五蘊)と別ならば、それらの要素の特徴のないものとなろう。

このディレンマは、輪廻の主体として、アートマン(自我・真の自己)の実在性を主張する者達への反論になります。

大前提:
自我と身心が同一ならば、自我は生滅するものである。自我と身心が別異ならば、自我は身心の諸要素の特徴のないものとなる。
小前提:
自我は身心と同一であるか、別異であるかである。
結論:
故に、自我は生滅するものであるか、身心の諸要素の特徴のないものとなる。

アートマン(自我)が本体(自性を持つ)というのであれば、アートマンは身心と同一であるか、別異であるかのいずれかであると龍樹は主張します。龍樹の立場では、アートマンが本体である以上、ある部分は同一で他は別異であるという量化は認められないのです。故に、同一か別異かの選択肢しかありません。ここで、アートマンは身心と同一であると主張すると、「ならば、アートマンは身心の諸要素と同じく生起・消滅するもの(無常なるもの・空性なるもの)となり、自派のアートマンの定義と矛盾するものとなろう。」との反論が龍樹から返って来ます。この反論は適格と思います。

逆に、アートマンは身心と別異であると主張すると、「ならば、アートマンは身心の諸要素の特徴のないものとなろう。」との反論が龍樹から返ってきます。身心の諸要素の特徴のないものは存在しないということです。しかし、こちらの反論は反論として不十分に思えます。

身心と別異の自己・自我・アートマンを説くのは主にヤージュニャ・ヴァルキヤ、ヴェーダーンタ学派やサーンキヤ学派であり、彼らは世界外に、輪廻の主体として身心の諸要素の特徴を持たない常住かつ照明作用を持つアートマン(プルシャ)は存在すると説きます(サーンキヤ学派は、輪廻の主体についてはリンガとしていますが)。つまり、これでは、存在する、存在しないの言い合いになってしまうのです。アートマンについては、それが存在するかしないかではなく、各々が説く「輪廻のメカニズム」について徹底的に議論し合った方がよかったのではないかと思います。

さて、このような特徴を持つ龍樹の論理(特にディレンマ・四句否定)を、本当に中期中観派は通常の論理の形式に置き換えることができるのでしょうか?